第2話 まだ名前を知らない

「俺に言っていますか?」


 驚いて意味不明な言葉が出てしまう。それくらい何が起こっているのか理解できなかった。


 目の前に立っている彼女を知っている。

 たまに廊下で見る人だった。それ以外の情報は何も知らない。そして同じクラスである。


 けど、花と俺は明らかに住む世界が違う。


 学年で一番可愛いであろう彼女が何故か俺に話しかけてきている。それだけは分かる、けどそれ以外は分からない。


 状況がいまいち掴めていない翔と違い花は冷静な瞳を向ける。雨が降っているためか視界がぼんやりとしている中でも花の瞳は光っていた。


 心まで綺麗にするかのような瞳は翔の心をえぐる。


 何か悪いことをしたんじゃないかと思わせるくらいの瞳。


「はい。あなたに言っています……」

「何もないですよ」

「本当ですか? 何か困っていることがあるなら相談に乗りますよ?」


 明らかに花の様子はおかしい。

 鞄は持っていなくて制服も濡れている。明らかに俺と似たようなことがあったのだろう。

 そうじゃなければ彼女の瞳が赤くなっている説明が付かない。


「いえ大丈夫です。ただ息切れをしてしまって、体力がないんですよね。それより……」


 俺の言葉を聞いている花は泣き始めていた。


 一変した空気。


 誰も理解できない状況の中で翔は何とか言葉を探す。


「あの!? 大丈夫ですか?」

「あ、えっと、そのごめんなさい」


 花は手で涙を拭き、服の端を掴み下を向いた。翔の瞳に映っている花の姿は普通ではなかった。絶対的に悲しいことがあったのだろう。


 それは誰がどう見ても分かった。

 だけど、翔にはそれを訊く勇気が出なかった。安易な優しさが人を傷つけることだってある。それなのに勝手に踏み出してもいいのだろうか。


 花は助けを求めようとしているのだろうか。地面を撃つ雨は激しくなる。鞄から折り畳み傘を取り出し広げる。


 立ち上がり雨から彼女を守る。


「濡れますから」


 そう言いながら俺は傘を花に渡す。

 花は小さな手で傘を受け取る。小さく「ありがとう」と声を漏らすが雨によってその声は消される。


 翔は安堵した目で花を見つめては歩き始める。


 選んだ道は話を訊かないこと。

 今の自分では何も力になることはできないと判断した。親友だと思っていた夏美からの裏切りは翔の心に深い傷を残した。


 誰かとの関わりの結末を知ってしまった。人は表と裏があるということをも知ってしまった翔にとって、人を信じることはできなくなっていた。いや、できるはずがなかった。

 人を信じた結末を知っているのに更にその奥に向かおうとする人はいない。いるとするのなら恐れを怖がらない人だ。だけど翔は違う。

 人からの評価を怖がり。人から向けられる悪口、視線、ありとあらゆる表現が恐いのだ。


 親から投げられた言葉。かつての友達だった夏美から言われた言葉。

 その全てが翔を前に進ませない足枷となっている。

 そんなことは翔にも分かっていた。


 家に着いた翔は濡れたままリビングに向かいソファーに腰を下ろした。

 濡れているズボンはぐちゃぐちゃになっていて、制服は薄くなっている。

 けどそんなことはどうでもよかった。


 先程泣いてた花を見捨てた。助けを求めている花を助けようとはしなかった。


 俺は何ができるのだろうか。


 夏美に裏切られて、助けを求めている花を見捨てた。


 俺が全部悪いんだ。


 あろうことか翔は自分が悪いということで全て解決した。


 自分の本当の気持ちを吐き出さないで封印してはなかったことにする。

 そいういう考えしかできない自分が嫌いだ。変わろうと思えば思うほど変われなくて、変わりたいと願えば願うほど変わることができない。


 世界は理不尽だ。

 黒くなっていく心。溢れてしまう負の感情。どこにもぶつけることができない思い。



 変わりたい。変わって見返したい。

 頭の中で何が光る。決して大きな光ではない。ただ蝋燭のようにはっきりと熱くて小さくて大切な光。そんな光が翔の心に宿る。


 もう嫌なんだ、自分を騙しては傷つけては泣いたりして、思ったことを口に出さないで顔を読んだりして、そんな自分が大っ嫌いだ。


 変わろう。変わろうじゃないか。

 そこで翔は立ち上がり家を出る。地面を撃つ雨は悲鳴の如く降っている。だがそんなことはお構いなしに翔は走る。


 小さなことからでもいい。やりたいと思ったことからやろうと思えばいい。



 俺は花を助けたい。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る