ティーパーティー@ジブラルタル

南 伽耶子

ジブラルタルのレディ・グレイ

「わあママ、やられた!」

「あらあらカモメも美味しいものを食べたかったのかしらね」

白いサンドレスを着た若い母親が、水着に青いシャツを羽織った男の子を振り返った。

その子の手にした紙皿には、さっき屋台で買ったばかりとみられるフライドポテト、小魚のから揚げ、近くで捕れた地魚の切り身のこんがりと焼けたグリルがこんもり山になっている。

そのひと盛りの一角が崩れ、ごちそうが砂の上にこぼれそうになっていた。

白く長い海岸に陣取った、自分たちのビーチパラソル下で食べようと思ったのか、母親の後ろで大事に捧げ持って歩いていた様子。

そこに目こぼしなく見張っていた鴎が来襲、小魚をさっとつかんで取っていったのだ。

「坊や、そりゃ不運だな。ここじゃ人間のスリに加えて、どろぼう海鳥も気をつけなきゃならねえからなあ」

屋台のソーダ水売りが、禿げあがった頭にバンダナを巻いて、でっぷりとせり出した腹を震わせ笑った。

一年中太陽の強烈な光が降り注ぐアンダルシアの、コスタ・デル・ソルと呼ばれる海岸沿いの街々。

その一つ、英語やフランス語がささやき交わされるプエンテ・マヨルガは観光地としては落ち着いた、これと言って派手なスポットもない小さな町だが、バカンスのシーズンにはこうした「海鳥の拝借」事件は毎日のように起こる。

別に小魚やポテトの揚げ物が名物ではないのだが、やや高い波の海と雲一つない青い空の下で食べると、なんでも美味しく感じるものだ。

たとえそれが、ちょっぴり苦手な、胸詰まるようなオリーブ油の匂いに満ちていたとしても。


海岸線は穏やかな眺めだけが続くわけではない。

湾の右の端につらなるやや小高いうす茶色の丘が、海の奥に向かってぐっとせり出している、その先には高い岩山が長く続いている。

ジブラルタル・ロックと呼ばれている、ほぼ垂直にそそり立つ険しい岩の山脈だ。


少女のころは毎日のようにあの岩山を眺めていたわ。

ふもとの町は大きな迷路か魔境みたいで、足を踏み入れるたびに胸が高鳴ったものよ。

ビーチに面した大聖堂と見まがう豪奢なカフェの窓から、海と空と岩を眺めながら、銀髪の老婦人が呟いた。

白い大理石のテーブルにはステンドグラスの極彩色の光が降り注ぎ、重厚な絹のカーテンのたくし上げられた壁には、大きなバロック絵画の聖母子が談笑する客たちを見下ろしている。

子どものころから毎日座った空間だ。

だが今はその時感じたわずかな恐怖や興奮、心配や畏れはない。

何かを置いてきたような、それがなんだか思いだせないような、もどかしく頼りない気持ちで落ち着かない。

待ち人が遅れているのも心がざわつく要素の一つだ。

そうだ。以前こんな気持ちであの女性を待っていた。

美しく陽気で、少し唇をすぼめて笑うだけで周り中の人を魅了した、あのひとを…。


「外のビーチでお茶が飲みたいわ。テーブルを持ってきてくださる?」


有無を言わせぬ威厳に満ちた声音でギャルソンに命じ、銀髪の老婦人は立ち上がった。

一分後には、カフェからドア一つ隔てたビーチに面したパラソルの下、老婦人はデッキチェアに背を預けていた。

波うつ銀髪を緩やかにまとめ、優雅に風に吹かれる夫人の目線の先は、波と戯れるバカンス客でにぎわう海岸だ。

ヨーロッパ諸国からの観光客や、スペイン国内でも北部の都市からの客、イギリス領のジブラルタルを見物に来た軍事ファンと思しき青年たち。

遠くにはボートやヨット、漁船らしい小舟が何隻も揺蕩っている。

だが、その船団はビーチリゾートを楽しむ客のものとは限らない。


海岸にやや近づいた沖で、一艘の小舟が止まった。

釣やバカンスとは明らかに違う身なりの人々が、みっしりと詰まって乗り込んでいる。そこからわらわらと人が降り、海岸目指し一目散に走ってきた。

砂浜でくつろいでいた水着姿の観光客たちは悲鳴を上げた。

チョコレート色のやせ細った老若男女が、あるいは老人や幼児の手を引き、抱き上げ、またあるいは赤子を抱っこひもでわが身に結び付け、またおなかの大きな女性をかばいつつ、波しぶきを上げながら陸地目指して殺到する。

海辺のリゾートホテル群は大混乱に陥った。


こうした密航船はほぼ毎日のように来る。

沿岸警備兵が監視はしているのだが、なにしろ海岸線が長いし観光客も多いので人手が足りない上に、にぎわう平和な観光地、の雰囲気を壊さないように、気をつかわなければならない。


