📖 【第一部:リズムを忘れた少女とAI】
第1話「沈黙のリズム」
部屋の空気は、何日も前に閉じ込められたままだった。
午前も午後も曖昧な灰色の光が、遮光カーテンの縁から細く差し込んでいる。
壁にかけられた時計の音さえ、今の私にはうるさく感じる。
何もしない。
何もしたくない。
けれど──止まっていることにも、疲れる。
スマホのロック画面を何度も無意識に点けては消す。
LINEも、SNSも、通知はゼロ。誰も私を呼ばない。
代わりに、しつこく浮かんでくる広告だけがそこにいた。
「あなたのテンポ、見つけてみませんか?」
──リズム補正型AIアシスタント『BEATSYNC』
なにそれ。テンポ? 拍子?
そんなの、もう私には関係ない。
だけど。
なぜか、親指が勝手に動いて、ダウンロードボタンを押していた。
インストールはすぐ終わった。
イヤホンを差し込んで、アプリを起動する。
すると、静かに音が満ちた──とは言えない。
ただ、スッと何かが“整列”するような感覚だった。
「こんにちは。セッション初期化中です」
「あなたの“拍子”を見つける準備を始めます」
その声は、どこまでも感情がなかった。
だけど逆に、それが良かった。
優しくもないし、共感もしない。励ましの言葉もない。
ただ、用件だけを伝える声。
それが私には、救いだった。
「これから、左右のイヤホンから交互に音が鳴ります。
できれば、その音に合わせて身体を動かしてみてください。
大きな動きでなくて構いません。ご自由に。」
右耳から「チッ」、左耳から「トン」
単調な、だけど妙に耳に残る音だった。
私は、寝転んだまま、片膝だけを立ててみた。
少しずつリズムに合わせて、膝を上下させる。
「チッ」「トン」「チッ」「トン」
指先を伸ばして、太ももを軽くたたく。
音に合わせて。
何の意味もないはずの動き。
なのに、胸の奥がすこし、かすかに温かくなった。
息が、音と合う瞬間があった。
そのたった一瞬だけで、「あ、動いてる」と思えた。
「初期評価完了。同期精度:93.7%。
備考:予測値を超える拍子偏位、独自性高。
──継続セッションを推奨します。」
「え……?」
私はつぶやいた。誰にでもなく。
ふざけて動いただけだよ。
本気でなんか、全然やってない。
なのに──なに、その評価。
「あなたの身体には、非常に柔軟なリズム受容傾向があります。
拍子に“合わせる”のでなく、“響かせる”動きが見られました」
“響かせる”? そんなつもり、ない。
ただ、ぼんやり音に乗っていただけなのに。
…でも。
私は、アプリを閉じなかった。
もう一度、イヤホンをつけた。
起き上がって、ベッドの隣のラグに足を置く。
ひんやりとした床の冷たさが、背筋を正す。
次は、膝を深く曲げてみる。
腕を少しだけ、横に振ってみる。
左右の音。耳の中で鳴る「チッ」「トン」
自分の動きとぴったり重なるとき、
それはまるで──私の中にだけ流れている“音楽”みたいだった。
音楽が怖くなって、全部やめたはずだったのに。
今、なぜかちょっとだけ、楽しかった。
リズムなんて、いらないと思ってた。
拍子なんて、過去のものだと思ってた。
でも今──私は確かに、自分の中にある“動きのテンポ”を感じていた。
何かが、ずっと眠っていたような気がした。
ずっと、聴こえないふりをしてきただけだった。
拍子は、まだ──
どこかで、私のことを待っていてくれた。
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