第十八話:未知の波動

研究室には、エウロパからの**『歌』**の解析に集中する、独特の緊張感が漂っていた。コンソールが放つ微かな光が、薄暗い室内を照らし、それぞれの顔に陰影を落とす。窓の外には、いつの間にか太陽が傾き始め、オレンジ色の光がビルのガラスに反射し、研究室の壁に不規則な模様を描き出していた。その光は、深海の生物発光を思わせるような、幻想的な美しさがあった。

「解析は順調に進んでいます。ヘリオスの並列処理能力を最大限に活用し、約70%のデータが可視化されました」ルナが、真剣な眼差しでコンソールを見つめながら報告する。彼女の表情は、徹夜続きの疲労を隠しきれないものの、その瞳の奥には、新たな発見への揺るぎない情熱が燃えていた。頬には、いつの間にか微かなクマができていたが、彼女自身はそれに気づいていないようだった。*(この**『歌』*は、まるで生命の設計図のよう…これほど複雑な情報を、どうやって、あの氷の衛星が…?)

翔太は、デスクに頬杖をつき、熱心にモニターを覗き込んでいる。彼のカップからは、淹れたてのコーヒーの湯気が立ち上っていた。その香りが、わずかに室内の緊張感を和らげる。

「で、結局なんて言ってんだよ、エウロパの奴らは?『やあ地球人、元気?』とかか?」翔太は、冗談めかして言ったが、その声には、未知への期待と、ほんの少しの不安が入り混じっていた。彼は、このSFのような状況が、まだ完全に現実だと信じきれていない自分に苦笑する。(まさか、本当に宇宙人とコンタクト取れるなんて…夢にも思わなかったぜ。でも、もしヤベー奴らだったらどうすんだ…?)

「残念ながら、まだ具体的なメッセージは読み取れません。しかし…」ルナは、言葉を選びながら続けた。彼女の眉が、わずかに寄せられる。「この**『歌』には、地球の『歌』とは異なる、非常に古い情報が含まれているわ。まるで、宇宙の黎明期から存在する『記憶』**のような…私たち生命の、はるか遠い祖先から語りかけられているような、そんな感覚よ」

樹は、エウロパからの**『歌』に耳を傾けるように、静かに目を閉じた。彼の内側で響く宇宙の『歌』と、エウロパからの『歌』が、微かに共鳴し合っているのを感じる。それは、彼がこれまで感じてきた『調和の歌』とは、明らかに異なる響きを持っていた。より深遠で、より根源的な、宇宙そのものの『鼓動』**のような感覚。彼の脳裏には、漠然としたイメージが浮かび上がる。星が生まれ、銀河が形作られ、生命が芽吹き、そして滅びゆく…そんな、遥かなる時の流れの断片が、走馬灯のように駆け巡っていく。

(これは…『意志』とは違う…『記憶』…?まるで、宇宙の過去が、この*『歌』*を通して僕に語りかけているようだ…あの、宇宙の始まりから脈々と受け継がれてきた、壮大な物語…) 彼の意識は、限りなく深い淵へと誘われていく。

刹那は、そんな樹の様子を心配そうに見守っていた。彼の眉間に、微かな皺が寄っているのを見て、彼女はそっと彼に近づき、肩に手を置いた。その手は、彼の意識を現実に繋ぎ止めるアンカーのように、じんわりと温かい。

「樹君、大丈夫?無理はしないでね」彼女の声は、優しく、樹の心を落ち着かせるようだった。*(樹君は、いつも一人で全てを抱え込もうとするから…でも、今、私たちはここにいる。彼を支えたい…どんな**『歌』*も、彼なら受け止められるはずだから…)

樹は、ゆっくりと目を開けた。刹那の温もりが、彼の意識を現実に引き戻す。

「ああ、ありがとう、刹那。少し…この**『歌』**に、飲まれそうになった」彼は、微かに震える声で答えた。

その時、ヘリオスが、これまでとは異なるトーンで報告した。彼の合成音声に、わずかな動揺が感じられる。ディスプレイに表示された彼のアイコンも、通常の青から、警戒を示すオレンジ色に変わっていた。

