第17話:Cry for Freedom

7月初旬、蒸し暑さの残る夕方。

舞依はスタジオのドアを押し開くと、染みついたアンプの匂いと微かな埃の香りが鼻をくすぐった。


何度も通った場所。ここでバンド仲間たちと音を重ね、夢を語り合い、音楽で生きることを誓った。


マイクスタンドの前に歩み寄る。片手でマイクを持ち上げ、その感触を確かめる。

指先でケーブルをなぞりながら、ゆっくりと深呼吸する。


8月には「全国ティーンズバンドフェス」の決勝トーナメントが控えている。勝ち抜いたら、さらに大きなステージが待っている。


「……いけるよな」

練習が始まる前に、舞依は小さくつぶやいた。

すると、その瞬間、記憶の波が押し寄せた。――――――


舞依の両親は、共に東都大学卒のエリート。

父は国家公務員として重要な政策を手がける官僚。

母はベンチャー企業の社長として、自らのビジョンを形にする仕事に没頭している。

どちらも多忙で、家庭にいる時間はほとんどない。

舞依のステージを見たことも一度もなかった。


彼らにとって、東都大学進学は「努力して勝ち取る目標」ではなく、「当然の道」。

特別な選択ではなく、生まれた時点で決まっている進路のようなもので、

それは信念に近いものだった。

選択肢の幅を広げるためではなく、単にその道を歩むことが当たり前。

舞依はそんな環境で育ち、自然と「自分も東都大学に行くのだろう」と思い込んでいた。


小学生のある日、舞依は叔母のアトリエを訪れていた。

窓から差し込む柔らかな陽の光に包まれたその空間には、絵の具の香りと静けさが漂い、心が不思議と落ち着く。


ふとした瞬間、舞依は自然と口ずさんでいた。お気に入りの曲。その旋律がアトリエの空気に溶け込む。

すると、キャンバスに筆を走らせていた叔母の手が止まり、舞依をまっすぐ見つめた。驚きと感動が入り混じったような眼差しだった。


「舞依、すごくいい声ね。こんな素敵な歌を、もっとたくさんの人に聴かせたらいいのに。」


その一言は、舞依の心の奥深くに、やさしくも強く響いた。それまで歌うことは、ただ楽しくて気まぐれな遊びのひとつにすぎなかった。

しかし、叔母の言葉はその遊びに意味を与え、初めて「誰かに届けたい」と思わせてくれた。


その日から、舞依の中で何かが変わった。「歌いたい」ではなく、「伝えたい」——その感情に突き動かされるように、彼女は小学校のコーラス部に入部する。


初めて仲間と声を重ねた瞬間、舞依は鳥肌が立つような感動に包まれた。ひとつの音が、誰かの声と重なって、美しく広がる。そのハーモニーに、舞依はすっかり魅了された。


叔母とのひとときは、彼女にとってただの記憶ではない。音楽に目覚める「始まりの場所」であり、歌うことが人生の中心になっていく予感を初めて感じた瞬間だった。


そして中学に入学すると、軽音部の存在を知る。バンド——それまで舞依にとっては、どこか遠い世界のものだった。

しかし、「バンドってどんな感じだろう?」という好奇心が湧き、軽音部の活動を

見学することにした。


スタジオに響く力強いギターの音、ドラムのリズム、ボーカルの熱い歌声。それは、今までコーラスで感じたものとは違う、新たな音の世界だった。


「……楽しそう。」

そう思った瞬間、舞依の中で何かが動いた。


もっと自由に歌いたい、もっと音を重ねたい。そんな気持ちに突き動かされるように、軽音部に入部することを決めた。


そこで出会ったのが、今のバンドメンバーたちだった。

穂奈美、香澄、彩は、小学生の頃から親と楽器を演奏していた。


穂奈美はギターを弾き、父と一緒にブルースやロックを奏でていた。

コードを覚えるたびに、音の奥深さに魅了されていった。


香澄はベースを演奏し、母とジャズやポップのセッションを楽しんでいた。

低音の響きが音楽に安定感を与えることを、小学生の頃から肌で感じていた。


彩はドラムを担当し、親とバンド形式で演奏することも多かった。

リズムを刻む楽しさを知り、音楽の土台となることに誇りを持っていた。


萌絵は幼い頃からピアノを習い、クラシックの美しさに触れながらも、ポップや

ロックの曲をアレンジして遊んでいた。

その経験が、キーボード奏者としての感性を育てていった。


それぞれが音楽の基盤を持ち、バンドとして自然に結びついていった。

舞依にとって、彼女たちとの出会いは、自分の歌声をバンドという形で表現する

新たな道を示してくれるものだった。

そんな彼女の価値観は、尚斗との出会いによって、更に揺らいでいく。


