終章:君色に染まる東京で

クライマックス後の日々、そして「東京」の変化

あの、全てが崩壊しかけた嵐の夜。結城が、全てのプライドを捨てて、剥き出しの弱さと欲求を晒け出し、そして小春が、その全てを受け入れるという、揺るぎない覚悟を決めた瞬間から、季節はゆっくりと、しかし確実に一巡りし、東京の街には、再び、木々が鮮やかに色づく秋の気配が訪れていた。空は高く、どこまでも澄み渡っているように見える。だが、結城 創と、彼が率いることになった(あるいは、瓦礫の中から、彼と共に立ち上がることを選んだ仲間たちと、新たに再建を目指すことになった)新生「株式会社ネクストリーム」を取り巻く状況は、決して、この突き抜けるような秋の空のように、一点の曇りもなく晴れ渡ったわけではなかった。むしろ、その道のりは、以前にも増して、険しく、地道で、そして終わりが見えないかのようにも思えた。

(結城 視点) 結城は、以前の、成功の象徴であった、目も眩むような高層ビルのオフィスとは比べ物にならないほど、こぢんまりとした、しかし窓から暖かな陽光がたっぷりと差し込む、新しいオフィスの一角で、ノートパソコンの画面に集中していた。かつてのような、権力と富を誇示するかのような、イタリア製の高級家具で設えられた、だだっ広い社長室ではない。今は、他の数少ないチームメンバーと同じフロアにある、ガラスで仕切られただけの、質素だが、無駄がなく機能的な空間が、彼の仕事場だ。ネクストリーム社は、法的には存続しているものの、事実上、一度、死んだに等しい。スキャンダルによって、多くの虎の子の技術や特許、そして何よりも、社会的信用という、金では買えない最大の資産を失った。優秀な人材も、残念ながら、少なからず会社を去っていった。絶望的な状況だった。誰もが、ネクストリームも、そして結城 創も、もはや再起不能だろうと囁いていた。 しかし、彼は、諦めなかった。残ってくれた、数少ない、しかし本当に会社の理念と、そして彼自身を信じてくれた仲間たちと共に、そして何よりも、あの、人生で最も暗く、そして孤独だった夜に、彼の全てを受け入れ、「一人にはしない」と、彼の凍てついた心を溶かすほどの温もりと覚悟を示してくれた、佐伯小春という、唯一無二の存在を、心の支えとして、彼は、ゼロから、いや、焼け跡のようなマイナスからの、困難極まりない再出発の道を選んだのだ。 今の彼の、ビジネスに対する取り組み方は、以前とは、その根幹から、明らかに違っていた。もちろん、成功への渇望や、世界を変えたいという野心が、完全に消え去ったわけではない。彼の本質は、そう簡単には変わらない。だが、その、目指す山の頂は同じでも、登り方が、そして登る目的が、大きく変わっていた。かつてのような、短期的な利益の最大化や、市場シェアの拡大だけを、なりふり構わず、時には他者を犠牲にすることも厭わずに追い求めるような、アグレッシブで、冷徹で、そしてどこか空虚さを伴うやり方ではない。今は、もっと地道に、一歩一歩、関わる人間——クライアントも、社員も、そして社会全体も——にとって、本当に価値のある、持続可能な、そして、何よりも「誠実」と呼べるビジネスを、たとえ時間がかかっても、築き上げていくことに、彼は、これまでに感じたことのない種類の、静かで、しかし深い充実感と、そして確かな意義を見出していた。 それは、かつての、結果だけを追い求めていた彼からすれば、非効率で、甘く、そしておそらくは退屈極まりないやり方に見えたかもしれない。だが、あの、全てを失いかけた経験を経た、今の彼にとっては、それこそが、唯一、進むべき道であり、そして、彼が、人間として、再び立ち上がるための、唯一の意味のある道のように思えたのだ。失ったステータスや、かつての成功体験に対する未練がないわけではない。だが、それ以上に、今、この、小さくとも、誠実であろうとする場所で、信頼できる仲間たちと、そして何よりも小春と共に、未来を創り上げていこうとしている、このプロセスそのものに、彼は、これまで感じたことのない、本物の価値を感じていた。もちろん、その道は、以前よりも遥かに険しく、資金繰りは依然として厳しく、失われた巨大な信用を取り戻すには、想像を絶するほどの長い時間と、地道な努力が必要だろう。だが、不思議なことに、以前のような、常に何かに追い立てられ、焦り、そして心の奥底では常に孤独を感じていたような、あの、乾いた感覚は、今の彼の心には、もうほとんど存在しなかった。

