まだタイトルのない青春小説

夜賀千速

未完の夏

 新しいノートを開いて、最初の方だけ綺麗に書くみたいな人生。論国のプリントにメモしたプロットを整理しながら、この物語に終わりはあるのだろうかと目を瞑る。薄汚れた消しゴムを投げると、それが小さく宙に舞った。



 101字。



 わたしは小説を書いている。書いている、つもりだ。それなのにわたしはまだひとつも、自分で紡いだ物語を完結させたことがない。書きたいものも大好きなものもいくらだってあるのに、惰性とやり切れない心のせいで、いつも結末は書かずじまい。書き出しとプロットだけが溜まっていくだけの、そういう日々を送ってきた。


 授業終了のチャイムが鳴って、教室は瞬く間に閑散としてしまった。部活に行く人や早く家に帰る人、遊びに行く人など様々なようで、わたしはいつもそれを窓際の席から眺めている。いつまでも教室に残っている人なんて、わたしと彼女くらいなのだから。



「はー、土曜日も学校あるとかおかしいだろ」

 そう声がして彼女の方を向くと、相変わらずの不機嫌は直っていないようだった。


「絵都」

 ゆっくりと彼女の後ろ姿を見て、黒髪ストレートと青空のコントラストに息を呑む。机の下で起動させておいたスマホでシャッターを切って、それを彼女専用フォルダに移す。これで1178枚目。あ、わたし、ストーカーとかじゃないです。


「今日はなに、するの」

 彼女は窓を開けた。風が吹いて、カーテンがふわりと揺れた。綺麗。

「別に、なんにもないよ」

 そっけない彼女は、長い睫毛を伏せてそう言う。窓から差し込む真昼の光が、彼女の白い肌に届いた。そして、また風が吹く。

 そういう彼女を見る度に、わたしは物語が書きたくなる。結局完成させられない物語を、何度も何度も。


 衝動はあるのに、書けないから、苦しいのだ。突き動かされる風景を、ノートを開きたくなる光景を見ているのに、ペンは動かない。この世界に生きているのに、わたしは何もできていない。


「また絵、描くの?」

「まぁ、うん」

 彼女は、絵を描くために生きている。そういう彼女に、わたしは憧れている。

 彼女の生き方、声、描く絵、そんな眼差しが好きだった。



 彼女は鞄から水彩絵の具を取り出して、静かに席を立った。

「水汲んでくる」

 土曜日の四限授業後、二人だけの教室。昼下がりの空気はゆるやかで、あたたかく不思議な心地のなか。わたしは小説を書いて、絵都は絵を描く。


 水道から戻ってきた彼女は自分の席について、大きな画用紙をめくった。数秒経った後、彼女は迷いなくあたりをとって、太い鉛筆をさくさく動かし始めた。理由など追いつかないような速度で、ただ黙々と、そのままに描いていた。彼女の心の内を、絵という手段で出力しているような感じだろうか。



 彼女の絵が仕上げ作業に入ったくらいで、わたしの文章はやっと1000字を超えた。

 支離滅裂で繋がりのない文章、流れのない会話文。消しては書いて、書いては消して、結局消す。何にもならないことばかり、苦しいだけだ。突飛な世界を書きたいのに、今じゃないどこかに行きたいのに、行けなくて、書けない。


「……」


「ね、絵都。今年の八月三十一日に世界が終わるって知ってる?」

 わたしは彼女を振り返り、突然の早口でそう言った。

 かたり、筆を置く音が聞こえる。

「何それ、また変な予言?」

 前もあったよねそんなの、と彼女は呆れた声で言った。

「結構有名だよ、これ。世界中で言われてる」

「またそんなのに踊らされて」

「そうだけどさ、なんか楽しいじゃん、小説みたいで。わたし、劇的な物語が好きなの」

「それは、知ってるけど」

 絵都は筆をティッシュで拭きながら、不満そうな声を漏らした。


「最後の夏とか、逃避行とか、いいよね」

「なんかそういう物語って、全部おんなじような空気で嫌い」

「そう? わたしは好きだけど」

「最後の夏ならもっと、特別な何かがしたいな」

「特別な、何か」

 たとえば、と尋ねる。彼女は小さく首をかしげて、知らないよとジェスチャーを返した。


「わたしはベタをまっすぐやることも、しあわせへの近道だと思うけどな」

「それは、そうかもしれないけど」

 絵都の長い髪が、さらりと揺れた。教室に差し込む光が瞬き、静かに彼女の頬を照らす。


「わたし、そういう物語、書いてみようかな」

「へぇ」

 わずかに挑発的な口調。彼女は光を含んだ大きい瞳でわたしを見た。

「ね、一緒に書こう」

 彼女と、思い出と呼べる何かを作りたかった。

「え?」

「一緒に過ごそう。最後の夏」

 その一瞬、絵都は酷く切ない表情を浮かべた。好きな人にさよならを告げられたときのような、そんな顔。

「何それ。人殺しでもするの?」

 彼女はすぐにいつもの調子に戻り、唇を尖らせた。

「そんなことしないよ。もっと、綺麗なことがしたい」



「死ぬまでにやりたいことリストとか作ろうよ」

 映画のワンシーンみたいに言うと、彼女は眉間に皺を寄せた。その表情すらも美しくて、美しさは罪だと思った。彼女が足を組んで机の上に座る。夏服のスカートも、くるぶしが見えそうなほど短い靴下も、全てが美しかった。

「わたしたちまだ十六だよ」

「もう十六なんだよ」

 絵都には綺麗な人生の目的があって、それに向かってひたすら進んでいるから、焦りなんてものないのかもしれない。毎日焦燥に駆られているわたしとは違って。

「仮にさ」


「仮に、今年ってことは。わたしたち、もう大人になれないんだね」

「いいじゃん、一生子供でいられる。ある意味素敵じゃない?」

「そうだね」

 ふと、窓の外、校庭から運動部の掛け声が聞こえてくる。放課後のざわめきを遮るように、わたしは言った。

「ね、しあわせになろう」


「そんな小学生みたいな」

 そうだけど、とわたしは瞬きをひとつ。

「しあわせ、ってのはさ、わたしにとって抽象的な、おっきい光みたいなもので。ただ、明るい方に行きたいの」

 ただ、明るい方へ行きたい。光の方へ泳ぎたい、それだけだ。

「へぇ」

「だからさ、闇雲に言ってるわけじゃない。わたしね、ちゃんとしあわせになるために生きようって、最近思うようになったの」

 どうせ最後ならって、そういう思い切りで。やりたいこと、できなかったこと、全部やりたい。綺麗な景色が見たかった。

「そう」


「絵都は、したいことある?」

「したいことって」

「夏に。ないの?」

 彼女は当たり前のように、そばにあったスケッチブックを開いた。

「わたしにできるのは、これくらいだよ」

 そうさらりと言った彼女の言葉が心臓に刺さって、抜けない。彼女にとっての絵は人生なのだ。


「描きたい風景とか、ないの」

「あるよ、たくさん」

 絵都は目を逸らしながら言った。どこか憂いを帯びた声だった。

「じゃあ、行こう」

 少し沈黙が訪れて、彼女は頷く。

「いいよ」


「じゃあ四季も、小説書いたら」

「分かった」

 そう彼女に言われて、書くしかないと思った。彼女にとっての絵が人生であるように、わたしにとっての小説も人生になればいい。

「約束、だよ」



 2788字。

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まだタイトルのない青春小説 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

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