第20話:琴音の決意
夕暮れが差し込む軽音部の部室。
蝉の声が遠くにぼやけ、冷房の音だけが淡々と空間を満たしていた。
部屋はいつもと変わらない。机の上には昨日と同じ楽譜。壁にはチューニング済みのベース。
けれど——そこには決定的に足りない“何か”があった。
琴音は静かに、部屋の隅にある椅子へと腰を下ろした。
その斜め向かいにある、いつも拓人が座っていた席。空いたままのそれを、ただ見つめる。
「……先輩、今日は来ないのかな……」
ぽつりと落とした声も、誰にも拾われることはなかった。
ふざけた冗談とともに現れるはずの拓人は、今日は来ない。そんな気配すら、どこにもなかった。
琴音の指が、無意識にその椅子の背を撫でる。ほんのり残る手の温もりを探すように。
(何か、変だ……)
普段なら、少しくらい遅れても「あ、サボってるな」と笑って済ませられる。
けれど今日は、胸の奥が妙にざわついていた。
ふと目に入ったのは、壁際に立てかけられたベースケース。
拓人のものだ。普段はいい加減に置かれているそれが、きっちりと閉じられて、何も語らずそこにあった。
琴音は小さく息をのむ。
(……まさか、今日だけ、じゃないの?)
不安が、冷たい水のように胸を満たしていく。
震える指でスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。
「先輩、今日どうしたんですか?」
——そう打ちかけて、指が止まった。
もし、何か本当にあったのなら。
もし、昨日のことが関係しているのなら。
その答えが、怖くて聞けなかった。
琴音はスマホの画面をそっと伏せ、静かに息を吐いた。
部室の静寂は変わらず、冷房の風だけが音を立てていた。
まるで、その空席を「失われた何か」として証明するかのように——。
翌朝の校舎。
教室へと続く廊下を歩いていた琴音の耳に、ぼそぼそとした声が入り込んだ。
「なあ、聞いた?あいつ、あの拓人って奴……停学らしいぜ」
「マジ?あー、あの件か。そりゃそうだろ。リーダーにケガさせたんだもんな。
完全に暴力事件じゃん」
足が止まった。
(……え?拓人先輩が……停学?)
心臓が大きく跳ね、呼吸が一瞬だけ浅くなる。
その言葉は、まるで鋭い刃のように胸に突き刺さった。
琴音が顔を上げると、声の主たち——あの陽キャたちが、こちらを見てニヤリと
笑った。
「おやおや~、あれれ?泣いちゃう?琴音ちゃ~ん」
「でもよかったよな、助けてもらえてさ~」
その視線が冷たくて、嘲るようで、何より……許せなかった。
(……こんな人たちのせいで。……でも、先輩は一言も私のことを言わなかった)
拳が自然と震えるほど強く握りしめられていた。
(こんな人たちに媚びてた自分のために、拓人先輩が犠牲になるなんて、
間違ってる。私のせいで拓人先輩が犠牲になるなんて、絶対に間違ってる)
深く、息を吸った。
迷いはなかった。
「……っ!」
その瞬間、琴音の身体が反射的に動いていた。
靴音を鳴らしながら、廊下を走り出す。
向かう先は——校長室。
(本当のことを言わなきゃ……私が、全部話さなきゃ!)