(小春 視点) 小春もまた、この、激動の一年で、彼女自身が驚くほど、大きく、そして逞しく成長していた。彼女は、結局、悩んだ末に、安定した、しかしどこか閉塞感も感じ始めていた鳩屋フーズを退職し、結城が、文字通りゼロから再建を目指す、新しいネクストリーム社に、彼のパーソナルアシスタントであり、同時に、経営全般のサポート役という、彼女にとっては全く未知の、そして重責とも言える役職で、加わることを、自らの意志で選んだのだ。それは、彼女の人生における、最大の、そして最も勇気のいる決断だった。安定した大企業の正社員という立場を捨て、世間からはいまだに厳しい目を向けられ続け、その未来が決して平坦でも、約束されているわけでもない、小さなベンチャー企業に、自分の人生を賭ける。周囲からは、当然のように、猛反対された。心配した両親も、故郷の友人も、「考え直せ」「君のためにならない」と、涙ながらに説得してきた。それでも、彼女は、自分の選択を曲げなかった。なぜなら、彼女は、結城 創という人間の、苦悩も、弱さも、そして、それでも再び立ち上がろうとする不屈の精神をも、誰よりも近くで見てきたからだ。そして、彼のそばで、彼の夢を、今度は、ただ見守るだけでなく、一緒に追いかけ、支えたいと、心の底から、強く願ったからだ。それは、もはや、単なる憧れや、同情などではない、もっと深く、成熟した、パートナーとしての決意だった。 もちろん、新しい職場での仕事は、想像以上に、厳しく、そして困難の連続だった。経営戦略、財務諸表の読み方、法的な契約書のチェック、投資家とのコミュニケーション… 彼女がこれまで全く触れたことのない、高度で、専門的な知識とスキルが、日々、雪崩のように要求される。そして、結城の、仕事に対する要求水準は、以前と変わらず、いや、むしろ、少数精鋭となった今、以前にも増して高く、厳しいものがあった。時には、彼の期待に応えられず、自分の力不足、知識不足に、情けなくて、悔しくて、一人で涙を流す夜もあった。 しかし、彼女は、もう以前のような、ただプレッシャーに怯え、戸惑い、そして自分を責めるだけの、未熟な新人ではなかった。あの、人生で最も過酷だったであろう嵐のような日々を、彼と共に(物理的には離れていても、心は常に彼のそばにあった)乗り越えたという経験が、彼女の中に、これまで知らなかったような、確かな自信と、どんな困難にも、簡単には屈しない、しなやかな強さを与えてくれていた。彼女の持ち味であるはずの、素直さ、純粋さ、そして他人の痛みに寄り添える共感性は、決して失われることなく、むしろ、その上に、厳しい現実を知った上での、揺るぎない芯のようなものが、確かに加わっていた。そして、何よりも、彼女には、結城 創という、絶対的な信頼を寄せ、そして心から尊敬できる存在が、今、すぐ隣で、共に戦ってくれている。その事実そのものが、彼女にとって、何物にも代えがたい、力強い支えとなっていた。