中学3年生の春、舞依は尚斗とスタジオの片隅で話していた。尚斗は高校3年生になり、進路を考え始めていた頃だった。


「尚斗って、大学行くんでしょ?」

ふと、舞依が聞いた。

彼女にとって大学はまだ先の話。けれど、尚斗が進学を意識しているのを見て、

どこか気になった。


「ああ。青葉学院大学を考えてる」

尚斗はギターを軽く弾きながら答えた。

「青葉学院?なんで?」

「クルーガー准教授の授業を受けたいんだよ。

音楽を哲学的な視点で語る人でさ、すごく面白いんだ」

「哲学?」

「そう。音楽って、単なる娯楽じゃなくて、人の思想を伝えるものだっていう

考えなんだ。

『音楽が社会を動かす』って言ってたのが印象的だったな。

バンドの音も、ただの自己表現じゃなくて、人の価値観を揺さぶるものだって」


その言葉に、舞依は思わず前のめりになった。

「人の価値観を揺さぶる……?」

「うん。例えばロックが生まれた背景とか、パンクムーブメントが何を訴えたかとか、音楽は時代を変える力があるって話。」


「音楽を通して社会に声を届け、旋律に想いを刻む。俺は、それをちゃんと学びたいと思ったんだ」


いつもライブで音を重ねていた尚斗が、そんな風に音楽を捉えていることに驚いた。舞依にとって、音楽はまさに心の叫びそのもの。

だけど、それ以上に大きな力があるのかもしれない——

そんな考えが胸の奥で揺らめいた。


「……私も、尚斗と同じ大学に行きたいな」

気づけば、ぽつりと本音が漏れていた。


尚斗は驚いたように彼女を見て、少し笑った。

「いいじゃん。本気で考えてみたら?」


その言葉が、舞依の中にしっかりと根を張った。

その感情が確信に変わったのは、母から冷たい言葉を浴びせられた日だった。


「お母さん、私、青葉学院に行って音楽について研究したい。

そして、今のバンドで仲間たちとプロになりたいの!」

舞依は、意を決して、母に本音を伝えた。


――その瞬間、母は舞依を小ばかにするように、冷たく笑った。

「夢みたいなこと言ってないで、現実を見なさい。」

「中学の時に少し話題になったくらいで。音楽の世界は甘くないのよ。」

「東都大学に行っておけば間違いないから」


心が凍る。母の言葉は刃となり、舞依の胸に深く突き刺さった。

期待なんて、初めからするべきじゃなかったのか。

それでも、諦めるなんて、できるはずがない。


父はいつも通り、冷静で理知的かつ合理的だった。

「成績がトップであるうちは、学生の間は続けてもいい。」

条件付きの許可——それは、応援とは程遠く、ただの妥協だった。

父にとっても、舞依のバンド活動はあくまで“趣味の延長”に過ぎなかった。

可能性を認めるのではなく、制約の中でのみ許される選択肢。

両親の考えは、揺るがなかった。


「東都大学に行けば間違いはない。」

それが、人生における最適解だと、疑う余地もなく信じていた。

それ以外の道は、ただの遠回り——

価値のない選択肢だと、最初から決めつけていた。


舞依が音楽に情熱を注いでいることは、彼らの「常識」では到底理解できない世界だった。


「私の気持ちなんか、分かろうともしないくせに。」

胸の奥に押し込めていた想いが、静かに噴き出す。


「歌は、誰かに認めてもらうためにあるんじゃない。」

「歌は、自分の存在を証明するためにあるんだ。」

その夜、彼女は何かに突き動かされるようにノートを開き、言葉を書き始めた。


《Cry for Freedom》

制服で縛られても、心まで縛られたくない。

夢を見て何が悪いの?

知った風なことを言わないで。

そんな大人たちに、私の歌を聴かせるの。

敷かれたレールは私の迷路。

「お前には出来っこない」?そんなの、誰が決めたの?

鍵かけられたこの空に、自分の声で風穴をあける。

"私は私"を叫ぶだけ。

誰にも渡さないこの夢、この未来。――――――


舞依ははっと我に返る。ギターのチューニング音が遠くから響いた気がした。それは、穂奈美たちが来た合図だった。

スタジオに活気があふれてきた。それが、彼女の胸の高鳴りを際立たせる。

舞依は再びマイクスタンドに向かって立ち、深く息を吸った。


「……よし、いける。」


歌う準備は整っていた。もう迷わない。

あの日の言葉も、両親の声も、全部この歌に変えていく。


8月の決勝トーナメント。そのステージの向こう側へ——

舞依は、歌い続ける。

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