12 新しい命の誕生
病院の屋上に出ると、晴れた空に白い雲が浮かんでいて、頬をなぜる風が心地よかった。君が乗った車椅子のブレーキをかけると、僕はすぐ横のベンチに腰を下ろした。少し離れたところで君のお母さんが洗濯ものを干していた。
「いいよ、無理に話さなくても」
「ううん、もう大丈夫」
「朋香ちゃんのうちを出た時、相当雨が降っていたんだよね?」
「そう。早く帰りたくてあそこを通ろうとしたら、水が溜まってて車が止まっちゃった。急に水かさが増してきて、慌てて消防へ電話したの。それからゆうちゃんへもかけた」
「結構冷静だったんだね?」
「水位がどんどん上がって息もできないくらいになって…。夢中で後ろの座席の松葉杖を取って石突きのゴムを外してフロントガラスを叩いた。手が痛かったけど、我慢して何回も」
君は言葉を切ると軽くため息をついた。
「気がついたら、野原に続く一本道にいたの。そしたら目の前にお父さんが立ってて」
「あら、いやだ。あの人と会ったの?あの人変わってなかった?」
お母さんも聞き耳を立てていたようだ。
「私は小学生だった時に見たお父さんしか知らないけど…。あまり変わってない気がした。近づいて行こうとしたら、急に怖い顔して、こうして手の平を私に向けて止めたの。それから、あっちに行けって手を振って」
「優理と孫を連れて行っちゃいけないって思ったのね」
「急に誰かに手を引っ張られて振り向いたら、朋香ちゃんがいたの。気が付くと病院のベッドだった」
「小さな子と連係プレーできるなんて、小学校の先生だったあの人らしいわね」
生死を彷徨ったにもかかわらず、おなかの赤ちゃんへの影響は幸い軽くて済んだ。やがて君は目立つようになったおなかを抱えて退院した。日に日に大きくなるおなかに君は僕の手を当てて、ほら、動いているでしょ、と微笑んで見せた。しばらくして検診から戻った君は、エコーで見た赤ちゃんの身体に異常がなかったこと、そして僕らの最初の子供がたぶん女の子であることを告げ、僕らは抱き合ってその事実に歓喜した。
予定日まで二週間に迫った3月の中旬、トイレに行こうとした君が破水した。僕は驚きながらも冷静に君を抱え、タクシーを拾って診てもらっていた産婦人科に駆け込んだ。リスクが高い場合は帝王切開と聞いていたのだが、産婦人科医は状況から判断して自然分娩でいきますと言い、数時間の格闘の後、君は無事女の赤ちゃんを出産した。
少しだけならいいですよ、と看護師に言われて、僕は遠慮がちに病室に入った。君は全身に汗をかいていて、額の上の前髪も濡れていた。僕は近づいて、まだ肩で息をしていた君の手をとった。意外なことに、それはとても冷たく感じられた。
「がんばったね、優理」
君がかすかに微笑んでうなずいた時、看護師が赤ちゃんを抱いて病室に入ってきた。
「神山さん、娘さんですよ。抱いてあげて下さい」
ほんの短い時間ではあったが、君は胸の上に小さな命を乗せ、その息吹を確かめるように背中をさすった。
「はい、じゃあ、お身体にさわるといけないので、赤ちゃんはお預かりしますね。ご主人もこのあたりで。奥様を休ませてあげて下さい」
促されて、僕も腰を上げた。一瞬、君の微笑みが凍り付いて見えたのだが、それは錯覚だったのかもしれない。君に小さく手を振って、僕は病室を後にした。
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