そして、二人が、仕事においても、そして、少しずつ育まれ始めたプライベートな時間においても、共に過ごす日々の中で、彼らが感じる、そして彼らが見る「東京」という街の風景も、以前とは、明らかに、その色合いや、温度感を変え始めていた。 かつて、上京したての小春が感じていた、この街の、人を拒絶するかのような、圧倒的な冷たさや、無関心さ。そして、成功の頂点にいたはずの結城が感じていた、常に誰かに監視され、評価され、そして蹴落とされるかもしれないという、張り詰めた戦場のような感覚、そしてその裏にある深い孤独感。それらが、完全に消え去ったわけではない。東京は、依然として、巨大で、複雑で、そして時には、容赦なく非情な顔を見せる、手強い街だ。 だが、彼らは、もう、その巨大で、時に冷たい街に、それぞれが、たった一人で、立ち向かっているのではない、ということを知っていた。 仕事帰りに、少しだけ遠回りして、肩を並べて歩く、ライトアップされたオフィス街の、きらびやかな夜景。週末に、二人で、人混みを避けるようにして訪れる、都心の喧騒から少しだけ離れた、緑豊かな公園の、穏やかな昼下がり。あるいは、どちらかの(主に、依然として小春が住み続けている、あの、彼にとっては驚くほど狭いが、しかし不思議と落ち着く、小さな)アパートの部屋で、一緒に、スーパーで買ってきた食材で、ささやかな、しかし温かい手料理を作り、食べる時間。そんな、二人だけで共有する、何気ない、しかし、かけがえのない時間の中で、彼らは、この、ともすれば人を孤独にする、巨大なコンクリートジャングルの中に、二人だけの、温かく、安全で、そして心から安らげる「場所」を、確かに見つけ、そして育み始めていた。 朝の満員電車は、今でも、決して快適ではないけれど、隣に、彼の、あるいは彼女の気配を感じられるだけで、以前感じていたような、息が詰まるほどの苦痛は、不思議と和らぐような気がした。高層ビルの窓に灯る、無機質に見えた無数の光の群れも、以前はただ、自分とは無関係な、空虚な風景にしか感じられなかったけれど、今は、その一つ一つの窓の奥に、自分たちと同じように、誰かが、誰かを想いながら、喜びや、悲しみや、希望や、絶望を抱えながら、懸命に生きているのだと、そんな、人間的な温もりを感じられるようになった。 東京という街の、物理的な温度が、実際に変わったわけではないのかもしれない。だが、彼ら自身の「心」の「体温」が、そして、二人の間に、ゆっくりと、しかし確実に育まれている、信頼と愛情に満ちた、温かい関係性の「温度」が、彼らが日々、触れる東京の風景を、少しずつ、しかし確実に、「二人だけの色」——それは、優しくて、穏やかで、そして希望に満ちた色——に、染め始めている。そんな、確かな、そして力強い変化の兆しが、彼らの、ささやかだが、かけがえのない日常の中に、満ち溢れ始めていた。それは、決して派手な、劇的な変化ではない。だが、彼らにとって、失ったどんなものよりも、はるかに価値のある、静かで、しかし何よりも力強い、希望に満ちた変化だった。


結城の内面の変化と満たされた心

(結城 視点) 結城 創は、自分が、この一年という、彼の人生全体から見れば、ほんの短い期間で、まるで別の人間であるかのように、根底から変わってしまったことを、もはや疑いようのない事実として、そして驚くほどの静けさをもって、受け入れていた。それは、決して、彼が自ら望んで、あるいは計画して引き起こした変化ではなかった。むしろ、彼のコントロールを完全に超えた、嵐のような不可抗力によって、彼の価値観も、生き方も、そして心の在り方さえもが、強制的に変容させられた結果だった。だが、その、痛みを伴う変容の果てに、彼が手に入れたものは、かつて彼が失うことをあれほどまでに恐れていた、富や名声、社会的成功といった、きらびやかで、しかし空虚なものたちの総和を、遥かに、遥かに凌駕するほど、深く、そして本質的に価値のあるものだと、彼は、今、心の底から、静かに、そして確信をもって感じていた。

かつての彼は、常に、飢え、そして渇望していた。どれほどの成功を手にしても、どれほどの富を築き上げても、そして、世間からどれほど多くの称賛と羨望の言葉を浴びせられようとも、彼の心の奥底には、常に、決して満たされることのない、まるでブラックホールのような、深く、暗い空洞が、ぽっかりと口を開けていた。その正体は、おそらくは、歪んだ承認欲求であり、過剰な自己顕示欲であり、そして、それらの根源にある、幼い頃から彼を苛み続けてきた、深い、深い孤独感と、自分自身の本来の価値に対する、根源的な不安だったのだろう。彼は、その、決して満たされるはずのない心の空洞を、何かで埋め合わせるかのように、さらに大きな成功を、さらに強い外部からの刺激を、そして、次から次へと、新しい「何か」——それは、新しいビジネスであり、新しい高級車であり、新しい、そしてすぐに飽きてしまう女性関係であったりもした——を、まるで強迫観念に駆られたかのように、必死で求め続けていた。あたかも、底の抜けた器に、永遠に水を注ぎ続けようとする、愚かで、そして哀れな行為のように。人間関係でさえ、彼にとっては、その、一時的な渇望を満たすための、あるいは、成功者としての自分を飾り立てるための、アクセサリーのような、そして容易に交換可能な、手段でしか、本当はなかったのだ。

