第2話

 「なあ、遼ってさ。高校のとき、好きな子いた?」


 キャンパスの片隅、木陰に設置されたベンチに並んで座りながら、悠人が唐突に問いかけてきた。頭上の枝からは蝉の鳴き声が降り注いでいる。遼はノートの端をぼんやりと指でなぞっていた手を止め、無言のまま顔を上げた。


 「……どうした、急に?」


 「いや。なんか気になってさ。お前って、あんまそういう話しないし」


 悠人はペットボトルの水を一口飲み、肩をすくめた。彼のそういう軽さが、遼にとっては救いでもあった。


 「いたよ」


 ふと、そう口にしていた。自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。


 「へえ、マジか。どんな子?」


 「……静かな子だった。すごく優しくて、でも、なんていうか、どこか無理してる感じの」


 「無理してる?」


 「うん。たぶん、笑うのが癖になってただけで、心から笑ってたわけじゃなかったのかもって。今になって思う」


 悠人は目を細めて、少しだけ真剣な表情になる。


 「なんで、その子に惹かれたんだ?」


 「わからない。ただ、気づいたら目で追ってた。隣にいると安心した。──それだけで、十分だったんだ」


 遼は言いながら、胸の奥で疼く感情を感じていた。五年前の夏、何も伝えられなかった後悔が、今も体のどこかに残っている。


 「結局、その子には言えなかった。気持ちも、未来のことも。全部、黙ったままだった」


 「……そっか」


 悠人の声は、珍しく低く落ち着いていた。普段は軽口を叩いてばかりの彼が、言葉を慎重に選んでいるのが伝わってくる。


 「今でも、会いたいって思う?」


 「……毎日思ってるよ」


 静かに返したその声には、微かに震えが混じっていた。


 ──五年前。澪がいなくなったあの日、遼は一度も泣かなかった。


 涙を流すことで、彼女の存在が“本当に消えた”と認めてしまうようで怖かったのだ。


 「その子、どんな風にいなくなったの?」


 悠人の問いに、遼はしばし黙りこむ。蝉の声が一層強くなり、まるで記憶の底を掻きむしるようだった。


 「ある日、突然。前触れなんて何もなかった。いつも通りに話して、別れて、それきり」


 「連絡も?」


 「ない。置き手紙も、携帯の履歴も、何もなかった。……まるで最初からいなかったみたいに、きれいに消えたんだ」


 そう語る遼の横顔を、悠人はしばらく見つめていた。だが、それ以上は何も言わなかった。ただ、小さくため息をつくと、少しだけ話題をそらすように言った。


 「そういうのってさ、物語みたいだな。誰かがふっといなくなって、それをずっと引きずってるっていう」


 「……物語なら、再会があるんだろうな」


 「現実には?」


 「ないよ。そんな都合よくはいかない」


 遼の声には諦めが滲んでいた。


 「でも、お前がまだその子を思ってるの、俺はいいことだと思うけどな」


 「なんで?」


 「だって、誰かを本気で想えるって、それだけで強いじゃん。お前、弱そうに見えて、意外とタフだよな」


 遼は思わず苦笑した。


 「タフじゃないよ。……未練がましいだけだ」


 「でもさ、そういう未練って、案外その人の人生を支えてたりするもんなんじゃね?」


 悠人の言葉は、どこかで読んだ詩の一節のようだった。遼は何も返さず、空を見上げた。夏の空は眩しく、すべてを呑み込むように広がっていた。


 ──澪。


 君がいなくなってから、僕はずっと時間を止めたままだ。


 好きだった。


 ずっと、ずっと、好きだった。


 でも、それを伝えることができなかった。


 その悔いが、僕のすべてを縛り続けている。


 「……あのとき、ただ好きって、言えてたらな」


 それは遼の口からこぼれた、ささやかな祈りのような声だった。


 「言わなかった理由、あんの?」


 悠人が問いかける。


 遼はしばらく黙った後、目を伏せて呟いた。


 「怖かったんだ。伝えたら、壊れてしまう気がして。今の関係も、彼女の笑顔も──全部が」


 「……そういうの、あるな」


 悠人の言葉に、遼は顔を上げた。彼の表情は、どこか寂しげだった。


 「俺もさ、昔一人だけ、本気で好きになった子がいた。でも、言えなかった」


 「……そうなんだ」


 「うん。ま、俺は今も後悔してるけどな」


 ふたりは、しばし無言で並んで座っていた。蝉の声と、遠くから聞こえる笑い声だけが、夏の午後を満たしていた。


 「なあ、遼」


 「ん?」


 「その子がもし、今目の前に現れたら──どうする?」


 遼は、まっすぐに悠人の顔を見た。そして、ゆっくりと口を開く。


 「……もう、一度だけでもいい。ちゃんと、気持ちを伝えたい。たとえ、忘れられてても、覚えてなくても、それでも」


 その言葉に、悠人はうなずいた。


 「そっか。……いいじゃん、それ。そういうの、俺は好きだな」


 遼の胸の奥に、小さな熱が灯った気がした。


 言葉にすること。それは、過去を終わらせることでもあり、新たな一歩を踏み出すための決意でもある。


 ──けれど、運命はいつも予想の外側にいる。


 遼が「再会なんてあるはずがない」と信じていたその日常は、音もなく、少しずつ揺らぎ始めていた。

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