異世界転生した俺が、武力だけで悪役令嬢の夢想に付き合ってたら、世界征服しそうなんだが
香住七春
第1話 傘を盗まれて、命まで持っていかれた話
教室の机に肘をついたまま、今日の俺は空気だった。
誰とも話してないし、誰からも話しかけられてない。いや、厳密には『話しかけてくるやつ』はいる。
望んでないやつに限って。
「ねぇ
俺の机の上に、甘いリップの香りが落ちてきた。
まとわりつくような甘ったるい声がするほうに俺は目を向ける。声の主が誰かを確認する必要もなかったが、ここで読書を続けていたら「無視してんじゃねーぞ」とか乱暴な言葉遣いに豹変するのを俺はよく知っていた。
やっぱり渚だった。
前髪の隙間から見える釣り目が、こっちを見て笑ってる。
制服のシャツはボタンをひとつ外していて、わざと無造作な感じに見せている。計算され尽くした抜け感。
俺みたいなのが何を言っても負けるやつ。
「また泣けるやつ? もしかして昨日も泣いた? あ、ハンカチ持ってるよー私」
机をトントン叩いて、笑い声を少しだけ大きめにする。
教室の奥、黒板の前の女子たちがちらりとこっちを見て――笑った。
「やば、また渚やってる」と言いたげに口元を隠して、笑っている。
渚の声は、あの子たちに届くようにできている。
このやりとり自体が、渚にとっての軽い出し物なんだ。
「……読んでただけ」
俺が文庫本を引き寄せると、渚は少しだけ身を乗り出してきた。
「そーなんだ。読むとき、どんな顔してんの? 『くっ……』とか言って眉間にシワ寄せてそう。あ、もしかして、涙とか光ってたりする?」
隣の女子が吹き出したのが聞こえた。
渚は、笑う用意をしているやつしか集めない。
「ねえ、京くんってさ、いざって時下から支えるタイプだよね。こう、黙って尽くす感じ? あ、でも私のお願いは断れないって顔してるわー」
声が、耳の近くで落ちる。
さっきより一段トーンを下げて、甘えるような――でも、これは甘えじゃない。命令に見えない命令だ。
渚は俺の筆箱を勝手に開く。自分の家の冷蔵庫を開けるように。
取り出されたボロボロの消しゴム。もう使い古されてラベルに書いてある文字は読みにくくなっていたけど、辛うじて『よくまとまる!』と書いてあるのが分かった。
笑い声が、もう後ろの女子たちからも漏れている。
「小学生が使ってそうな消しゴムで草。愛いタイプでしょ、絶対。え、こわ〜い。彼女できたら絶対過去のメッセージ履歴とか消せないタイプでしょ〜京くん」
『彼女がいない前提』で話してくるのが心底ムカつくが、事実なので俺は目を伏せることしかできない。
俺は、何もしてない。
してないけど、『ネタ』として仕上げられていく感覚がある。
「渚、もうそれくらいにしなよ〜」と、誰かが言う。
けど、その声には止める力がない。渚も、振り返らない。
渚は、自分のターンが終わるまで終わらない。
そして、俺は。
その『ショー』のためだけに存在していた。
*
その日の放課後、昇降口の傘立ての前で、俺は五秒間だけ無になった。
無言でもなく、無表情でもなく、ただの無。
頭の中がしん、と静まりかえって、思考も感情も、何ひとつ動いていなかった。
あるべき場所に、傘がなかった。
それだけだった。
でも、それはただの一本の傘ではない。
濃いネイビーの折りたたみ。
持ち手のゴム部分は、うっすらと使用感がにじんでいて、ボタンの部分に小さなひっかき傷がある。
誰も気に留めないような違和感の集積が、俺にとっては『自分』と地続きの何かだった。
前の雨の日、教室に戻る途中、風にあおられてひっくり返ったあの傘を、両手で持ち直して、わざわざ手で骨を戻したことを思い出す。
あの時、傘は何も言わなかったが、俺には「ごめんね」と謝ってきたような気がしたのだ。
その傘が、今は、ない。
