10 母の洞察

 由美ちゃんの来訪で少しだけ元気が戻ったが、君が復調する目途は立たなかった。僕は由美ちゃんの助言通り、君のお母さんに電話をかけた。




「こんなことをお願いするのは、心苦しいんですが…」


「遠慮しないで。たまには娘にお説教しに行くのもいいでしょう」


 君を実家に帰すことも提案したのだが、居つかれても困るのよと言われ、お母さんにうちに来てもらうことにした。




 一連の家事をこなしながら、手が空くとお母さんは君の枕元に椅子を置き、持参したスケッチブックを開いて君のデッサンを描いていた。君も黙ったまま、ただモデルを務めていた。




 二日ほどがたち、僕はあまりの変化の無さにしびれを切らして、お母さんを家の外に連れ出すと勢いこんで質問した。


「どうですか?優理は何と言ってますか?」


「今のところは特に」


「お母さんからも、元気を出すようにとか、どうして落ち込んでるのかって話してもらえませんか?お願いしますよ」


「私が聞いてもあの子はおいそれとは白状しないでしょう。そんな子です、優理は」


「そうは言っても…」


「デッサンをしてて感じたことがあるの」


「何ですか?」


「少しだけど、目元がつってきたような気がする。顔がきつくなるのはお腹の子が男の子って証しかもしれないわね」


「発見としては大事なことですが…。僕は優理が大変なことをしでかしそうで怖いんです」


「そうそう馬鹿な真似はさせません。私がちゃんと見てますから。もっとも私の専門は美術で、保健の先生ではありませんけどね」


 君が得意とする微妙な冗談はきっとこの人に似たに違いない。




 5日目にちょっとした事件があった。また明日も休むと君が言った時、お母さんはきつい口調でそれを諌めたのだ。


「何を言ってるの。もう赤ちゃんは落ち着いたって、産婦人科の先生も言っておられたんでしょ。いつまでもごろごろしていたら、それこそ胎教に悪いわ。もういい加減に仕事に行きなさい」


 君はしゃくりあげると、声を出さずに涙をこぼした。初めて見る君の姿に僕は大いに驚いた。


「一体何がそんなにあなたを弱気にさせるの?あなたは私の子でしょ。もっと強いはずです」


「だって…」


「私にはあなたの考えていることがわかります。でも、それは口が裂けても私には言えない、そうでしょ?」


 お母さんは君に近づくと、手を振り上げた。驚いて固まった僕を裏切るように、お母さんはその手を君の肩に回し、そっと君を抱きしめた。


「ばかね、そんなこと心配し出したら、きりがないでしょ。あなたが何を考えていようが、赤ちゃんは生まれてきます。母親であるあなたが、ちゃんと受けとめてあげなくてどうするの?」


 君は抱かれながらもずっと涙を流していた。


「赤ちゃんがハンディを持っていたらなんて、考えても仕方がないの。優理、よく聞いて。あなたは私の自慢なの。生まれてきてくれて、本当によかったと思っています」


 お母さんは言葉のトーンを落とすと穏やかな口調で続けた。


「人は誰でも何かしら背負って生まれてくるの。だから母親になるあなたが逃げてはダメ、わかるわね?」


 君は泣きながらうなずき、ようやく少しだけ運命の呪縛から解き放たれたかに見えた。




 それですべてが解決したわけではなかったが、お母さんの言葉は再び日常を取り戻す大きなきっかけになった。合わせて、由美ちゃんが紹介してくれた臨床心理士のカウンセリングを受け、君は次第に元気を取り戻した。妊娠四ヶ月目に入り、君は体型の目立たぬ服装で仕事に戻り、宅配図書館も時々こなせるまでに復調していった。その出来事があったのは、君にそろそろ車の運転を止めさせようとしていた矢先のことだった。

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