ジムノペディの雨音

佐々森渓

本編

「はぁ~……」


 金曜日特有の飛び込み案件のせいで溢れ出た通常業務をどうにか片付け終えて、鹿島あかねは背伸びをした。

 疲れきった目頭をほぐしながら、パソコンをシャットダウンすると、まだ残っている同僚たちに声をかけてから退社する。


 外に出て時計を見れば、もうすぐ八時。自宅に着く頃には九時を超えてしまうだろう。

 待遇もそう悪くないと思っているが、こうして時折残業せざるを得なくなってしまうのが嫌なところだった。


(ごはん……どうしようかな)


 きゅう、と小さく鳴った腹を誤魔化すように歩き始める。


(食べて帰っちゃおうか。それに残業がんばったし)


 店を探そうと鞄からスマホを取り出すと、珍しい相手からのメッセージの通知があった。


「ああ……そういえば、そんな時期だっけ」


 前に会ってから、そろそろ一ヶ月だろうか。お誘いがくるには十分な時間が過ぎていた。

 メッセージが来た時間を確認すれば、幸運なことに数分ほど前。まだ返事を期待してくれているだろう。


「あ、もしもし」

 心地いい彼女の声を感じながら、あかねは駅へと歩を早めた。


 ***

 

 駅前の喫煙コーナー。紫煙溢れるそこへたどり着けば、ちょうど吸い終えたかのようにタバコの箱をしまいながら一人の女が外へ出てくる。


 すらっとした長身の、タイトなスーツを着こなした女だ。

 冷ややかな顔つきと、短く切りそろえられた髪、そして十センチはあろうかというハイヒールの靴。

 その全てが合わさって、いかにも出来る女という印象を振りまいている。


 可愛らしい雰囲気を目指した、あかねのオフィスカジュアルとは正反対だった。

 彼女は労働の疲れなど感じさせずに、すっと背筋を伸ばしたまま人込みを見渡す。

 そして、すぐ近くにいたあかねに気がつくや、にっこりと柔らかな笑みを浮かべる。


 彼女が皆瀬みなせさやか。

 待ち合わせの相手だ。


「ごめん、急に誘って」

「ううん、ちょうど残業してたし。狙ってたんでしょ?」


 雑踏の中でもよく通る甘やかな低い声の謝罪に、あかねはふふりと笑って返事をした。

 出来る女は帰宅も早い。さやかが退勤次第さっさと家に帰ることはよく知っている。

 あかねから誘って何度肩透かしにあったか。特に今月なんて全く捕まらなかった。忙しかったんだろうか。


「そんなことはないよ。たまたま、あたしも仕事が忙しかっただけ」

「ほんとにぃ~?」

「こんなことで嘘ついてどうすんの」

「それもそっか……ま、いいや。お腹限界だから、どっかいこ?」

「うん。すぐ近くのあそこでいい?」

「お任せします~」


 そうして二人は馴染みの店へと移動する。

 流れるように案内された個室で、いつものメニューを注文して、ふうと一息ついた。


「さっすがさやか。気が利くぅ~」

「ま、これくらいはね」


 誘ったんだから当然という態度だが、ここは予約を取るのも簡単じゃない。

 ちょっとびっくりしてしまう。


「またまた、謙遜しちゃって。とんとん拍子に出世してる人は違うね~」

「そういうあかねだって、しっかり正社員になったじゃない。会った頃は、適当に男引っ掛けるんです~とか言ってたくせに」

「我ながら人に嫌われそうな発言だわ~」


 あかねは思わず苦笑した。

 そんな浮ついたことは、今はもう言えない。

 そんな気にもなれないから、安定した職についたのだ。


「実際、あたしも嫌いだったし、わかってたでしょ」

「まぁねぇ」


 それが、どうしてこんな風に月末に飲みあう間柄になってしまったのか……。

 まったく、人生何が起こるかわからない。


「あ、お酒来た。じゃ、乾杯ってことで」

「うん、一ヶ月お疲れ様」

 こん、とグラスの打ち合わされる音がした。

 

 それから二時間と少し。たっぷり飲んで食べて愚痴った二人は、さやかの部屋にいた。

 家賃の安い郊外に暮らすあかねと違って、さやかは都心の新築マンションに住んでいる。昇進を機にローンで購入したらしい。一人で暮らすには少し広すぎて、どうして買ったのだろうと思っていた。