だが、今は、全く違う。 もちろん、ビジネスに対する情熱や、一度は失いかけたものを取り戻し、再び頂点を目指したいという野心が、完全に消え去ったわけではない。彼は、根っからの勝負師であり、挑戦者だ。しかし、彼の心の中心には、以前のような、常に何かに追い立てられるような、乾いて、ささくれだった、満たされない空虚感は、もう、どこにも存在しなかった。その場所は、彼自身も気づかないうちに、驚くほど自然に、そして完全に、佐伯 小春という、たった一人の、そして彼とはあまりにも対照的な女性の、その、温かく、穏やかで、そして揺るぎない存在そのものによって、満たされていたのだ。 彼女が、ただ、彼のそばにいてくれるという、その、当たり前のようでいて、しかし奇跡のような事実。彼女が、彼の、輝かしい成功も、そして、おそらくは彼の人生で最も惨めであったであろう、あの絶望的な失敗も、その全てを、批判も、同情も、そして見返りを求めることもなく、ただ静かに、受け入れてくれているという事実。彼女が、彼の、他の誰も、そして彼自身でさえも気づかないような、ほんの小さな心の機微や、体調の変化に、誰よりも早く気づき、不器用ながらも、しかし、そこに一切の打算も計算もない、心からの、温かい気遣いを示してくれること。そして、彼女と共有する、決して豪華ではないけれど、心が通い合う、何気ない日常の、ささやかな会話や、一緒に食べる温かい食事の時間、そして隣に座って感じる、彼女の、穏やかで、心地よい体温。 それら、一つ一つが、彼が、これまで、どれほど巨万の富をつぎ込んでも、どれほど華々しい社会的成功を手に入れても、そしてどれほど多くの人間から賞賛され、求められようとも、決して、決して得ることのできなかった、深く、静かで、そして揺らぎようのない、心の充足感と、魂の安らぎを、彼に、日々、もたらしてくれていた。物質的な豊かさや、他人からの評価、外部からの刺激だけでは、決して、決して満たされることのなかった、人間としての、最も根源的で、そして最も大切な「何か」が、彼女という存在との、深く、そして誠実な繋がりの中に、確かに、そして豊かに存在していることを、彼は、もはや疑いようもなく、日々、実感していた。まるで、長年、乾ききっていた砂漠の大地に、ようやく慈雨が降り注ぎ、草木が芽吹き始めたかのように、彼の心は、ゆっくりと、しかし確実に、潤いと、温もりと、そして生命力を取り戻しつつあった。

その、彼の内面の劇的な変化は、必然的に、彼の価値観そのものをも、大きく、そしておそらくは永続的に、変えた。かつて、彼にとって、金や、社会的ステータスや、他人からの評価、そしてビジネスにおける「勝利」は、絶対的なものであり、それこそが、人間の価値を測る、唯一無二の、そして最も信頼できる物差しだと、心のどこかで、強く信じていた。その価値観に基づいて、彼は、多くのものを手に入れ、そして同時に、多くのものを切り捨ててきた。 だが、今は、違う。もちろん、それらが、依然として、この資本主義社会で生きていく上で、無視できない、重要な要素であることは、彼も十分に理解している。しかし、もはや、それらが、彼の人生における、絶対的な、あるいは、最優先の目標ではなくなっていたのだ。それらは、あくまで、目的ではなく、手段、あるいは、結果としてついてくる副産物でしかない、と。 では、彼にとって、本当に、何よりも大切で、価値のあるものは、何なのか。 それは、たとえ、再び全てを失うようなことがあったとしても、それでも、きっと変わらずに、自分のそばにいてくれるであろう、たった一人の、かけがえのない存在。互いの、光も影も、強さも弱さも、全てを、ありのままに受け入れ、心から信頼し、そして、どんな時でも、互いを支え合うことができる、偽りのない、本物の人間関係。そして、日々の、ささやかな暮らしの中に、きらめくような、しかし確かな喜びや、心が温かくなるような温もりを、見出すことができる、穏やかで、満たされた心。 彼は、皮肉なことに、人生の頂点から、一度、奈落の底へと突き落とされた、その、最も暗く、そして最も苦しい経験を通して、初めて、人生における、本当に、そして永遠に価値のあるものの、その、目には見えないけれど、確かな存在に、気づかされたのかもしれない。そして、その、遅すぎたかもしれないが、しかし決定的な気づきは、彼を、以前のような、常に、他人と比較し、競争し、そして勝利することだけを追い求め、その結果、常に満たされず、孤独で、そしてどこか攻撃的ですらあった成功者から、もっと、地に足が着き、自分自身の内なる価値を信じ、そして、他者との、温かい繋がりを大切にできる、ある意味で、本来あるべき「人間らしい」強さと、しなやかさを持った男へと、静かに、しかし確実に、変えつつあった。金やステータスへの、かつてのような、強迫観念にも似た執着からの、ある程度の解放。それは、彼に、想像もしていなかったほどの、精神的な自由と、そして深い、深い平穏を、もたらしていた。

