第2話 ひとつめの失敗

わたしの人生には、

取り返しのつかない失敗が、ふたつある。


そのうちのひとつは──5歳のとき。


生まれて間もない頃から、

わたしの身体は、ときどき壊れていた。

血の泡を吐いて倒れ、白目を剥いたまま痙攣する。

病名はうろ覚えで、あまり気にしたこともなかったけれど、母の泣き声は、いまも耳に残っている。


「健康に産んであげられなくて、ごめんね」


何度もそう言って、母はわたしの髪を撫でた。

その手の温度と、頬に落ちる涙の感触だけが、確かな記憶として残っている。


死の恐怖は、よくわからなかった。

でも、母が泣くと、世界が割れてしまいそうで怖かった。

5歳のわたしは、ただそれだけが辛かった。


──ひとつめの失敗は、このとき。


わたしは、生きてしまった。

命を落とすかもしれないと告げられた手術を、越えてしまった。


手術は成功した。

数年は“普通”と呼べるような生活をしていた気もする。

家はあった。食事も衣服も揃っていた。


けれどやがて、父の愛情がわたしには向けられていないことを、知った。


母だけを深く愛していた父にとって、

母の愛を引き裂いたわたしは、

許しがたい存在だった。


わたしに自我が芽生えるほど、父の行動は激化した。


母がいない時間、家の中は怒号に満ちていた。

叩かれ、蹴られ、押し入れや、小さな箱の中に閉じ込められる。

鍵はかかっていなかった。

出ようと思えば、出られたのかもしれない。

でも、父の許しが出るまで、わたしは一度も自分の意思で扉を開けたことがなかった。

泣いてはいけない。声を出してもいけない。

扉を開けてはいけない。

それが「ルール」だった。


耳を塞いでも、鼓膜の奥で怒鳴り声が跳ね返る。

手足はしびれ、関節がきしみ、

わたしは声を殺し、息をひそめ、

目を閉じて耐えていた。


──そんなときだった。

気配に気づいて目を開けると、

ふたつの細い瞳孔が、暗闇の奥にぽつんと浮かんでいる。


じっと、わたしを見つめる目。

真黒な毛並みが、光のかけらすら呑み込んでいた。



黒猫。



暗闇に溶け込んで、瞳だけが浮かぶその姿は、どこか少しだけ可笑しかった。


黒猫は、いつだってわたしの隣にいた。


ねえ、黒猫。

「パパ、どうして怒ったのかな」

「ママ、今日も泣いてたんだ」

「わたし、どうしたらママを守れるかな」


コソコソと問いかけるけれど、黒猫は何も言わない。

猫が突然流暢に話し出す──そんなことは起こらない。

黒猫はただ、毎回決まって、目を細めて「にゃあ」と鳴くだけだった。


笑い声のない家で、

誰のことも怒らせないように、わたしは器用に愛想をふりまいた。


この家庭が「普通」ではなかったと気付きはじめたのは、丁度中学生の頃だった。


周りの普通に気付いてしまってから、

わたしの内側に黒い靄のようなものが立ちこめはじめた。

それは日を追うごとに濃くなり、わたしの中をゆっくりと覆っていった。

すべてがその靄に飲み込まれるまで、そう時間はかからなかった。


その頃には父は、わたしへの関心を失い、

暴力も、罵声もほとんど無くなっていた。

それなのに、

わたしの内側は、どんどん冷えていった。



── 何も感じられない、という感覚。


── 生きているのに、どこにも自分がいないという感覚。


── 誰にも必要とされないという、深い虚無。




ねえ、黒猫。

「わたし、生きていていいのかわからないの」

「生きていたいのかどうかも、よくわからないの」

「ママを泣かせて、パパに疎まれて、どうして生きてるんだろう」

「殴られていた頃より、今の方がずっとつらいの」

「上手に笑えなくなっちゃった。どうしてかな」



毎日、少しずつ心は崩れていって、

真黒な欠片が、わたしの内側からほろほろと流れ落ちていく。

誰にも気づかれないように、静かに、静かに。


それでも黒猫は、どこからともなく現れて、

わたしに寄り添い、落ちた欠片を、丁寧に舐める。

まるで、それが当然のことかのように。


私の横で「にゃあ」と鳴く黒猫も、

ひと回り程、大きくなっていた。


一人きりのわたしに、黒猫だけが、いつだって寄り添って傍にいた。あの暗がりの中でも。


光の届かない、心の奥でも。

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