13 残酷過ぎる喪失

 緊張の連続で僕も疲れていたんだと思う。コンビニで買った弁当を食べていたつもりが、いつの間にか自宅のソファで眠り込んでいた。ローテーブルに置いた携帯が、天面ガラスを振動させる音で僕は目を覚ました。




「もしもし、神山ですが」


「神山祐史さんですね?夜分にすみません。奥様の容態が急変しました。今、救急車で運ばれて別な病院で治療を受けています。赤ちゃんは無事で変わりありません。搬送先の病院をお知らせしますので、すぐに向かって下さい」




僕は耳を疑った。


(あんなに元気だったのに)


 大丈夫だと何回も自分に言い聞かせながら、僕は君のいる病院へと急いだ。それは水没事故の時と同じ大病院だった。僕はまっすぐ集中治療室に向かったのだが、そこに君の姿はなかった。きびすを返すと小走りで近づいてきた医師とぶつかりそうになった。緑色の手術着、襟首や脇には汗がにじんでいた。


「神山さんのご主人ですね?」


「はい、妻が運ばれたと聞いて慌てて来ました」


「奥様はこちらではなく、地下におられます」


「ど、どういうことですか?」


「急性の脳内出血で奥様は亡くなられました。20分ほど前のことです」




「容態が急変して運び込まれた時、既に危篤状態でした。手を尽くしましたが、残念ながら奥様はお亡くなりになりました。脳内での出血が致命的な部位で起きてしまったためと思われます」


「ちょっと前まで元気だったんです…」


「力及ばず申し訳ありません」




 僕はふらふらとした足取りで地下の安置室に向かった。案内してくれた看護師は、一言も語らずに僕を君の傍らまで連れて行き、顔にかけられた白い布を持ち上げた。そこには、ついさっき会ったばかりの君の寝顔があった。




 看護師に頼んで、君と二人にしてもらった。




 もの言わぬ君を前にして、ありえない奇跡が思い浮かんだ。僕は躊躇なく君の上に覆いかぶさり、肩を抱いて唇を重ねた。それはまだ温かく、いつもと同じ柔らかさを保ってはいたが、望んだように再び言葉を発することはなかった。僕はその場にへたり込み、意識がゆっくりと暗転していくのがわかった。




 はっと気付くと、僕はまだ安置室にいて、目の前には片付けられて何も載っていないベッドが一つ置いてあった。さっきから右肩に暖かい重さを感じていた。僕らは並べたパイプ椅子に座っていて、隣の君は僕に頭をあずけて寄りかかっていた。君は目を開け、姿勢を戻して前を向いたまま言った。




「ごめんね。びっくりしたよね」


「優理」


「いつものことだから、もう慣れた?そういうわけにはいかないか」


「つらくないの?」


「ううん、大丈夫。ゆうちゃん、あのね…」


 君と話ができるのは、たぶんこれが最後になる、そんな気がした。


「最初に駅でぶつかった時から、ずっとゆうちゃんのことが好きだった」


 知ってたよ、と口には出さずに心でつぶやいた。


「なにもかも、みんな幸せだった。雷の中で抱き合ったり、線路に落ちた後、気が付いたら手を握っててくれたり、それにリハビリとか、免許とか」


 僕は思わず君の方を覗き込んだ。オフホワイトのジャンバースカート、後ろで一つに束ねた髪、それは君のお気に入りのスタイルであり、僕も大好きな君の姿だった。ふと右手を見ると、僕は君の大切な分身である松葉杖を持っていた。


「赤ちゃんまで抱くことができて、まるで夢みたい」


 ふうっと息をつくと、君はもう一度感触を確かめるように僕の肩に頭をもたせかけた。


「このままずっと一緒にいられたら、いいんだけど」


 やがて君は心を決めたように頭を起こし、僕と目を合わせて言った。


「そろそろかな。もう行くね」


 僕は黙って、いつもと同じように松葉杖を渡し、君はそれを両脇にあてがった。たとえ魂が身体を離れても、これが君であり、僕の役目なんだと自然にそう思えた。


「ゆうちゃん、本当にありがとう。私を思い出すのは時々でいいから。あんまり引きずらないでね。それと、赤ちゃんをお願い」


 叫ぼうとしたのに、身体が動かなかった。松葉杖を振り出してドアに向かう君をただ呆然と眺めていた。


 閉まるドア越しに振り返った君の顔が見えた。君は出会った頃と変わらぬかすかな微笑みを浮かべ、最後に僕にうなずいてくれた。二人を隔てるドアが、ゆっくりと閉まるのが見えた。




 目を開けるとベッドに寝かされていた。傍らには見覚えのある男女が立っていた。


「あっ、あなたは…」


 女性は出産直後の優理に赤ちゃんを抱かせてくれた看護師だった。男性は産婦人科の先生で、目の下に隈ができていて、ひどく疲れているように見えた。やがて産婦人科医が重い口を開いた。


「安置室で倒れておられたんで、ここの先生と相談してこちらへ運びました。何と申し上げたらいいか」


「私が、私が血圧の上昇にもっと早く気付いていたら」


「いや、あの状態でキラー・シンプトム*と見るのは無理だった。今回の責任は、全て主治医である私にあります。せめてもう少し近くにいたら、できることもあったかもしれません」 *容態急変を示唆する危険な兆候


「先生は限界でした、三十六時間連続勤務なんて。先生を責めないで下さいね。こんなことになるなら、ご夫婦を、赤ちゃんを、もっと長く一緒にいさせてあげればよかった」


 ベテランの看護師は悲痛な顔でうつむいた。僕は自分でも驚くくらい穏やかな気持ちでそれを聞いていた。


「優理のためにありがとうございました。お二人とも、なすべき仕事をきちんとしていただいたことはよくわかっています。今はただ信じられないとしか…。先生、一つ教えて下さい。こうしたケースはよくあるんでしょうか?特に優理のように障害を持っていると」


「妊娠や出産にあたって褥瘡や自律神経の過反射などが起きやすいのは事実です。でも奥様の場合、破水したとは言え、出産自体に大きな問題はありませんでした。これは私の仮説に過ぎないのですが、過去に脳と身体に刻まれた過酷な経験が、出産に過剰に反応して神経系の誤作動を引き起こし、急激な血圧上昇を招いた可能性があるのではないかと…」


「過酷な経験、ですか?」


「例えばですが、長時間、脳に酸素が供給されないとか、そういったことです」


 蘇生し、意識を取り戻したものの、確かにあの事故は君に大きな「傷」を残していたに違いない。


「詳細な原因に迫るには、奥様を詳しく調べなければなりません。ただ、新たな医学的知見が得られる可能性は低いと思います」


「優理を…できるだけ早く安らかな眠りにつかせてやりたいと思います。もう帰ってくるわけではないですし」

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