第2話 怖い野良犬と優しい野良犬
ダンボールの手掛け穴から、わずかに街灯の光が差し込んでいる。
ふたりの少女が親切にしてくれたおかげで、いくらかマシな環境になった。
子猫に生まれ変わったことを自覚して初めての夜は、たった一匹でとても心細い。
やんちゃでいじめっ子だったきょうだいたちも、いざいなくなれば寂しいものだ。
見通しの立たない未来がたまらなく不安で、残されたミルクを飲む気にもなれない。
温かい毛布にくるまって思うのは、子猫は楽で羨ましいなどと考えた、過去の自分の浅はかさだ。
まさか野良猫になってしまうなんて、ネット社会の虚構に踊らされた人間の末路としては、案外ふさわしいのかもしれない。
それにしても、どうしてこんなことになったのか。どうにか糸口をつかもうと、光を見つめながら記憶をさかのぼる。
お母さん――みんなはママニャと呼んでいた猫は、空き地で私たちを産んで、人間に見つかるたび棲家を転々としてきた。
何度目かの引越しで民家の軒下に落ち着き、そこが安住の地になるかと思われた。
生きていくすべを教わりながら、つつましくも幸せに暮らす毎日。
しかしあるとき、ママニャは急に帰ってこなくなり、おなかをすかせて鳴きわめいた私たちは、あっさりと住民に捕まってしまった。
二匹は逃げたが、残りの五匹はダンボールに閉じ込められ、そして捨てられた。
人目のつく場所に置かれたのは、せめてもの優しさだったのかもしれない。
ゴミとして捨てたり保健所に直行するよりは、はるかにマシな対応だったといえる。
目論見どおり親切な人たちに見つかるも、そのチャンスを物にできなかった。
これもひとえに、前世から続く私自身の容量の悪さによるもので、ほかの誰のせいでもない。
それがわかっているだけに、やるせないやら悔しいやら、枕を濡らしてふて寝するしかないのである。
〝ああ、猫がこんなに弱いのも、野良がこんなにつらいのも、みんな私が悪いのよ……〟
悲しみに打ちひしがれて、みゃあんと鳴いたその時――。
突然、天地がひっくり返り、ダンボールから投げ出される。
何事?? いったい何が起こったの?
すぐ横でうなり声が聞こえ、おそるおそる見上げれば、そこには私の何倍もある大きな犬が立っていた。
もしや、頭に乗せてくれる優しい犬? 子猫になった次は、頼れるボディガードが現れたんだ。
だがしかし、そんな浮かれた幻想は、開かれたあぎとに並ぶ牙で粉々に打ち砕かれた。
〝グルルルル、子猫がたった一匹か。まあいい、ちっとは腹の足しになるだろう〟
たたた、大変だ! 痩せこけた野良犬が一匹、私を凝視してよだれを垂らしている。
絶体絶命のピンチ。あまりの恐怖に、足がすくんで動けない。
かろうじて手――前脚を動かすと、ひっくり返った器を指し示す。
〝み、ミルク! そこにミルクがこぼれてますよ!〟
〝関係ないね。お前を喰らったあとに、いくらでも舐めとればいい〟
〝ひいぃぃぃ! どうかお助けをー!〟
開かれた大きな口が間近へと迫り、思わず意識が飛びかける。
短い人生、もとい猫生だったな。次は何に生まれ変わるんだろう。
コオロギ? それともダンゴムシ? はたまたミジンコかアメーバかもしれない。
クマムシになれたら、むしろ進化かもね。それもまた良いのかもしれない。
さあ、たんとお食べ。トラに食べられたブッダの気持ちをようやく理解した私は、身を投げ出してその時を待つ。
だが、いくら待てどもその瞬間はやって来ない。
片目をうっすらと開けてチラ見すると、今度はまた別の野良犬が立っていた。
一目で老犬とわかる出立ち。毛むくじゃらで、まぶたは開いているかどうかもわからない。
