新たな場所へ・前編




灰狼ロウは自らの顎をなぞる。

蓄えた髭は残念ながら散髪する事が出来なかった。

彼の衣服は脱衣所の籠へ投げ込まれ、後で叢雲シズクは洗濯をしようとしていた。

けれど、灰狼ロウが着込む衣服が無い、と言うワケではない。

前に訪れた際に置いて行った衣服が残っている。

それを彼女は出して、灰狼ロウは綺麗になった衣服に着替えた。


「今日は、このまま泊まりますか?もっとゆっくりして下さい、ロウさん」


彼女はそう言いながら、カップにコーヒーを容れて来てくれた。

灰狼ロウはそれを受け取ると、黒色のコーヒーをじっと見つめていた。



並々に注がれたコーヒーからは湯気が溢れている。

それをゆっくりと口元に近付けた際に、灰狼ロウは一息吐いた。


「眠たくなったら、私のベッドを使って下さい、出来れば……一緒に、ロウさんと眠りたいな、なんて」


両手でコーヒーカップを持ちながら、叢雲シズクは灰狼ロウの事を見詰めていた。

何を考えているのか分からない人間だが、其処が彼女にとってはミステリアスな人間として惹かれてしまうのだろう。


「……ロウさん、覚えてますか、二年前、ロウさんと出会った時のこと」


昔話を口にする叢雲シズクは、忌々しくも、愛する者と出会った時の事を思い出していた。


「私が、化物に襲われている中、もうどうでも良いって思えた時、ロウさんがたすけてくれました、あの時から、ロウさんの事、感謝しているんです」


叢雲シズクは、灰狼ロウのコップに入ったコーヒーの残量を確認した、先程容れたばかりの熱々のコーヒーは、もうじき飲み乾しそうになっていた。


「……ロウさん、暫く、お休みしてはどうですか?私が面倒見ますよ、有給でも取って、旅行に行くなんて良いかも知れませんね、私が、傍でお世話をしますから」


ぐい、と。

コーヒーを飲み干した灰狼ロウは立ち上がった。

最早、この部屋に留まる理由など無いと言った様子であり、叢雲シズクの部屋から玄関へ向けて歩き出す。

細やかな時間ではあるが、ずっと留まる気は無かったらしく、灰狼ロウは次の場所へ向かおうとしていたのだが。


「ま、って、下さい、ロウさん、ごめんなさい、出過ぎた真似でしたね、一日、いえ、もう少しだけ、居て下さい、貴方が居ないと私、ダメなんです、だから……」


叢雲シズクが座った姿勢で灰狼ロウの足のズボンを掴んだ為に、灰狼ロウの動きは止まった、そして振り向くと叢雲シズクの顔を見詰めている。


「……私、重たい、ですか?」


彼女の絞り出した言葉に、灰狼ロウは何も言わない。

決して体重の話ではない、灰狼ロウに対する感情の大きさに対する意味であった。

その言葉を呟き、彼女の目は寂しさを募らせていた。

灰狼ロウと言う人間に対して激しい感情を抱く彼女は最早、灰狼ロウに依存している。

それを自覚しているのだろう、自分の行動が他人を束縛している、不快感を助長させている、と言う事に。

後になって、叢雲シズクは我に返ると、灰狼ロウのズボンを離すと、笑顔を浮かべてみせた。


「……ごめんなさい、ロウさん、そうですよね、ロウさんにも、都合があります、よね……ごめんなさい、ごめん、なさい……だから、また、私の部屋に、戻って来て下さいね?」


灰狼ロウはそう言われた後に、ゆっくりと振り向いた末に、叢雲シズクの方へ近づくと、彼女の頬に片手で触れる。

強引に顔を上げさせると、失意に満ちていた彼女の表情に光が差し込んだ。

すると、灰狼ロウは彼女の唇を貪る様に口づけを行う。

舌先で咥内を犯し、唾液を流し込み、上唇を吸い、下唇を唇で食み、舌を滑らす様に首筋に幾多の吸血痕を残す。


「ロウ……さっ、ぁっ……」


甘く声を漏らす叢雲シズクは、ゆっくりと床に背中を預けた。

灰狼ロウの求愛行動に満たされてしまった叢雲シズクは、潤んだ瞳で灰狼ロウを見詰め続ける。


だが、それ以上の行為はしなかった。

灰狼ロウは、甘えた顔をしている叢雲シズクを見詰め続けた末に、今度こそ振り返る事無くその場を後にした。

靴を履いて、扉を開き外へ出る。

部屋の外は生暖かい空気と、廊下を照らすオレンジ色の電灯が照らしている。

そのまま、靴のつま先を蹴りながら、灰狼ロウは、また放浪する。


一人、部屋の中で残された叢雲シズクは切ない表情をしていた、この爆発寸前の感情を、一人で抱え込む事など出来なかった。


「ロウ、さん」


彼の感じた体温、感触は最早何処にも無かった。

少しでも、灰狼ロウを感じたかった叢雲シズクは、脱衣所に脱ぎ捨てられた衣服を、籠から取り出すとそれを自らの顔に近付ける。


彼の体臭が染みついた衣服からは、また何処かの女の元で洗濯したのか、ほのかな薔薇の様な匂いが薫っていた。

彼が着込んでいた衣服ですら、叢雲シズクを鎮める事が出来ず、微かに薫る灰狼ロウの匂いを感じ取る為に、肺いっぱいに呼吸をして、彼の名を呟く。


「ろぅ、さん……っァ、ッん」


掠れた声色で、自らを慰める叢雲シズク。

あまりにも惨めで無様で、それでも、彼女は灰狼ロウを求め続けた。

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