凡人と黒猫
山田 汐- やまだうしお -
第1話 最初のズレ
皆が皆、当たり前のように、
誰かの何かになれると思っていた。
大人たちはよく「夢を持て」と言ったし、
子どもたちは、あまりに軽やかに
「将来の夢」を口にしていた。
テレビの中の人たち、クラスの人気者、
目立つ子、褒められる子。
彼らには“理由”があった。
それぞれに、なにか光るものが見えた。
きっと、わたしにもあるはずだった。
わたしだけの何かが、あると信じていた。
思考も、感情も、希望も、
あふれるほどにあった。
止まらないくらいに。
夢を持って、自分を生きて、
誰かと寄り添って、愛し愛され、
家庭を築いて、幸せに老いて、
見送られて死んでいく。
――みんな、そうなるんだと思っていた。
それが「普通」なのだと思っていた。
だから、信じていたかった。
でも、本当は知っていたのかもしれない。
誰もが簡単に、誰かの何かにはなれない。
「普通」という言葉が、
どれほど得難く、どれほど難しいものか。
平凡であることが、
どれほど尊く、遠いものか。
“普通”にすらなれない人間がいる
そんな事実、知らなかった。
*
いつからだったか、夜が苦手になったのは。
家の中にいるのに、どこか外のような冷たい風が吹いていて、
寝室の隅の暗がりが、じっとわたしを見ている気がした。
風のせいだと、きっと気のせいだと、
必死に信じ込もうとしたけれど、
あの夜の空気の重さだけは、どうにも説明がつかなかった。
鈍い音が壁の向こうから聞こえて、
食器の割れるような音と、低く怒鳴る声が混じる。
それでも、わたしの耳だけは、その音を聞かなかったことにした。
息を殺して、布団の中で天井を見ていた。
天井には何もなかった。
けれど、暗闇の中には、何かがいた。
その夜のことは、何度思い出そうとしてもぼんやりとしている。
ただ、確かに思い出せるのは、部屋の扉が、少しだけ開いていたこと。
その隙間の奥で、ふたつの細い瞳孔がこちらを見ていた気がした。
ぬるり、とした視線。
毛並みの中から湧き出すような、形のない“気配”。
怖くはなかった。むしろ、安心した。
誰も見てくれない夜に、誰かが見守ってくれているような気がして。
わたしは目を閉じて、黒い何かに名前をつけた。
そして、心の中で、そっと呟いた。
——おいで、黒猫。
そう呼ぶと、暗闇がわずかに揺れた。
目を凝らすまでもなく、そこに“それ”がいると、わかった。
ふいに、冷たい空気が頬をなでた。
足音もしないのに、何かが近づいてくる気配。
ベッドの端に、すとん、と小さな重みが乗る。
私は、顔を上げなかった。上げたくなかった。
視界の端に、黒い毛並みが揺れる。
こわくない。なのに、涙が出た。
初めて名前を呼んでくれた人に出会ったような、
あるいは、自分が自分に「いいよ」と言えたような。
そんな不思議な安堵に、体がふるえていた。
ねえ、黒猫
「また、来てくれる?」
返事はなかった。
ただ、その夜は、ずっとそばにいてくれた。
——“普通”の人生なんて、とうの昔に、
どこかで脱線していたのかもしれない。
それでも私はまだ、自分のことを「普通」だと、思い込んでいた。
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