「うぅ……食べ過ぎた」

「だからそろそろやめなって言ったのに」


 自宅では望むべくもない巨大なテレビの前に置かれたソファーに、あかねは身を投げ出して沈んでいた。

 しばらく動きたくない。


「ほら、水飲みな。結構飲んでたから、気をつけないと明日キツイよ」

「うぅ……優しさが身に染みるよ……」

「まったく、もう少し自制しなよね。あたしらもいい歳になってきたんだし」

「まだまだ若いぞちくしょ~」


 そうはいっても、もうすぐ三十だ。新社会人の頃のような遊び方は、そろそろ厳しい。


「三十かぁ……」

「何、急に」

「歳はとりたくないなぁ……って」

「あかねはずっとキレイなまんまだよ」

「必死に努力してるんです~。してなさそうなさやかに言われたくないですぅ~」

「あたしだって人並みにはしてるよ」


 そう言って、あかねの頭のそばに腰を下ろしたさやかは、オーディオの電源を入れた。スピーカーから優しいピアノの音が流れ出す。

 ゆっくりと愛撫するような音色に浸っていると、あかねの髪にさやかの手が触れた。

 柔らかな撫で方には、優しさと怯えが同居している。それを少しくすぐったく感じながらも、されるがままにしていた。


「今日は、泊まっていい?」

「それは……お誘いって考えてもいい?」


 覗き込むように顔が近づいてくる。王子様みたいな目が、期待の色をしていた。


「イイよ。だって……」


 いつもこうでしょ?とあかねが続けようとした言葉を、さやかの唇がさえぎった。

 繰り返される鍵盤の音が弾ける中、さやかは甘えるように肌を寄せる。

 ほんとうはもっと野蛮にだってできるのに、あかねに触れるとき、さやかは驚くほどに優しい。

 まるでびくびくと怯えているみたいに。いつ離れていくか、恐れているみたいに。

 そこにはさっきまでの余裕はどこにもなく、どこにでもいる怖がりな女の子がいる。


「そういうことは言わないで」

「雰囲気が大切って?」


 茶化すような言葉を続けようとしたあかねは、目を伏せたさやかを見て口をつぐんだ。


「そういうの、ちょっとこわいな。そのためだけじゃ、ないのに」


 震えた声に、あかねは慌てて体を起こした。手を握って、首を振って否定していく。


「……ごめん、からかっただけ。しちゃいけない、からかいかただけど」


 あかねはついこういう言動をしてしまう。

 それは色恋に伴う駆け引きを根本的に理解できないせいだ。とてつもなく無神経だと理解はしていて、改めたいとも思っているのに、何かのタイミングで表に出てきてしまう。


「いいよ、わかってる。わかってるから、あかねを、選んでるわけだから」


 そう告げる声に力はない。外ではあんなにも強い人なのに、こんな簡単に弱くなってしまう。

 そんなさやかの事を、きっとあかねは大切に思っている。

 思っているはずなのに、漫画やドラマみたいな気持ちにならなくて、なれなくて。いつも悪いからかいをしてしまう。


「うん、ごめん。ごめんね……」


 償いのように、あかねはさやかを胸に抱き締める。震える瞳があかねを見上げてくる。少し濡れた、涙の目。


「……うん。でも、ごめん、ちょっとこの格好見せるの恥ずかしいから、シャワーいく」

「うん、わたしも後で」

「じゃあ、上がったら寝室にいるから……」


 逃げるようにお風呂場へと去っていったさやかを見送って、あかねはソファーにくずおれた。


(わたしって、ほんとバカだなあ)


 深くため息をつきながら、スピーカーへ目をやった。ピアノの旋律は終わりを迎えることなく繰り返している。まるで雨音のように、切れ目がどこにあるかも曖昧で、そのせいで止める気にならなかった。