そして、彼自身が、おそらく最も驚き、そして密かに喜びを感じている変化は、これだろう。かつての彼は、自他共に認める、極度の飽き性であり、常に新しい、より強い刺激を求め続ける、典型的な「アドレナリン・ジャンキー」だった。それは、次々と新しいビジネスモデルを立ち上げては、軌道に乗るとすぐに興味を失ってしまう彼のビジネススタイルにも、そして、次から次へと、違うタイプの、魅力的な女性たちと、短く、そして поверхностный(表面的な)関係を結んでは、すぐに飽きて別れてしまう、彼の、ある意味で刹那的な女性関係においても、一貫して、明確に現れていた。どんなに魅力的で、知的で、そして美しい女性と出会っても、彼は、驚くほど短期間で、その相手の本質——あるいは、彼が勝手に作り上げた理想とのギャップ——を見抜き、そして、容赦なく「飽きて」しまっていたのだ。彼にとって、人間関係とは、特に男女の関係とは、常に、消費されるべきコンテンツであり、使い捨ての道具のようなものだったのかもしれない。永遠に続くものなど、何も信じていなかった。 だが、佐伯 小春に対してだけは、全く、全く違ったのだ。 彼女と、あの、衝撃的な出会いから、そして、あの、運命を変えた嵐の夜から、一年以上という、彼にとっては、これまでのどんな関係よりも長い時間が、確実に経過している。その間、彼らは、決して平坦ではない、様々な出来事を、共に経験し、そして乗り越えてきた。彼は、彼女の、最初は頼りなく見えたけれど、実は驚くほど芯が強く、粘り強い面も、彼女の、普段は穏やかだが、理不尽なことに対しては、意外なほど頑固に立ち向かう面も、彼女の、少し世間知らずで、抜けているように見えるけれど、実は、物事の本質を、驚くほど鋭く、そして純粋に見抜く洞察力も、そして、彼女の、どんな困難な状況に置かれても、決して失われることのない、根っこの部分での、太陽のような明るさと、深い、深い優しさも、おそらく、この世の誰よりも、彼は、深く、そして詳細に知ることになったはずだ。普通の人間関係であれば、あるいは、かつての、移り気で、飽きっぽかった彼であれば、これだけの時間を共に過ごし、相手の全てを知り尽くしてしまえば、とっくに「飽きて」いても、あるいは、理想と現実のギャップに「幻滅」していても、全くおかしくないはずなのに。 不思議なことに、彼は、佐伯小春に対して、全く、微塵も、飽きることがないのである。それどころか、まるで、毎日、新しいページをめくるかのように、彼女と共に過ごす、一見、単調に見えるかもしれない日々の中で、彼は、常に、彼女の中に、新しい魅力や、新しい発見をし続けているような、そんな、新鮮な驚きと喜びに満たされている自分に気づいていた。彼女が、仕事で、彼も驚くような、粘り強さと根性を見せる瞬間。彼女が、ふとした瞬間に見せる、少女のような、無邪気な笑顔。彼女が、彼の、誰にも理解されないような、マニアックな趣味の話に、目を輝かせて、一生懸命に耳を傾けてくれる時の、真剣な表情。そして、彼にだけ、心を許した時に見せる、少しだけ甘えるような仕草や、はにかんだような、愛らしい笑顔。 それら、彼女を構成する、無数の、そして日々、新たに発見される要素の全てが、彼にとって、尽きることのない、深い興味と、そして、言葉では言い表せないほどの、切ないまでの愛おしさの、尽きることのない源泉となっていた。彼女という存在は、彼にとって、決して全てを理解し尽くすことのできない、深く、豊かで、そして常に新しい発見に満ちた、魅力的な書物のようなものなのかもしれない。あるいは、彼が、その、乾ききった、そして常に何かを探し求めて彷徨い続けてきた人生の果てに、ようやく見つけ出すことができた、ただ一つの、永遠に飽きることのない、そして彼を、本当の意味で満たしてくれる、「真実」そのものなのかもしれない。 彼は、自分が、これほどまでに、深く、そして持続的に、そして穏やかに、たった一人の人間を、心から大切に想い、そして、その存在に感謝することができるという、その、かつての自分からは想像もできなかった事実に、今更ながら、深い、深い驚きと、そして、これまでに感じたことのない種類の、静かで、しかし何よりも確かな幸福感を、まるで大切な宝物を慈しむかのように、日々、噛み締めていた。それは、かつての彼が、富や成功や、刹那的な快楽の中に追い求めていた、刺激的で、しかしすぐに消え去ってしまう、表面的な幸福とは、全く次元の違う、もっと、滋養に満ち、魂そのものを深く満たしてくれる、本物の充足と呼ぶべき、温かい感情だった。彼の心は、ようやく、本当の意味で、満たされ始めていたのだ。佐伯小春という、ただ一人の存在によって。