あらあらライバルですか? 半分こにするなら、どうか痛くないようにしてください。
だが彼は、私たちのあいだに割り入ると、こちらに背を向けて先客に言った。
〝やめておけ、若いの。そんなことをしたら、我らを見逃してくれる人間たちも容赦しないぞ〟
〝はんっ、なんだジジイ、偉そうに。死にかけの老いぼれが、俺さまに指図するんじゃねぇ〟
〝やるかね? 老いても盛ん。わしはお行儀がいいから、お前さんよりも栄養状態がいいぞ。今日もまた、弁当の残りをたらふくご馳走になったからのう〟
〝くっ……!〟
格の違いがわかるのか、若い犬はすごすごと退散した。
ほお、犬は見かけによらない。最初のほうが強そうだったのに、お爺さんが戦わずして勝ってしまった。
私はすぐさま立ち上がり、命の恩人に頭を下げる。
〝助けてくれて、どうもありがとう。お強いんですね〟
〝そうともさ。これでわしが、お前さんを独り占めじゃ!〟
〝ひぃぃぃ!?〟
前脚を頭にかぶせてうずくまると、老犬はからからと笑いだす。
〝冗談冗談。まだちっこいのに、怖いをしたのう〟
〝うぅ……優しいけれど意地悪ですね。寿命がだいぶ縮まりました〟
〝それはたいへん悪かった。お前さんがあまりにもかわいいから、ついからかってみたくなったのじゃ〟
ようやく危機が去ったとわかり、私は心底ホッとした。
あらためて老犬を見上げると、先程の中型犬よりもひと回り背の高い大型犬だった。
彼は地面に伏せてこちらと視線を合わせ、穏やかな声で問いかける。
〝どうしてひとりでおったのじゃ? 家族はどうした?〟
〝お母さんが帰ってこなくて、人間に捕まってダンボールに入れられ、ここに捨てられました。きょうだいは拾われて、私だけが売れ残ったんです〟
〝それは可哀想に。じゃがな、それは見方によっては幸運ともいえるぞ〟
〝どうしてですか? とてもそうは思えません〟
〝それはだな、自ら主人を選べるからじゃよ。わしのかつての飼い主のように、年老いてから捨てる薄情者ではなく、ずっと面倒を見てくれる優しい人間を探すのじゃ〟
どうやらこの老犬には悲しい過去があるようだ。
急に切なくなった私は、彼に憐れみの眼差しを向けた。
〝あなたのほうこそ、つらい思いをされたんですね。長年連れ添った相手に捨てられるなんて……〟
〝わしのことはいい。自分のことを心配しなさい。いいか、よくお聴き。ここからまっすぐ行った先に、賑やかな商店街がある。そこにはさまざまな人がいて、きっとお前さんを拾ってくれる者もいるだろう。探すのじゃ、自らの足で。長く付き合えそうな主人をな〟
老犬はそう言うと立ち上がり、教えた場所とは逆方向に体を向ける。
〝わしはそろそろ行かねばならぬ。大きな犬は、通報されたらすぐに保健所行きじゃ。すでに何匹もの仲間が連れていかれた。そこへ行けばどうなるか、わしにはわかっておる。さあ行け。さっきの輩が戻ってくる前に〟
〝待ってください。あなたと一緒にいてはダメなんですか?〟
〝とてもお前さんには無理じゃよ。じゃあの、またどこかで〟
そう言い残して、老犬はゆったりとした足どりで去っていった。
どこか寂しげな後ろ姿を見送った私は、意を決して商店街へと歩み始める。
道ゆく人々の様子を見るに、おそらくは夜の七、八時といったところか。
私になんて目もくれず、せわしなく自宅を目指しているようだ。
なるほど、彼の言ったことには一理ある。
人が猫を選ぶのではなく、猫が人を選ぶのだ。
心優しきご主人さまに出逢えることを祈って、私は光の強い方角を目指した。
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