 そういえば、あの時もこの曲が掛かっていたなと、ふと思い出す。

 それは仲の悪かったはずの自分たちが、こんな関係になってしまった日のこと。


 ――空っぽでふわふわした嫌な女のあかねと、芯を詰めた出来る女のさやか。


 相入れないと思っていたのに、お酒を入れて愚痴りあえば不思議と重なる部分が多くて……。

 だから、そう、あの日に起きたことは些細な掛け違いみたいなものだったんだろう。


 あの時のあかねは彼氏に振られて男なんてと愚痴を言っていたのだ。

 女のクセにと揶揄されるさやかも、うまく男の愚痴を合わせてきて、二人して男なんてクソだと盛り上がっていた。


 理想の王子様なんてどこにもいない。夢見たお姫様がどこにもいないみたいに。

 現実なんてクソ。そう愚痴を重ね合った。


「わかっているから妥協したいのに、色々求められすぎて嫌になる」

 そんなあかねの言葉に、「あたしが理想の王子様ならよかったのにね」

 なんて、さやかが茶化すものだから、酒の勢いであかねは軽口を言ってしまった。


「じゃあ、わたしの王子様になってよ。他の子には、したことあるんでしょ?」


 それは職場の狡猾な女たちの間で広まっていた噂だった。

 ただそれもお互い、酔いが浅ければ適当に笑って済ませられたのだろう。


 でも、その日はずいぶんお酒が進んでいたから、止められる理性はどこにもなかった。

 さやかは少しショックを受けたような顔をしてから、あかねの顎をくいと持ち上げた。


「本当にしてほしいなら、いいよ」

「して」そう、言葉を叩きつけてあかねは自分から肌を寄せた。


 改めて思い出すと、あの時さやかは拒んで欲しかったのかもしれないと考えてしまう。

 性愛の絡まない友人でいたいと、傷をつけ合うことがないようにしたいと。


 けれど、掛け違えを正すことなく、二人はその晩、さやかの部屋で肌を重ねた。


 さやかはどこまでも優しく、本当の王子様みたいにあかねをリードしてくれた。慈雨のように流れる指先から与えられた全てが、初めてのものだった。

 けれど、だった。

 いつも通り、胸の中に芽生えるものはなく。胸は高鳴りを知らず……ああ、わたしは本当にそういうものなんだなって納得した。


 だから、次の日の朝、タバコを吸いながらコーヒーを淹れてくれたさやかの、謝罪とカミングアウトが少しだけ羨ましかった。


(あの時のさやか、綺麗だったな)


 だからあかねの方から言葉にした。


「気が向いたらでいいから、これからもこんな風にしない?」


 たぶん、きっと、その輝きを少しでも近くで見ていたかったんだと思う。その感情が恋と呼ばれるものなのかどうか、あかねには、わからないままだけど。

 拒まれるどころか誘いの言葉をかけられたさやかは、少し事情を飲み込めないという顔をしてから受け入れてくれた。


 だけど、そういうところがダメだと思う。

 きっと、誰よりもお姫様になりたいくせに、外見のせいで演じるのは別の役。どれだけ繰り返したのか、板につきすぎている。

 ……そんなさやかが、どうしようもなく愛おしかった。だからこそ、隣に立ちたいと思ったのだ。冗談で必死なのがバレないようにして、どうにか同じ目線になれるように強くなろうと頑張っている。


 なのに、このザマ。


 誤魔化すための口先を、膨らませすぎて傷つけてしまった。


「はぁ……」


 ソファーでひっくり返って凹んでいると、シャワーを浴びたさやかが声をかけてきた。


「あかね、お風呂どうぞ」

「はぁい」

 自分も、お湯で色々なものを流してしまおうと思った。

 洗い流して、次に進まなくてはいけないと思っていた。

 

