第8話 407号室の女

昼どき。

リリーはエレベーター前で、フードを目深に被った人物が立ち尽くしているのを見かけた。

顔はマスクで隠れていて、誰かは分からない。

ただ、背が低く、華奢で……どこかそわそわしていて落ち着きのない様子だ。


「…エレベーター、故障してるんだ。使えねぇよ。階段しかない」


言いながらリリーはふと眉をひそめた。


(知らない? 今までどうしてたんだ)


エレベーターには故障中の張り紙がない。

見た目には普通に動いているように見えるが、

実際は――もうずっと前から使えなくなっている。



相手は、小さな声で「ありがとう」とだけ呟いた。

かすれるようなその声から、女だと分かった。


そのまま踵を返し、階段を急いで降りていく。

何かから逃げるように。その後ろ姿をリリーは見つめていた。


「……見たことない奴だな」


「407号室のミナミだね」


声がして、振り返る。フーリーが柱の影に立っていた。


「うゎっ、びっくりした。なんでいんだよお前」


「デイジーに用があってさ。てか、あの子、久々に見たよ。相変わらずだね」


「知ってんのか」


「なんでも、元有名なアイドルらしいよ。俺は知らないけどね」


「元アイドルがなんで、こんなくたびれたマンションに住んでんだよ」


「さぁ?」


フーリーは肩をすくめて、

そのまま何気ない風に続けた。


「なんもない奴が、ここには来ないさ」


その言葉に、リリーは一瞬言葉を失った。


沈黙を割るように、隣で声がした。


「ねぇリリー。アイドルって、“たくさんの人に見られてた存在”だろ?」


ヘルターだ。


「……でさ、見られなくなった時、人ってどうなると思う?逆に言えば、“見られないように”ここに来たのかもねぇ」


「……」


「あ、でも今キミが見たから、彼女、“また視線を思い出した”かもね。よかったな、アイドル冥利につきるってやつ?」


人差し指を向けるヘルター


「黙れよ、お前」


誰にも聞こえない声にリリーは低く呟き、向けられた指を払い除けた。


その後ろで、フーリーが不思議そうに眉を寄せた。


「……おいおい、王子。ひとりで誰と喧嘩してんだ?」


リリーは一瞬黙りこくる。


フーリーは面白がっているのか、どこか悪戯っぽくニヤついて、


「薬いる? 今なら半額。“幻覚と幻聴が仲良くなる特効薬”、今ならチャイ付き」


「いらねぇよ!」


「えー?“お友達と大声で喧嘩する症候群”にはよく効くんだけどな〜、この辺じゃ割と流行ってるよ?」


「お前が流行らせてんだろうが!」


フーリーは、ケラケラと笑いながら。


「……ま、でも安心しな。ここじゃ頭の中に誰か飼ってるくらい、全然ふつうだからさ」


リリーはそれ以上何も言わず、ため息混じりにエレベーターのドアを睨んだ。


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