二人の関係性の現在

結城 創と佐伯 小春。彼らの関係性は、あの、全てを失いかけた絶望の淵で、互いの存在そのものを賭けるかのような選択をした瞬間から、もはや以前とは全く異なる、新しい次元へと移行していた。それは、ただ単に恋人同士になった、というような、安易な言葉で表現できるものではない。共に、人生における最大の嵐を乗り越え、互いの最も醜い部分も、最も脆い部分も、そして最も美しい部分をも知り尽くした上で、それでも、いや、それだからこそ、互いをかけがえのない存在として選び取った、深く、静かで、そして何よりも揺るぎない、魂のレベルでの結びつき。それが、彼らの「現在」の関係性の、本質だった。

(結城 視点) 結城にとって、小春との日々は、驚くほどの、そして彼がこれまで知らなかった種類の「平穏」に満ちていた。かつての彼が、常に追い求めていたはずの、アドレナリンが沸騰するような興奮や、刹那的な快楽、あるいは、他人を圧倒することによる優越感。そういった、常に彼を駆り立てていたはずのものが、不思議なほど、必要なくなっていた。 もちろん、再建途上にある会社の経営は、依然として困難の連続であり、眠れない夜もある。だが、隣に、彼女の穏やかな寝息を感じながら眠りにつく時、あるいは、朝、目覚めた時に、最初に彼女の、少しだけ寝癖のついた、無防備な笑顔を見る時、彼は、これまでの人生で感じたことのない、深く、そして絶対的な安心感に包まれるのだった。それは、まるで、長い、長い航海の果てに、ようやく辿り着いた、安全で、温かい港のような感覚だった。 彼は、もはや、彼女の前で、完璧な「結城 創」を演じる必要性を感じていなかった。仕事でうまくいかずに苛立っている時も、過去のトラウマが蘇って、ふと陰鬱な気分に沈む時も、彼は、それを隠すことなく、彼女に(もちろん、彼なりの、不器用な形ではあるが)示すことができるようになっていた。そして、彼女は、決して彼を責めたり、安易に励ましたりするのではなく、ただ、黙って隣に座り、彼の背中をそっと撫でてくれたり、あるいは、彼が好きな、少し苦めのコーヒーを淹れてくれたりする。その、言葉にならない、しかし深い共感と受容が、彼にとっては、何よりも力強い慰めとなり、そして、再び立ち上がるためのエネルギーを与えてくれるのだった。 そして、彼は、驚くほど、彼女の、些細な、そして時には非合理的にさえ見える行動原理や、感情の機微を、正確に理解できるようになっていた。彼女が、ほんの少しだけ眉をひそめるだけで、彼女が何に戸惑い、何に心を痛めているのかが分かる。彼女が、少しだけ早口になったり、視線を泳がせたりするだけで、彼女が何かを隠そうとしているか、あるいは、何か嬉しいことがあって、それを伝えたくてうずうずしているのかが、手に取るように分かるのだ。それは、長年連れ添った夫婦のような、あるいは、それ以上の、言葉を超えた、深いレベルでの理解と共鳴だった。彼は、もはや、彼女の心を、分析したり、予測したりする必要性を感じていなかった。ただ、感じればよかった。彼女の心を、自分の心の一部であるかのように。