 肌から微かに湯気を上らせながら寝室に足を踏み入れれば、染み付いたタバコの臭いが鼻をくすぐる。

 間接照明が眠気を誘う部屋は、その大半を大きなベッドが占領していた。

 残る隙間に小物の入るタンスが押し込められていて、妙なミニチュア感がある。

 そんな広々としたベッドの端っこで、さやかはタバコを燻らせていた。あかねが腰を下ろすと、彼女は目だけでこちらを見た。


「長かったね」

「髪が長いと時間がかかるの。あと、さやかは短すぎ」

「いつも綺麗に手入れされててすごいなって思うよ。大変でしょ、それ」

「そーよ、大変なの」

「あたしにはできないな」

「ジム通いができる人がよくいうよね」

「話が違うと思うんだけど」

「似たようなもんだよ。どこでパワー使ってるかってだけ」


 体を鍛えるのも、髪を綺麗に保つのも同じくらい時間がかかるし、面倒だ。

 けれど、そうして手をかけるのは、それが力になるからだ。物質的なのか精神的なのかの差はあるけれど。


「なるほど。そうかもね」


 話を切ったさやかがタバコを灰皿で消した。

 二人してベッドに寝転がる。このベッドは一人で寝るには広すぎて、けれど二人で寝るには少し足りない。

 だから肌をくっつけあうとちょうどいい。そういう絶妙な大きさをしていた。


「もちもちしてる」

「風呂上がりなんだから当たり前じゃない」


 腕をくっつけあいながら、軽口を叩きあう。

 そういうことをしたい気持ちがあっても一度ご破算にしてしまったから、また歩み寄らなくてはいけない。


「いつも柔らかくて気持ちいいなって思う」

「なぁに、それ」

「あたしは、ほら、筋肉質だから」

「肌のハリはわたしよりあるくせに」

「そうかもだけど」


 お互い、自分に欠けているものは目につきやすい。

 でも、だからこそいいのかもしれない。そんな風に感じて、二人は笑い合う。


「背が高い」「小さくて可愛い」「かっこよくてムカつく」「可愛すぎて困る」


 戯れるように言葉を交わしながら、いつしか二人の影が重なった。肌に伸びた手は、自分に欠けたものを吸い上げるみたいに踊っている。

 吐息をこぼしたのはどちらが先だったか。

 お互いが入り混じる中で、あかねはそっと囁く。


「好き、キレイ」


 それはわからない感情を、自身に掘り込むための言葉。最初は上滑りしていたけれど、音を重ねた今ではさやかにもしっかりと響く。

 言葉にいらえるように、さやかの瞳が潤んだ。

 その顔に心が軋む。満たされることない欠落が、その空洞を主張する。


 それはなぁに? 問うようにひとつ、ふたつ。指先が震えて。

 あかねは焦がれるように、さやかの頬に触れる。


 そのぬくもりから伝う何かに、さやかが小さく笑みを作った。

 囁くような笑い声と、焦がれるような愛の言葉が、煙のように立ち上っては消えていく。


 そうして交わした名残を心地よく感じながら、彼女たちは抱き合って眠りにつく。

 

