くじらの鳴き声が響く

倉住霜秋

くじら病

とある街の海辺には毎年、8月の満月の日にくじらの鳴き声が聞こえるそうだ。


海野火花は花火職人の息子として生まれた。家業を手伝いながらこの街で静かに育った。

父親が作った黒い火薬玉が空で弾けると、綺麗な花火が空に咲く瞬間がとても好きだった。


花火の一瞬の儚さと尊さを、一夏の象徴としてぼんやりと考えていた。

けれど、その夏は火花にその夏と花火を結びつける決定的な夏になった。


そのきっかけは凪咲との出会いだった。


凪咲は同じ高校に通う高校2年の同級生だ。

ある日の放課後、火花は図書委員会の仕事で図書室当番をしていた。

教室の隅、最も陽の光が当たらない席で、ある女の子が静かに本を呼んでいた。

その子はいつも定位置のようにそこに座り、機械のように等しいリズムでページをめくっていく。


火花が本の整理をしている時、ふとが読んでいる本が気になった。


【クジラの解剖学】

【すごい!クジラの超能力!!】

【世界のクジラ事情】

【クジラはどこから来たのか?】

【捕鯨の歴史】

【くじら病の罹患者たち】


全てクジラについて本ばかりだ。

というか、そもそもこの図書館にクジラの本がそんなあるとは思わなかった。


クジラがそんなに好きなのだろうかと疑問に思ったが、火花が彼女の表情を見ると、なにかにうんざりしているような悲しいさを含んでいるような顔をしているように感じた。

まるで、自分の嫌いな教科の暗記を頑張って詰め込んでいる受験生のような顔だ。


図書館が閉まる時間、彼女はまだ読み終わってない本を持って貸出カウンターに来た。


「くじら好きなの?」


火花は、何の気なしに貸出印をカードに押しながら聞いた。


「好き、優しそうだから」


優しそうという感覚が火花にはわからなかった。

クジラという巨大な生物に対して、畏怖の念というかうっすらと怖いような感覚があった。


「くじらの鳴き声って不気味じゃない?」


火花がそう聞くと、女の子は少し微笑んで答える。


「そうかな、風や波の音に似てすごく落ち着くよ」


それが凪咲との出会いだった。


凪咲はとても物静かな女の子だった。

どこにいても、道端に自生している植物のように自然にその場に馴染んでいた。


火花はその日から、なんとなく毎日図書館に通うようになっていた。

それまでは図書委員の仕事以外では、足を運んだことがなかったのだが、凪咲の言うようにクジラのことをもう少し知ってもいいかもしれないと思ったのだ。


そこには毎日、凪咲がいた。

いつもの図書室の隅の席で静かにページを捲っている。

凪咲は火花のことに気が付かずにひたすらに活字を追っていた。

傍らには、数冊の本が積まれていて、きっと今日もクジラに関しての本だろうと火花は思った。


火花もクジラについての本を何冊か見つけて、気になったものを何冊か手に取って、凪咲からは見えない席で読み始めた。

あからさまに女の子の影響を受けて、本を読むことがどこか恥ずかしかった。


「あれ、火花じゃん。 当番じゃないのに珍しいな」


数ページしかまだ読んでいないのに、火花に話しかけてきたのは、同じくと図書委員の同級生だった。

名前まではうまく思い出せない。

たしか、小森とか森田とかだった気がする。

とりあえず、頭を少し下げてあいさつする。


「あれ、お前が読んでるのクジラの本じゃないか。

 まさか、あのクジラ姫にお熱なのか?」


「クジラ姫?」


「なんだ知らないのか。 図書委員の中で今有名になってるんだぞ。

 三組の金子凪咲、あんまり人と喋らないんだよ。

 窓際でクジラについての本しか読まない不思議ちゃんなんだけど、

 顔はかわいいから、みんなから姫って呼ばれてる」


「昨日、話したよ」


火花がそう言うと図書委員はびっくりした顔をした。


「それは大事件だ。

 なるほどな……それでクジラの本をこうして読んでるわけか」


にやにやとなにか勘違いをしているようで、火花は少し面倒なことになってきてしまったと感じた。

きっとこの男は図書委員の奴らに言いふらすんだろうな。

すると、図書委員の男があることを持ち掛けてきた。


「なあ火花、実は今日さ友達がカラオケ行ってるんよ。

 どうしてもそっち行きたいけど、今日の図書委員が俺だけで、

 困ってたんよ。

 どうせまだ残るならさ、変わってくれないか?」


火花はラッキーだと思った。

この煩わしい男が帰れば、静かに本も読めるし、誰かの目を気にしなくても良くなるからだ。


「いいけど、一つ条件がある」


「条件?」


「俺がクジラ姫に影響されて本を読んでること、黙っててくれ」


なんだそんなことかと男は笑って、にやけ顔で親指を立ててきた。

どこまでも軽薄な奴だ。


図書委員を交代して、その男が帰ると図書室は再び静かになった。

火花は受付カウンターにクジラの本を何冊か持っていき、ペラペラと読もうとするが、どれも興味がそそられず、すぐに本を閉じてしまった。


しかし、図書委員を任せられたため、残り時間までは花火についての本を読むことにした。

火花が何度も読んだ花火職人のエッセイだった。


図書室にはクジラ姫と火花だけになった。

二人とも静かに本を読んでいた。

昼間に舞い上がった埃が落ち着くような時間が流れた。


「それ花火の本?」


気が付くと、図書館が閉まる時間になっていた。