(小春 視点) 小春にとっても、結城との関係は、当初、想像していたものとは、全く違う、しかし、想像していた以上に、深く、そして満たされたものとなっていた。彼と出会った頃に感じていたような、彼我の圧倒的な差に対する劣等感や、彼の冷たさに対する恐怖心は、もうほとんど感じなくなっていた。もちろん、彼が、依然として、並外れて知的で、有能で、そして時には、恐ろしいほど冷徹な判断を下す、特別な人間であることに変わりはない。だが、彼女は、もはや、その「特別さ」に、ただ圧倒されたり、卑屈になったりすることはなかった。なぜなら、彼女は、彼の、その「特別さ」の裏にある、人間的な脆さや、孤独や、そして、自分に対してだけ見せてくれる、不器用で、しかし深い愛情を、誰よりもよく知っていたからだ。 そして、彼女は、自分が、彼にとって、単なる「支え」や「癒やし」の存在であるだけでなく、時には、彼を「導く」存在にさえなり得るのだということを、実感するようになっていた。彼が、あまりにも合理性を追求するあまり、大切な何かを見失いそうになっている時。あるいは、過去の成功体験や、プライドに囚われて、判断を誤りそうになっている時。彼女は、決して彼を頭ごなしに否定するのではなく、しかし、彼女なりの、真っ直ぐで、そして本質を突くような言葉で、「本当に、それでいいんですか?」「もっと、大切なことがあるんじゃないですか?」と、彼に問いかけることができるようになっていた。そして、驚くべきことに、彼は、以前なら決して耳を貸さなかったであろう、彼女の、そんな、ビジネス的には非効率かもしれないが、しかし人間としては正しいと思える言葉に、真剣に耳を傾け、そして、時には、自らの考えを改めることさえあったのだ。その事実は、彼女に、大きな自信と、そして、彼と対等なパートナーとして、共に未来を築いていくのだという、強い自覚を与えてくれていた。 彼女もまた、彼の、ほんの些細な表情の変化や、声のトーン、あるいは、彼が好んで使う、少し皮肉めいた言い回しの裏にある、本当の感情や意図を、驚くほど正確に読み取ることができるようになっていた。彼が、強がって「何でもない」と言っていても、その目の奥に、隠しきれない疲労や、苦悩の色を見つけることができる。彼が、ぶっきらぼうな言葉で、彼女の仕事を評価する時も、その不器用な表現の中に、彼なりの、深い信頼と、感謝の気持ちが込められていることを、彼女は、ちゃんと理解していた。言葉にしなくても、彼らは、互いの心を、まるで鏡のように映し出し、そして、深く理解し合っている。その、確かな感覚が、彼女の心を、何よりも強く、そして温かく支えていた。

彼らの間に流れる空気は、大人の恋愛だけが持つことができる、深く、そして穏やかな安定感と、落ち着きに満ちている。互いの存在を、空気のように自然に受け入れ、尊重し、信頼し、そして、それぞれの持つ個性や、一人の時間をも、大切にする。だが、その、心地よい安定感の中に、決して、恋愛感情の摩耗や、退屈といったものは、微塵も存在しなかった。むしろ、そこには、出会ったばかりの頃のような、互いへの、新鮮な好奇心や、あるいは、あの、全てを賭けて互いを選び取った、激しい嵐の夜のような、常に、相手の存在そのものに対する、抗いがたいほどの強い「引力」と「情熱」が、形を変えながらも、決して失われることなく、静かに、しかし力強く、存在し続けていたのだ。 そして、興味深いことに、かつて彼らの関係に、ある種の緊張感や、危険な魅力をもたらしていた、ほんの微かな「毒気」のようなものさえも、今や、二人の関係を、より深く、そしてより人間的にするための、隠し味のような、あるいは、スパイスのような役割を果たしていた。結城のかつての、人を寄せ付けないような「毒」は、もはや、他者を傷つけるためのものではなく、むしろ、小春だけを守り、そして彼女だけを魅了するための、鋭利で、しかし抗いがたい「色気」や「深み」のようなものへと、不思議と昇華されていたのかもしれない。そして、小春の、一見、世間知らずに見えるほどの「純粋さ」は、もはや、ただの無垢さではなく、どんな困難や、どんな醜さをも受け止め、そして、相手の良心を呼び覚ますような、静かで、しかし何よりも強い「浄化作用」を持つ力となっていた。彼らは、互いの「毒」さえも、愛し、受け入れ、そして、それを、二人の関係を豊かにするための、ユニークな魅力へと変えてしまっていたのだ。

