必要性

私の着想はフロイトが過去やトラウマに固執し過ぎていることにある。まだ深度が足りていない。アドラーは同じ地平に立ってフロイトの見落としの指摘に終始し過ぎている。二人は仲が良すぎる。別の地平が大切だと直感した。何が記憶されなかったにも注目すべきである。


つまり私が研究すべきだと思う部分は原体験から何が失われたかである。翻って何だけが記憶されたかである。


つまり記憶の傾向の調査。これは心理学的でありながら人という種の、根源的な意識と人格の境界の研究だと感じている。


本来、原体験は五感であらゆるものを感じ取る。しかし私達はその中のほとんどを記憶しない。今こうしてPCに向かいキーボードを叩く私の脳には現在の臭いは記憶されない。背中に感じる僅かな湿気も忘れられて、恐らく新しい発見を文字に書き換えているという喜びだけが記憶される。さらに内容さえも忘れるだろう。数日経てば読み返さないと詳細には思い出せない。だがそれでも私の中で十分に楽しい記憶であり、フロイト的な解釈をするとこの記憶は私をまた同じ行動へ向かわせる。


もし他の人にまったく同じ行動をとらせたらどうだろうか。この文章と全く同じ文字列をこの場所で強制的に入力させたら。おそらく背中に感じる湿気や私がそのままにしている洗い物の臭い、コバエとりの吸引材の臭いばかりが記憶され、それらはしばらくして同じような体験をした時に不快な印象として認識されることだろう。文字を打つこと、臭い、触覚が主だった嫌な記憶になる。


同種間で同じ入力をした時になぜこうも違うのだろうか。より単純な構造の蝶類は完璧に同じ入力であれば同じ反射を示すのではないだろうか?おおよそ同じ記憶傾向で同じ学習をするだろう。


しかし人間はおそらくそうではない。人格を持つ人間は過去の経験や種の性質により個々な記憶傾向を持つはずた。記憶する傾向、つまり人格を作るクセ。つまりそれが個性だ。


個性とは何をどう記憶するかと言えるはずだ。前述の例は私の感動体験の強制という横暴ではあるが、実験的な実測でも人間の記憶傾向には差異が生れるのではないだろうか?


フロイト、アドラー的な研究は今も進展しているが、そこからもう一つ発展すべきである。アラン的に言語で両者を記憶という一点で結び付けて、さらに深化させて原体験から記憶に移り変わる言語的記憶プロセスの調査をすべきだ。


何を記憶するのか、何を記憶しないのか。あるいは何を記憶しないで、何だけを記憶したのかである。

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