涙なんてもういらない。誰かのせいにもしない。
これは、自分の意思で選ぶ一歩。
拓人先輩が“私を守るために黙った”のなら——
今度は、私が“先輩を守るために声を上げる”。
琴音は息を切らせながら校長室の前で立ち止まった。ドアを叩く手が震える――
でも、迷っている時間はない。
(ここで黙っていたら、拓人先輩の努力が全部無駄になる。そんなの、絶対嫌だ。)
意を決し、扉をノックすると、中から校長の落ち着いた声が聞こえた。
「どうしたね?」
琴音は深く息を吸い込み、手を握りしめた。
「お話ししたいことがあります。拓人先輩の停学について……
本当のことを知ってほしいんです。」
校長は軽く眉をひそめたが、静かに頷き、席を勧めた。
琴音は緊張しながらも、昨日の出来事をすべて話した。
自分が陽キャたちに弄ばれそうになり、それを拓人が止めようとしたこと。
挑発され、我慢し続けた結果、最後に手を出してしまったこと。
彼が悪意で暴力を振るったわけではなく、琴音を守ろうとしたこと――。
校長は静かに琴音の話を聞き終えると、目を細めた。
「……そうか。君はそれを証言しに来たのか。」
「はい。私は今まで、彼らに合わせることで楽しく過ごしていると思っていました。でも、それは違いました。先輩が私を守ってくれたことで、自分が何をしていたのかやっと気付いたんです。」
琴音の声は震えていたが、真っ直ぐだった。
校長は考え込むように腕を組み、それからゆっくり言った。
「話はわかった。ただし、これだけでは処分を覆すのは難しい。
だが、君が証言したことは重要だ。これをもとに教員会議で話し合おう。」
琴音はぎゅっと手を握りしめた。すぐに解決できるわけではない。
でも、一歩踏み出せた。
校長室を出た琴音は、遠くで聞こえる蝉の声に耳を澄ませた。
(拓人先輩、私はあなたを助けたい――今度は、私が。)
次の日、琴音は舞依や悠真にも相談し、さらに教師たちに拓人の本当の行動を伝え始めた。
軽音部の仲間たちも協力し、拓人がどんな人間かを証言する。少しずつ、状況は変わり始めた。
更に翌日、琴音は廊下を歩きながら、昨日校長室で話したことを思い返していた。
(今日……どうなるんだろう。)
そのとき、担任が彼女の名前を呼んだ。
「琴音さん、校長室へ来てください。」
琴音は驚きつつも、大きく息を吸い込んだ。
(拓人先輩のことだ……!)
校長は穏やかな表情で琴音と拓人を見つめ、静かに口を開いた。
「昨日、関係者からの証言を集め、慎重に判断した。」
琴音の胸が高鳴る。
「結果として、拓人くんの行動は琴音さんを守るためのものであり、正当防衛として認めるべきだと判断した。」
拓人は少し驚いたように目を細めた。
「よって、停学処分は3日に短縮し、明日から復学を認める。」
琴音は張り詰めていた心が解放され、思わずほっと息をついた。
(……よかった。)
校長は続けて言葉を発した。
「今回の件は、周囲が誤解を生んだ部分もあるが、それ以上に、君たちの行動が信頼できるものだったからこそ、この決断を下すことができた。」
琴音はまっすぐ校長を見つめ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
校長室を出ると、琴音は思わず拓人の方を振り返った。
「……先輩、これで明日から学校に戻れますね。」
「まぁな。でもさ、琴音ちゃんが俺のために、こんなに真剣に動いてくれるとは
思ってなかったよ。」
琴音は照れくさそうに笑った。
「先輩は、私を助けてくれたから……今度は私が助けたかったんです。」
拓人はその言葉にしばらく沈黙した後、フッと微笑んだ。
「……そっか、ありがとな。」
夕方の部室。琴音は扉を開けると、そこにはいつもの拓人の姿があった。
「おう、待ってたよ。琴音ちゃん!」
軽い調子の声とともに、拓人はベースの弦を軽く弾きながら笑っていた。
琴音は思わず目を輝かせる。
「拓人先輩…。」
声をかけようとした瞬間、胸が妙に高鳴るのを感じた。
(……あれ?どうしたの、私。)
鼓動が速くなる。なぜか、拓人の顔をまともに見られない。目を合わせると、視線をそらしたくなる。
(なんでこんなにドキドキするの……これって……。)
琴音はぎゅっと手を握りしめる。こんな気持ちになるなんて、予想もしていなかった。
(でも、私は悠真先輩のことが……。)
拓人を意識してしまう自分を認めたくない。でも、それは確かに心の中で芽生えていた。
拓人は琴音の様子に気付いたのか、首を傾げる。
「どうした、琴音ちゃん?なんか変だぞ?」
琴音は慌てて視線を逸らし、顔をほんのり赤らめながら、笑ってごまかした。
「い、いえ!何でもないですっ!」
拓人は怪訝そうにしながらも、深くは追求せずに、再びベースの弦を弾いた。
しかし、琴音の心の奥では、答えの出ない感情が静かに揺らいでいた——。
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