なぜ、この、あまりにも対照的で、そして多くの困難を経験した二人が、これほどまでに、強く、そして深く、惹かれ合い、そして結びついているのか。 かつて、彼ら自身も、そして周囲の人間も、その答えを見つけられずに、戸惑い、あるいは否定しようとした問い。その答えは、もはや、理屈や、言葉で説明する必要など、どこにもなかった。それは、彼らが、互いを、ただひたすらに見つめ合う、温かく、そして信頼に満ちた眼差しの中に。それは、彼らが、何気ない日常の中で交わす、短い、しかし心が通い合う会話の中に。それは、彼らが、困難な現実に立ち向かう中で、ごく自然に、互いの手を握り合い、支え合う、その、当たり前のようでいて、奇跡のような瞬間の、その積み重ねの中に。彼らは、互いの、光り輝く部分だけでなく、最も暗く、醜い部分をも、知り尽くし、そして、その全てを、ありのままに受け入れ、愛している。そして、互いの存在そのものが、相手にとっての、生きる意味であり、希望であり、そして、かけがえのない「帰る場所」となっている。その、シンプルで、しかし、この世界で最も得難い、絶対的な事実。それこそが、彼らを、他の誰でもない、この二人を結びつける、最も強く、最も美しく、そして永遠に変わることのない、唯一無二の理由だったのだ。彼らの愛は、東京の冷たさの中で、互いの体温によって温められ、そして、本物の輝きを放ち始めていた。


終章の結び

東京の空が、茜色から深い藍色へと、ゆっくりとその表情を変えていく。一日の喧騒が終わりを告げ、街には無数の灯りが、まるで地上の星々のように、優しく瞬き始めていた。 小春の、決して広くはない、しかし、二人の思い出と、温かい生活の匂いが染み付いたアパートのリビング。その窓辺に、結城と小春は、肩を寄せ合うようにして立っていた。窓の外には、いつか結城が、孤独と虚無感の中で見下ろしていたはずの、巨大な都市のパノラマが広がっている。しかし、今、二人の目に映るその景色は、かつてのような、人を寄せ付けない冷たさや、空虚さを感じさせるものでは、もうなかった。それは、無数の人々の、ささやかな、しかし懸命な営みが集まってできた、どこか人間的な温もりと、そして、二人がこれから共に生きていく未来への、静かな希望を感じさせる風景へと、確かに変わっていた。

結城の会社は、まだ、完全な再建を果たしたわけではない。その道のりは、依然として険しく、彼らが乗り越えなければならない課題は、数多く残されているだろう。世間の評価が、完全に好転したわけでもない。そして、彼らの、あまりにも対照的な背景を持つ関係を、好奇の目や、あるいは否定的な目で見る人々も、この先、いなくなることはないのかもしれない。

だが、彼らの心には、もはや、かつてのような、未来への不安や、他人の評価に対する恐れはなかった。その場所には、共に、想像を絶するほどの困難を乗り越えてきた者だけが持つことができる、深く、そして揺るぎない信頼と、そして、互いの存在そのものがもたらしてくれる、何物にも代えがたい、穏やかで、満たされた愛情だけが、静かに、しかし力強く、存在していた。

「ねえ、創さん」 小春が、彼の肩に、そっと自分の頭を心地よさそうに預けながら、窓の外の灯りを見つめて、柔らかく呟いた。 「ん? どうした」 結城は、彼女の髪に、そっと自分の頬を寄せながら、優しい声で応じた。その声には、かつての、人を寄せ付けないような冷たさは、もう微塵も感じられない。 「東京の夜景って、こんなに…綺麗だったんですね。なんだか、すごく…温かい色に見えます」 「……そうだな」 結城は、短く、しかし深い実感を込めて答えた。そして、彼女の肩を、そっと、しかし強く抱き寄せた。

そうだ、東京は、もう、君の温度を知っている。 いや、違うな。 俺たちが、この、冷たいと誰もが言うコンクリートの街を、俺たちの、二人だけの、温かい色に染めていくんだ。これから、ずっと、二人で。

結城は、心の中で、そう、確かな決意と共に呟いた。その想いは、言葉にしなくても、隣にいる、かけがえのない存在には、きっと、温かい体温のように、伝わっているはずだ。

彼らの、ささやかで、しかし、かけがえのない「日常」の物語は、これからも、続いていく。時には笑い、時には悩み、時にはぶつかり合いながらも、決して離れることのない、二つの確かな温もりと共に。この、かつては冷たく感じられた、しかし今は、二人にとって、かけがえのない希望の色に染まり始めた、東京という街で。

読み手の心に、厳しい現実の中で育まれた、大人の愛の深さと、その温かさ、そして、未来への、静かで、しかし力強い希望の余韻を、深く、そしていつまでも残しながら、物語は、ここで、そっと、その幕を閉じる。


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東京は、君の温度を知らない。 @nisshishi

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