脚注 とある吸血鬼の手記

第1話 ナプティア薬学教室

(※第三章最終話:『告発』をふまえた内容となっています。単独でも読めないことはないですが、やや理解は困難です)



 こんな形で調査報告書以外の文を記すのは初めてだ。きっかけは、我が友ナプティアの記録を読み返して、僕が述べた感想だった。


「思うに、これは少し冗長ではないかね。あとここも、独り善がりのきらいがあって実に君らしい。虚実をひと匙、虚勢をひと掴み。これを読んだ学生が“真実”に酔ったなら、それは君が上手く濾過ろかして香りだけ残したからだ。事実は底に沈めたんだろう?」


 初めのうちは彼も頷いていたが、次第に目に見えて苛立ち始めた。


「君が底に気づいたなら、それは私の濾過が甘かったせいか……あるいは、わざわざ泥まで飲み干した君の執念の賜物たわものか。私の書き方が気に入らないなら、君の誠実さで補えばいい、フレレクス。毒をすくって飲ませる技術とやら、ぜひ拝見したいものだな、」


 それきり口をきかなくなったので、こうして僕が筆を執ることになった訳だ。


 彼が多くの書を世に送り出し、今日こんにちの植物薬学のいしずえを築いたことは疑う余地もないが、こと彼自身の調薬についてはろくに記録に残さない。類まれなる才能に恵まれながら、僕の功績にばかり目を向ける。だからナプティアが書かなかった我々が都を旅立つまでの数日について、ささやかながら僕が脚注という形で記すことにした。






 聖水と古書の匂いにむせそうな神智塔の地下室。僕が訪れたとき、ここがナプティアの仕事場であり住処だった。薬学塔植生科の元副術長ともあろう彼が、こんな地下に押し込められたのは、ひとえに彼自身の書いた文書のせいだ。それを知ったときの僕の気持ちはなんとも苦々しいものだった。


 愚かだ。それ以外になんと言えと。


 魔物の名誉のためになにもかも手放すなど。それも死んだ魔物のために。


 またしても彼は、僕の筋書きをまんまと崩してみせた訳だ。


「出発する前にしなければならないことがある」


 ナプティアが大きな荷台を引いてきた。彼が覆いを取れば、真っ先に現れたのは蜂蜜酒ミードが数本だ。僕の方を見て、彼は慌てたような声を上げた。


「違う。違うぞ」

「まだなにも言ってない」

「私が飲むと思ってるんだろう? 違う、これは仕事用だ」


 これは彼の被害妄想だ。酒瓶の後ろにある硝石の詰まった袋といくつかのガラス瓶、異臭のする木箱。調薬の材料なのは、目を閉じていたって明白だ。


 ナプティアは暖炉の吊るし金に釜を提げた。彼の手が手袋を探して、机の引き出しをいくつも開けた。彼の手は手首から先が火傷に覆われている。魔術師の手だ。魔術の行使には魔法陣が必要となるが、体内にそのための臓器を持たない人間は自分で書いたり巻物を用意しない限り、掌の上に展開することになる。魔法陣は発動に熱を発するから、その手を守るための手袋が要る。だが、手袋で全てを防げるわけではなく、熟練の魔術師の手は赤と白の斑模様になる。


 ナプティアは僕が彼のことを知っている理由をいぶかしんでいたが、依頼なんてなくとも、彼が薬学塔の魔術師であることは、一目見ればすぐにわかる。両手の火傷、猫背と僅かに傾いた姿勢、すそに染みついたすす、酸で淡く抜けた利き手の袖口そでぐちの染色、肌身離さず持ち運んでいるダチュラの甘い匂い。


「1つ調薬を頼まれていてね。ようやく材料が揃ったところだ。出かける前に、片付けないといけない。たとえもう戻ってこないとしても。匙を投げるのは調薬以外と決めていてね」


 彼は暖炉に火をつけて、机の上に山を作っていた羊皮紙を広げた。


「僕のことはお構いなく。まさか神智塔まで依頼が来るとは随分と好かれているようだ」

「好かれてる? 残念ながら逆だ。今の私は薬学塔に立ち入れないから、誰かが受けて、その中で厄介だった依頼がこうやって回ってくる訳だ。今回は都市評議会か」


 結局のところ、彼の書いた文書は戯言たわごとと断じるにはあまりに内容に問題があり、かといって彼を処断するにはその“才”が、正しくはその才から生み出される“財”が惜しかったということだろう。学内に幽閉し、運用するのが最も国益になる。