「樹所長、ルナ主任。緊急警告。太陽系外から、新たな波動を検出しました。エウロパの**『歌』とも、地球の『歌』**とも異なる性質を持っています。その周波数は…異常なほどに不安定です」

モニターの中央に、突如として赤と黒の不規則な波形が点滅し始めた。その波形は、まるで何かが激しく軋み、歪んでいるかのような不快な響きを伴っていた。それまで穏やかだった研究室の空気は、一瞬にして鉛のように重く、緊張に包まれる。

「不安定…?」ルナが険しい表情でモニターに顔を近づける。彼女の科学的な好奇心よりも、危機感が先に立つ。その瞳には、かつての**『サイレント・コーラス』現象の悪夢がよぎった。「これは…ノイズというよりは、『不協和音』に近い…しかも、これまでの『サイレント・コーラス』**とは明らかに違う…より、根本的な歪み…?」

翔太は、冗談めかした態度を捨て、真剣な表情でモニターを凝視した。彼の顔から、血の気が引いていくのが見て取れる。その不快な波動が、彼の全身にざわめきを与えた。

「おいおい、なんだこの気持ち悪い音は…まるで、宇宙の悲鳴みてぇじゃねーか…」*(やっと**『調和』**が始まったばっかだってのに、今度はなんだってんだ!?せっかく平和になったのに…!)*彼の脳裏には、街が再び混沌に陥る悪夢がちらつく。

樹は、その不協和音を、自身の**『歌』で受け止めた。彼の全身に、再びあの激痛に似た感覚が走り抜ける。それは、宇宙の『歌』が歪み、悲鳴を上げているのと同じ痛みだった。しかし、以前のような絶望感はない。彼の内に宿る『調和の意志』**が、その不協和音の本質を理解しようと、強く働きかけていた。彼の体は痛みを感じていても、心は揺るがない。

(この*『歌』は、何かが『壊れている』…誰かが、『苦しんでいる』…この痛みは…宇宙が発しているSOSだ…!)* 彼は、この新たな『不協和音』**に、救いを求める声を感じ取っていた。

「ヘリオス、この波動の発生源を特定できるか?」樹の声は、痛みで微かに震えていたが、その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。彼の心は、目の前の危機に立ち向かう覚悟を決めていた。

「現在、発生源を解析中です。しかし、その波動は非常に強力で、急速に太陽系に接近しています」ヘリオスの声にも、緊迫感が漂う。モニター上の赤と黒の波形は、ますます激しさを増していく。

ルナは、コンソールのキーを猛烈な勢いで叩き始めた。彼女の指が、まるで精密機械のようにディスプレイ上を駆け巡る。

「この波動は、太陽系全体の**『歌』の『調和』を乱す可能性があります!もし、これが何らかの意図を持って発せられているとしたら…私たちは、この『歌』にどう応えるべきなの…!?」*(こんな歪んだ『歌』が、私たちの『調和』*を壊してしまうなんて…絶対に止めないと!)

刹那は、樹の震える手を、そっと両手で包み込んだ。彼女の温もりが、樹の痛みを和らげるように、優しく伝わってくる。彼女の表情は、不安と、しかしそれ以上に、彼への深い信頼と愛情に満ちていた。彼女は樹の横で、共にこの困難に立ち向かうことを決めていた。

「樹君…」彼女の瞳には、**『歌』の未来を託すかのような、強い意志が宿っていた。*(たとえどんな『歌』が来ても、樹君ならきっと、『調和』*できるはず。私たちが、そばにいるから…!)

研究室の窓の外、穏やかだったはずの陽光が、どこか不穏な色を帯びて見えた。遠くでサイレンの音が微かに聞こえるような錯覚に陥る。宇宙の**『歌』が、新たな局面を迎えることを告げるかのように、不規則な『不協和音』**が、彼らの心を揺さぶり続けていた。


(第十八話 完)

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