 白い雨雲越しの明りで仄白いリビングに、ピアノの音が響く。

 寝起きのシャワーを浴びた後、下着にシャツを引っ掛けただけの格好で二人はコーヒーを飲んでいた。

 それは体を重ねた日の習慣みたいなものだった。いつもなら、飲み終えた後にはもう一眠りをするところだったけど。


 今日は、さやかが居た堪れなそうな雰囲気を醸し出して、あかねを窺っていた。


「あの、さ。話したいことがあるんだけど」

「何?」


 別れ話でも切り出されるんだろうか。

 悪い冗談を言ってしまうことを考えたら、当たり前かもしれない。


 他人事のように考えながら答えると、さやかは何度か呼吸し直してキッチンへと歩いて行った。

 食器がしまいこまれているはずの棚から小さな箱を取り出すと、なぜかテーブルに置かないで、見えないところに隠してしまった。


「な、なに?」


 なにを出されるんだろう……不安でいると、さやかは意を決したように言った。


「あたしと、一緒に暮らしていかない?」

「それは……」


 シェアハウスとか、同棲とか。そういう誘いの言葉ではないだろう。

 あの箱の中身は、たぶんそういうもので。だからきっと、これは彼女にとってとても大きな意味を持つ言葉。


「えっと……プロポーズってこと、でいいんだよね?」

「まあ、そうなるかな」


 唐突な告白に戸惑いを隠せないあかねは、誤魔化すようにコーヒーを啜っていた。

 沈黙の中に、ただピアノの音が響いている。閉ざされている窓からは、装飾音のように小さな雨音がしている。


 答えを待つばかりのさやかは、忙しなくまばたきをしていた。

 やがて、傾きの変わらない湖面から唇へコーヒーが入らなくなってきた頃に、ようやくあかねは口を開いた。

 整理はまだまだつかないけれど、何かを言わなくてはいけない気がしたから。


「一つ、訊いてもいい?」

「な、なんでもいいよ」


 食いつくように返事をしたさやかを前に、あかねは少しだけ考えた。

 なんでわたしなの、という言葉には意味がない。ほしいのは、心に響く言葉。


「……この家、なんで家族向けのにしたの」

「……それが、聞きたいこと?」


 優しい、問い返しの声。

 言ってから少し後悔したが、口から転がり出たということはこれが知りたいことなんだろうと、あかねは頷きを返す。


 それを見て、さやかは少し恥ずかしがるように鼻を掻いて、言った。


「あかねと、住みたくて」

「そうなの?」

「最初は一人用を探してたんだけど、広告を見たら、あかねの顔が浮かんで……つい」

「ついで買えるような値段だっけ」

「んー、まあ、だいぶ違うけどね」


 別にというさやかに、あかねの頬が熱くなっていく。


「馬鹿じゃないの?」

「反論のしようがないね」


 恋というのは、ここまで人を愚かにしてしまうのか。あかねはいつの間にか微笑を浮かべていた。


「あ……」

「なに?」

「ううん……ええっと、それで」


 答えは、と急かすようにさやかが視線を合わせてくる。


「……いい、けど」

「けど!?」


 承諾の言葉についてきた音に、激しい反応がきた。たしかに、この言い方だとあまり良くない言葉が続きそうだ。

 だから、急いで言葉を続ける。


「いや、その……実はわたし、恋とかよく、わかんないし。たぶん、さやかのこと好きだけど、よくわかんないんだよね」


 そういえば、これに関しては初めて話すかもしれない。


「レズ……ええっと、ビアン?っていう方がいいんだっけ……まあ、ともかく、そういうのかもよくわかんない」

「あ、あんなにしてきたのに?」

「そ、そうだよ。わかんないの!」


 わからないからこそ、色々調べて、ボロが出ないように上手くやろうとした。主体的に動くことで、愛していると確認できると思ったから。


「だから、その、もしかすると、今後何か、目覚めちゃうかもしれないし……」

「男の人が好きになるかもって?」

「男に限んないけど。他の人をってこと」

「な、なんだ……」


 さやかは急に笑い出した。


「な、なによ!」


 そんなにおかしなことを言ったろうか。妙なことを言っていた自覚はあったけど。


「だって、そんなのビアンとか関係ないじゃん。たぶん、誰だってそういう不安を感じることってあるよ。一度好きになったら変わんないなんて、漫画だよ」

「でもさぁ……」


 ずっとわからないままだったから、それが怖いのだ。そう思い悩むあかねに、ふふりとさやかは微笑んだ。


「あたしが頑張ればいいだけだから」


 言って、彼女はあかねの手を握りしめる。


「ずっと、あかねが好きでいてくれるよう頑張るからさ」

「なにそれ」


 自信満々の言葉に、あかねはおかしくなってしまう。まったく、こういうことをさせたら彼女には敵わない。


「わかった。うん……いいよ」

「ありがとう。愛してるよ」


 そうして、さやかは膝の上から箱を取り出して、見せつけるようにして開く。

 そこに鎮座していた指輪を、すっとあかねの左薬指にはめ込んだ。


「これも勢いで買ったの?」

「さすがに考えて買ったよ。でも、あとで改めて買いにいこうか」

「なんで?」

「普段身につけるなら、二人で選んだ方がいいじゃない?」


 恥ずかしそうにさやかが言った。

 まったく、なんだろうそれは。あかねは自然と笑みになる。


「じゃあ、これは単なるプレゼント?」

「そうなるかな」

「もう……勢いで、無駄遣いしすぎだよ」

「無駄になってないからいいじゃない」

「まあ、そうだけど……そのせいで、最近捕まらなかったの?」

「あ、うん……ごめん」

「いいよ、もう大丈夫だから」


 あかねはぴったりとはまった指輪を見つめて、うっとりと呟く。


「じゃあ、わたしも頑張らなきゃな。さやかに呆れられないように」

「あたしは、どんなあかねでも大好きだよ」


 そう言いながら、さやかは誓うように指輪へ口付けを落とす。キザにもほどがあった。


「バカ。でも、そんなところがたぶん好き」

「たぶんってつかないようになって欲しいな」

「うん、そこはこれから……さやかと一緒に。あっ、でも、頑張りすぎないでね? 疲れてそっちからフるとか、無しだからね。教えておいて、とか、泣くから」

「わかってるよ。そうならないように、あかねも頑張ってくれるんでしょ?」

「……うん!」


 そうして笑顔を浮かべた二人は、誓うように唇を重ねる。

 そんな彼女たちの間には、ピアノの音が響いている。いつもは雨音のように聞こえたそれは、今では陽気な風のように響いていた。

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