「なにが欲しいって?」

魔法薬エリクシルさ、白舌薬とも言う。ひとたび飲めば、思考は泥濘ぬかるみに沈み、舌の上で真実のみが踊る」


 ナプティアは依頼書に革紐で繋がれた小瓶を覗いた。中には黒い小さな塊が入っている。ナプティアは目を細めて首を傾げた。


「爪か? 彼らはこの持ち主に手を焼いているらしい」

「足のな。なにをしたって?」

「書いてない。殺人か放火か……、いや、そんなことで私に依頼は来ない。もっと価値のある……さしずめ反体制派の魔術師でも捕らえたか?」

「君も十分反体制派だろ」

「私は魔術師の扱いに文句を言っただけだ。羽ペンで。可愛いものさ。彼らは先の敗戦国の復興を掲げて、都市をまるごと石化しようとしたことがある。おとぎ話のような話だが、恐ろしいことに事実だ。彼らの背後にはあの元大賢者ジェグラヌス卿がいるから、いくらかけてでも情報が欲しいんだろう」


 この魔術師学校の前身は亡国の魔術研究所だ。そこで最も名高い魔術師が二人いた。初めて魔法が武力として明確に使用されたと言われる先の大戦で、彼らは小国ながらも、今のこの国に甚大な被害をもたらし、最後には仲間割れという形で敗北を喫した。最後まで亡国のために戦ったのがジェグラヌス卿であり、敗戦を悟るや今の国に寝返ったとされるのが、ナプティアの師、元古代魔術塔変性科術長のオーウェン卿だ。ナプティアは自分の師を悪く書けないようだが、事実はどうあれ、売国の魔術師というのが彼の師の世間での一般的な呼び名だ。


 オーウェン卿により捕縛され全ての階位を奪われたジェグラヌス卿は、処刑の前日に忽然と消えた末、今もこの国に圧力を与え続けている。これはこの国の人間ならば誰もが知る2人の賢者の没落劇だ。


「魔法薬の材料は揃えると膨大な額になるが、調合に失敗した場合どうなるか知ってるか」


 彼はピンセットで瓶からローズマリーと竜血樹を出して、天秤で秤にかけると乳香とともに鉢ですりつぶし始めた。


「自分のポケットから補充しないといけない。不幸にも失敗が続いた場合……自分の家を引き払うか、調薬の道を諦めるかを迫られるのは、薬学塔の魔術師が初めに通る道だ」

「それで君は3軒手放した」

「ああ、全て同じあばら家だがね。売っては買い戻しを繰り返してる。そういう誰も受けたがらない、リスクの高い依頼専門というわけだ、今の私は。今回もそうだ。生憎今はもう家は引き払ったから、失敗した場合、なにを売るかは……今考えている最中だ」


 蜂蜜酒ミードを釜で温め、すり鉢の中身を釜に入れて、ナプティアは目を光らせて楽しげに笑った。


 彼自身がそれを自覚しているかはわからないが、彼にとってリスクは人生を転がすための滑車で、スリルは延命用の麻薬だ。蝋燭ロウソクに飛び込む羽虫のように、彼は破滅の匂いに魅了されるらしい。まるで、そこでしか息ができないみたいだ。


 ……にも関わらず、彼がまだ健在なのは、破滅の方が彼に寄り付きたくないのか、はたまた順番待ちの列が長すぎるのか。


「君が失敗するとでも? 調薬の手順書を書いている張本人が?」

「そしたら追手に取り立て屋も加わるわけだ。審問官に執拗に追われてた君にとってはいいスパイスだろう?」


 僕は肩を竦めた。


 彼がもう少し分別のある魔術師だったなら、もう少しまともな判断力があったなら、僕なんかとは関わらず、名声に守られて無難な日々を過ごしていたに違いない。


 ……だが、そうじゃなかった。


 そして、そうじゃなかったからこそ、今、我々はここにいる。


「それで。フレレクス、ずっとそこで突っ立っているつもりか? こんな口うるさい生徒がいた記憶はないが、見学希望というなら話は別だ。感想文の提出は期待できるのかな」


 ナプティアは牛角のカップに釜の中身を注ぎ始めた。


「折角の機会だ。最前列で拝聴させてもらうよ、先生」


 彼は鼻で笑って、僕の手にカップを押し付けた。先程彼が作っていた水薬だ。甘い蜂蜜の香りに、竜血樹の苦味が鼻をくすぐった。


「気付け薬か? 生憎、僕は授業で寝たことはない。学校に行ったことがないからね」

「飲みたくなければ飲まなくていい。この部屋は今から瘴気やら毒ガスやらで充満する。ただの“人間”には相応の準備がいるわけだ」


 彼は部屋の外に出て、立て札をかけた。“調薬中!立ち入り禁止!”と巨大な文字で書かれていた。


「物騒だな」

「物騒だと? それ以上だ」


 ナプティアは杯を一息に飲み干した。


「薬学塔の魔術師が治療室に運ばれる1番の理由は、フィールドワークでも、魔物との戦闘でもない。調薬の準備不足だ」

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