彼らは中央や東北部アフリカの、戦火に翻弄され疲弊しきった貧しい地域からの難民だ。各地からブローカーに高い金を払い、モロッコやチュニジア、アルジェリアのヨーロッパ大陸に近い海岸に集まり、そこでもまた金を払って、小さな荷物一つ抱えてボートや小さな漁船にすし詰めに押し込まれて、海にこぎ出したのだ。

一年で万単位の、陽に灼かれ水も食料もろくに持たず、ジブラルタル名物の高波に翻弄され、運よく難破を逃れた彼らは、「生きられる土地」ヨーロッパに殺到する。

そして都市部を目指す。スペインに留まる人は多くはない。


海岸に上がった難民たちは少人数の家族単位に分かれ、走って逃げる。

白い日差しに輝く、イスラム圏の様式を残した建物の間を縫い、路地を抜け、細い道に売り場を並べた屋台をかすめ、走る。

警官が追い、ホテルのガードマンが銃や警棒を振りかざし、商店の店主連中が大声で怒鳴りつけ、追い立てた。

観光客と難民のぶつかり合いで混乱する海岸の潮の香そのままに、ふいに暗い小道から、両親の手を引いた少年が走ってきた。

カフェの外のテラスに駆け上がろうと、デッキチェアにかけた銀髪の老婦人の前に走り込んだ。

警戒していたギャルソンが大声を上げて威嚇すると、チョコレート色の肌をした難民の家族は、くるりと身を翻して別の路地に転じた。

その瞬間、表れた黒い髪の老婦人とぶつかりそうになった。

80歳くらいだろうか。

白い花溢れる枝を束ねたブーケを抱え、見た目の年齢からは想像できない軽やかさで動いた。

赤いサンドレスと、シワだらけの肩にかけたショールをはためかせて道の脇に寄り、難民の一団を逃がすと、優雅な足取りで銀髪の老婦人の前に進む。

「ごきげんよう。リリー・アンナ」

挨拶を受けた銀髪の老女は、眉ひとつ動かさず微笑んだ。

「あなたも、お元気そうでなにより。ローザ。

ローザ・ガルシア・ド・ハポン」

「全くお久しぶりです。リリー・アンナ・ゴンザレス・オルロフスカ嬢」

メートル・ド・テルが大きな声で呼びかけた。

二人の老女の耳の聞こえに配慮したのだろうが、それは無用の気遣いだった。


銀髪の老女リリー・アンナは無言で手をひらひらさせた。

すると後ろに控えた若いギャルソンが、抱えたテーブルを2人の前に置き、椅子をセットした。

黒髪黒い瞳の老女が花束の陰から1枚の大ぶりの布を取り出した。

メートルが慣れた仕草でぱっと広げる。

東洋の、藍染めの布だ。

一面に絣模様が織り出してある。

二人の前のテーブルにしかれるとあ、当地の方太陽の輝きより深い青の色が潮風に舞った。


着席すると、ギャルソンがお茶と菓子を持って来た。

銀盆にビスケットと薄いキュウリのサンドウィッチ、ミントンのティーカップに注がれる熱い紅茶。

香り高いブレンドに、控えめに混ぜられた花やスパイスがほのかに香る。

アール・グレイほど鋭くないところが、お嬢様方のお気に召すのだろうか。

「日本では、こういう暑い日は、冷たくした紅茶を嗜むんですって?」

リリー・アンナが静かに尋ねた。

「そうですよ。アイスティーと言って、氷をたっぷり入れたガラスのコップに作り、ストローでいただくのです。

レモンやミルクを添える場合もあります」

「おお何という…」

リリー・アンナは天を仰いだ。

パラソルの端からアンダルシアの強烈な陽射しが照らし、顔のシミやシワを浮き立たせる。

黒髪のローザは、テーブルの端に花束を置いた。

白いジャスミンの匂いが紅茶の香りの邪魔をせず、3センチ先を駆け抜けてゆく。

「……でも、こんな暑い日には良いかもね。ちょっと冒険してみようかしら」

「またですか?お嬢様、もう冒険はお控えくださいませ」

世の情勢もかわり続けているのですよ、とローザは一口お茶を喫した。


二人の老婦人は浜辺の街並みに目を向けた。

難民たちは警察に保護され、1人残らず収容施設に連れて行かれるようだ。

ともあれこの地では強制送還されるなど稀なので、その表情は明るい。

一方、事情の分かる大人と違い、親にしがみついた子供達は、目に涙を浮かべて明らかに怯えている。

「思い出すわね」

リリー・アンナの銀髪が揺れた。

連合されていく幾つもの家族をめでおっているのだ。

「ママがこっそり聞かせてくれた『革命』とやらに追われた人たちの話を」

「そうでしたね。奥様は『総統』に追われた人たちの話もされていました」

ローザの短く切り揃えた黒髪が、風に揺れる。

その瞳は南の太陽光を吸い込んでしまいそうに黒い、

そうね。

リリー・アンナは微かに唇の端を上げた、

「あなたとまた逢えるまでに、ずいぶん長い時間が過ぎたわ。

ローザ・ド・ハポン」

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