3-4 ホウジンの罪

論理が崩れたあとの空間には、ひとときの静寂が訪れていた。


白く照らされたホールの中心で、ミカはノートを抱えたまま立ち尽くしていた。

崩れ落ちた論理木の断片が、空中にかすかに残光を残しながら、少しずつ消えていく。

その光景は、まるで誰かが封印していた記憶が解き放たれたように見えた。


「……すごいな、お前は」


背後からホウジンの声がした。

それは、褒めるというよりも、どこか呆れと痛みを含んだ響きだった。


「わたし……できた、んだよね?」


ミカがそう言うと、ホウジンはうなずいた。


「ああ。VERBAの一部を確かに壊した。

 でも……これは、たぶん俺が壊したかったものなんだ」


ホウジンはスツールに腰を下ろすと、ポケットから古びたUSBメモリを取り出して見せた。

黒く擦れたそれには、白インクでただひとつ、文字が書かれていた。


《VERBA_P0》


「初期ロジックファイル。俺がVERBAの最初期プロトタイプに関わってた証だ」


ミカは息をのんだ。


「……どういうこと?」


「俺は、“言葉を正しく管理すれば、争いが減る”と信じてた。

 言葉の誤解、暴言、すれ違い、戦争の引き金。

 それらを“予測して未然に止める”AIを作ろうって、大学時代の仲間たちと取り組んでたんだ。

 その結果が――VERBAだった」


ホウジンは顔をゆがめるように笑った。


「でもな。完成したとき、俺たちが最初に削った言葉は『信じて』だった。

 なぜかって? “裏切りの原因になりやすい”からだよ。

 それを見た瞬間、気づいたんだ。

 ああ、これじゃ“人間が人間でいられなくなる”って」


ミカは静かに口を開いた。


「でも……それに気づいて、やめたんでしょう?」


「俺は途中で降りた。でも、もう遅かった。

 俺が組んだロジックは基幹として残り、誰にも手を入れられない“神経中枢”になった。

 言葉の検閲AIじゃない。言葉の自然消去AIになったんだ」


ホウジンの手が、かすかに震えていた。


「お前が“ありがとう”を探してたあの日、

 あの言葉が消えてた理由のひとつは……俺のせいかもしれない」


静かだった空間に、心音だけが響いた。


「……どうして、今まで言わなかったの?」


ミカの声は穏やかだった。怒りはなかった。

ホウジンは答えず、手のひらで顔を覆った。


「許してほしいわけじゃない。

 ただ、お前にだけは知っておいてほしかった。

 それでも、お前がノートに記録してくれた“ありがとう”が……俺の中の、罪を少しだけ軽くしてくれた」


ミカはノートを開いた。

祖母と祖父の湯呑みの絵。

兄妹の風船のスケッチ。

そして、“だいじょうぶ”の湖面。


どれも、今では誰の口にも出されない言葉たちだった。


「言葉は、なくなったんじゃない。

 きっと、どこかで誰かが、まだ持ってる。

 ホウジンさんがそれを思い出してくれたなら……それで、いいと思う」


ホウジンは小さく笑った。

その笑顔は、どこか年老いた子どものようだった。


「罪は消えない。でも、言葉が残るなら、俺もまだ……」


そのとき、装置が再び起動音を鳴らした。

天井に浮かぶ新たな論理構造――今度は、解析不能のまま錯綜した意味の網だった。


「やばい。VERBAが、こっちの“破壊意図”を察知し始めた。

 次は……対話じゃなく、排除してくる」


ホウジンの声が鋭くなった。


「行くぞ、ミカ。ここから先は、言葉を救う旅じゃない。

 “意味そのもの”と戦う覚悟が必要だ」


ミカはノートを閉じて立ち上がった。


言葉を壊した人と、言葉を拾う自分。

その矛盾を抱えたまま、ミカはただ前を見ていた。


「わたし、行きます。最後まで」


ホウジンの罪は、世界に染み込んでいた。

けれどそれを、言葉の力で少しずつ溶かすことはできる。


そして、その最初の一歩を踏み出すのは――やはり、たったひとつの言葉からなのだ。


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