9 マタニティブルー
九月の半ばを過ぎたのに、まだ風はムシ暑さを伴っていた。三ヶ月目に入り、君のおなかのふくらみが少しずつ目立つようになっていた。
その日、いつもより遅く帰宅した僕は、ただいまの声を発するとともにフリーズした。おおむけの君がフローリングの床に横たわっていて、松葉杖が横に倒れている。
「優理!」
駆け寄って君の身体を抱き起こした。
「一体どうしたの?具合が悪いの?どこか痛い?」
「ああ、ゆうちゃん、帰ってきたんだ。お帰り」
とりあえず僕は君を抱えてソファに横たえ、その頭を膝に乗せて自分も座った。
「旦那に膝枕してもらう奥さんもいないよね」
「どうしたの?必要なら病院へ連れて行くよ」
「ああ、大丈夫。今日、行ってきたから」
「定期検診日だった?」
「そう。診てもらったら、『もうお気付きだと思いますが』って、先生が」
「何か調子が悪かったの?」
「ううん、全然。だから、びっくりして。『おなかが張ってますから、しばらく安静にして下さい』って言われて。自覚症状とか、なかったのよ。突然言われて何だかショックで。私は自分で自分の身体や赤ちゃんのこともわからないのかって。うちに入ったら、そこで松葉杖の先が滑って転んだの。おなかは打たなかったし、全然大丈夫だったんだけど…」
「考え込むのはよそう、ね、優理。君も赤ちゃんも大丈夫だから」
それを境に君は一週間ほど仕事を休んだ。お母さんのところへ泊まりに行くことを勧めたのだが、かえって気を遣うからと家にとどまっていた。
悩んでいた時、由美ちゃんから電話がかかってきた。見舞いじゃなくて遊びに行くという彼女の来訪を僕は期待して待つことにした。その日、彼女はクリーム色の愛車でやって来て、黄色い車椅子を玄関先につけると自らピンポンを鳴らした。
「谷本…じゃなかった、田所由美です。下の名前で呼んで下さい」
ショートカットがよく似合っていて、輝く瞳が印象的だった。
「なんだ優理さん、元気そうじゃないですか?そうだ、結婚祝い、ありがとうございました!」
由美ちゃんには車椅子からソファに移ってもらい、君を食卓から持ってきた椅子に座らせて、僕はフローリングの絨緞にあぐらをかいた。
「新婚生活はどうなの?」
「そうですね。彼、ロマンチストじゃないけどベタには楽しんでますよ」
「由美ちゃんは本を借りにきて優理と知り合ったんだよね?」
「それがね、すごかったんですよ、優理さん。まさに超能力者。『身体感覚』って東大の先生が書いた本が読みたくて。バスケで壁にあたった時はまず頭使うべきかなって思って」
「本を持ってカウンターに行ったら、優理さんがいて、普通に手続きしてくれてたのに、急に言うんですよ、『他に借りたい本があるんじゃないですか?』って」
「あったの?」
「図星でした。それで驚いてたら、別の職員の方を呼んで、その人に『八番の書架へ行って、上の方の棚だから取ってあげて』って頼んでくれて。もうびっくりでした。なんでわかるんだろうって」
「上の棚にほしい本があったんだね?」
「そうなんですよ。手が届かないんで諦めてたんです。棚のところへ行って、取ってもらっていたら、優理さんも来てくれて。松葉杖なのは、その時初めて知りました」
「あのシリーズは一連で当時人気があったのよ。一冊だけ高いところで私も届かなかったから、覚えてただけ」
「ホントは優理さん、人の心が読めたりしません?それでこんな素敵な旦那さんを射止めたとか?」
「まさか。この人はわかりやすいから、テレパシーを使うまでもないと思うけど」
「実直と言ってほしいね、実直と。この時点で既に読まれてるわけだ」
「由美ちゃんこそ、察しがいいわよね。言わなくてもわかってくれるって気がするもの」
「超能力はありませんけど、こう見えても大学の専攻は心理学だったんです。優理さん、考え過ぎないで時には流さないと。あっ、私が偉そうに言うことじゃないですけどね」
笑っているうちに時間はあっと言う間に過ぎ、由美ちゃんを車まで送っていった。と言っても、自分で運転席に乗り込み、自ら車椅子をたたんで積み込む彼女に、大丈夫ですからと言われてただ眺めていただけだったのだが。去り際、彼女は窓を開けて言った。
「おせっかいを承知で言いますけど、優理さん、やっぱり普段と違います。もらったメールが気になって押しかけてきたんですけど」
「心配してくれて、ありがとう。この間の検診から気持ちが塞いでいて。今日来てもらってずい分元気になったと思う」
「私もですけど、足だけじゃなくて他にも悪い影響が出ることがあります。特に妊娠や出産は大変だし。でも、こうなった原因はお産の難しさだけではないような…」
「どうしたらいいんだろう?」
「うちの会社でカウンセラーの先生と契約してます。今度、個人的な相談に乗ってもらえるか、聞いてみますね」
「すまないね。そうしてもらえると助かる」
「あと…身近で優理さんをよく知っている人に助けを求める、とか」
「どういうこと?」
「優理さんのお母さんを呼ぶのが一番いいんじゃないですか?」
「ありがとう。考えてみるよ」
「赤ちゃんが生まれたら、また遊びに来ますね。お二人は私たちの目標ですから」
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