ふと視線を外に向けると、昇降口の先、校門を出たあたりに、制服の女の子がひとり歩いているのが見えた。
渚だった。
長めのスカートが風にひるがえり、黒いローファーの先が水たまりに沈んでいた。
その手には傘。ネイビーの、折りたたみ傘。
持ち手のひっかき傷まで、俺の記憶通りだった。
渚は傘をまっすぐに差していた。
誰かに借りた様子もなく、堂々と、まるでそれが“自分のもの”だと信じているかのように。
何も悪びれていないその後ろ姿を見た瞬間、なぜか、自分の心臓の音が遠くに聞こえた。
俺は濡れていた。肩が、じわりと重たい。シャツの中を水が伝っている感覚が、なぜか少し痛かった。
別に傘を返してほしいわけじゃない。
ただ、あの傘が、よりによってあいつの手にあるということが、俺には耐えられなかった。
掌に、鈍い熱が走った。
まるで誰かに「もう黙るな」と言われた気がして、 気づけば俺は渚の背中を追いかけていた。
渚の背中が、雨の中に溶けていく。
呼吸は重くて、口の中は鉄みたいな味がした。鉄の味を、かみつぶして俺は、渚の世界に向かって大きく声を投げつける。
不思議と、勇気も、度胸もいらなかった。なんだか自然に、涙がこぼれるようにぽろっと声が出たのだ。
「おい!」
その声は、渚の背中に届く前に、天から降り注ぐ怒号のような低く重たいうなり声にかき消される。それが轟雷であることは、すぐに分かった。
渚もその音に驚き、とっさに天を見上げる。それにつられるようにして、俺も天を仰いだ。
次の瞬間、世界のすべてが白に割れた。
音が遅れて追いついてきたとき、俺は、もう地面にいなかった。
*
――目が覚めたとき、最初に感じたのは、風の匂いだった。
気がつくと、果物の山に囲まれていた。
正確には、木箱に詰められた柑橘系の果実が視界の大半を占めていて、そのすぐ下に「すっぱい果実 三つで石貨三枚」と手書きされた札がぶらさがっていた。
札の文字は薄くて、縁は日焼けで反っていて、たぶん書き直された形跡もある。
そのくせに、俺の目はなぜかスラスラとその文字を読んでしまっていた。
「……は?」
反射的に声が出る。
それも、聞き慣れた自分の声じゃなかった。
高かった。幼かった。喉の奥が空洞になったみたいな、軽い響き。
自分の手を見下ろす。
小さい。指が細くて、骨っぽくて、日焼けしている。
俺の手ではなかった。でも、俺が見ていた。
そのとき、視界の端からぐいっと腕が伸びてきて、柑橘をひとつ鷲掴みにする。
「これ、ちょっと潰れてるわね。まけてくれない?」
目の前に立っていたのは、背中が曲がった老婆だった。
色あせた布の腰巻きに、しわしわのエプロン。片手に石貨の束。
「えっ……」
声が遅れて漏れた。
でも、身体のほうは勝手に動いていた。
俺の口が、俺の意思とは別に喋り出す。
「申し訳ありません、それも品質に含めての三枚でございます」
え、誰?
そう思ったが、俺の思考は言葉にならず、接客用の敬語がすらすらと出てきている。深々としたお辞儀までセットだ。
頭を下げている間、自分の背骨がぎくしゃくと動くのを客観的に見ている気分だった。
老婆は「ふぅん」とだけ言って石貨を四枚置いていく。
木の皿にカチンと金属が当たる音が、やけに現実的だった。
その間に、手は勝手に動いて果実を袋に詰め、品よく折り返して手渡していた。
「『一枚多い』って顔してるけど、今日はこれでいいわ。あんたのその律儀さに免じてね」
老婆は笑いながら去っていったけれど、俺の頭の中はずっと止まったままだった。
石貨四枚。
それが、この身体になって最初の売上だった。
俺は、たぶん、露天商になっている。
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