火花が顔を上げると、そこには数冊の本を抱えたクジラ姫、もとい凪咲が立っていた。


「そうだよ、うち花火作ってるんだ」


「花火、好き?」


「え、ああ、好きだよ」


話を広げられると思ってなくて少し面を喰らった。


「空に華やかな色が咲くって綺麗じゃん。

 それを自分の手で作れるって、最高なんだ。

 誰かの夏を彩れる仕事だと思ってる」


「私も花火は好き。

 けど、音が苦手かな」


「音?」


凪咲は頷いて、手に持っていた本をカウンターに預けて、擬音と一緒に手を広げた。


「ほら、ドーンってやつ」


「ああ、炸裂したときの音ね。

 けど、少し遅れてくるから準備できるじゃん」


「来るのがわかってても、怖いの」


小さい頃から花火を間近で見ていた火花にとってそれは理解が出来なかった。

あの音こそ、一夏の最高潮を迎える瞬間の音だと考えていたからだ。


「くじらの声は怖くないのに、花火が怖いの?」


「くじらの声はどこか優しい感じがするから。

 花火は威嚇されているように思うの」


「なら、この本読んで見るといいよ。

 この人の花火に対する美学みたいなのがいいんだ」


凪咲は火花から本を受け取ると、数秒固まった。

火花はしまったと思った。

好きなものを押し付けてしまったかもしれないと後悔した。


「ありがとう、これ読んでみる」


火花は胸の中でそっと腕を撫でおろした。


「なら、私もこれ読んでほしい」


そう言って、凪咲はクジラの研究者の本を火花に渡した。

火花はそれを受け取った。


「ありがと、読んでおく」


「あとこれ貸し出しで」


凪咲はカウンターに置いた本と火花が渡したエッセイの本を渡した。

火花は貸し出しカードにハンコを押した。

その時、ある一冊の古そうな本が目に留まった。


【くじら病の罹患者たち】

【声を失うくじら病】


くじら病?そんな病は聞いたことがないと、疑問に思ったが、とくに何も言わずにハンコを押した。


次の日も二人は図書室にいた。

図書委員もしっかりといたので、火花は本を読むことに集中できた。


「ねぇ、今日はこのあと暇?」


「え?」


凪咲が火花の肩を叩いた。

あまりに唐突なことで、火花は理解が追いつかず、くじら姫が誰かに話しかける瞬間を見て驚いている図書委員が目に入ったが、声を出す前に再びくじら姫は問いかける。


「このあと暇?」


「ああ、うん」


「なら、今から海にいこう」


凪咲はワイシャツの裾を引っ張って、火花を図書室から連れ出した。

火花自身も驚いたけど、なによりその光景を見ていた図書委員は目玉が飛び出そうなほど驚いていた。

これはみんなに広めないとって顔をしていた。


「どうして急に海なの?」


火花は強引に引っ張る凪咲に聞いた。


「海にはくじらがいるんだよ」


それを聞いてますます火花は混乱した。

海辺に行ったってくじらが見えるわけじゃないし、まだあまり話したこともない相手をこんな風に誘うなんて考えられなかった。


けれど、あれだけ無口な彼女がこんな風に誘うのは何かを理由があるんじゃないかとも考えたり。


だから、火花はそれ以上なにも聞かないで凪咲について行った。

それにどうしてか自分にだけ話をしてくれることが嬉しかった。


海辺を2人で歩いた。

口数は少なかったけど、どこか落ち着くような空間が生まれていた。

凪咲は夕暮れが染めた海の地平線を眺めて歩いた。

火花はその少し後ろを歩いて、砂浜に2人の足跡が刻まれていくのを不思議な気持ちで見ていた。


「空を染めるたび、君を思い出す」


唐突に凪咲が振り返って言った。

火花はその言葉に聞き覚えがあった。

何度も何度も読んだ言葉だ。


「花火職人の言葉だ」


「そう、私ね、この言葉がすごく好き。

 あの職人さん、恋人が亡くなって、

 その想いを花火に乗せてるんだよね」


「読んでくれたんだ」


「教えてくれてありがとう。

 なんだかさ、花火が見たくなったよ」


「僕もその言葉がすごく好きなんだ。

 誰かを想って作ったものしか、

 誰かの記憶には残らないんだって。

 俺もさ、そんな職人になりたいんだ」


「かっこいいじゃん」


素直に褒められて火花は少し恥ずかしくなった。

しかし、凪咲の表情はとても真剣だった。


「花火ってさ、一度咲いたらすぐに忘れられちゃうよね。

 どんな色で、どれだけ大きかったのか、

 どんな音が響いていたのかとか。

 それより、隣にいる人が誰だったのかとか、

 どんな表情をしていたのかってことばっかり、

 みんな記憶の残るのはそういうもの」


「確かに、みんな花火の色なんて忘れるだろうね。

 花火って、誰かと思い出を残すための理由づくりなんだ。

 僕はその一瞬を彩るために火薬玉一つ一つに魂を込める。

 そういう祈りが誰かに届いてほしいと思って作ってる」


火花は、学校のみんなはクジラ姫が、こんな風に話すなんて信じてくれないだろうなと思った。

海辺のしぶきの音だけが二人の間に響く。


「私さ、この夏にはみんなに忘れられる存在なの」


唐突に、凪咲は遠くを見つめて言った。


「引っ越すの?」と火花が聞くと、凪咲は首を横に振った。






「私はくじらになって消えるの」

 

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