犬と下女とネジ
和泉柚希
犬と下女とネジ
わたしはこの家のお手伝いとして、家事仕事に来ている。所謂「下女」と言うやつだ。
この時間は1人で過ごすことができて幸せだ。
安堵の笑みを私はこっそり浮かべる。
そんな私のお気に入りの時間であるお風呂掃除をしていた時のことだった。
ネジがタイルの上に一つ転がり落ちていた。
どうやらお風呂のカウンターのネジが取れたようだった。
この家で飼われている犬がお風呂場にやってくる。
私のそばにやってきた犬は大人しく座り、黙ったままだ。尻尾を振ることもなく、喜んでいる様子ではないが、小学校の頃の友達のように親しみやすさを感じている様子だった。
私はささっと素早くお風呂掃除を終わらせて、そのタイルの上に落ちていた一本の小さなネジをご主人様が帰ってきたら渡そうと、自分の黒いメイド服のポケットに入れた。
ざらざらとした肌触りのそのネジをつるつるとしたメイド服のそのポケットに入れる。
ポケットは深いし、落とすはずはないだろう。
私はしっかりとポケットの中にネジが入ったことを確認して、再び家の掃除をする。
でもこういう時、注意を向けた事柄ではないことに物事は動いてゆくんだよなぁ。いつもそうだ。落とさないように落とさないように、ってそっちではない。
夕方。少し外に出て、花々に水をやる。
今日の夕映えは、炎が燃え立っているような激しさを含んでいる赤さだ。
ご主人様が仕事から帰ってきた。お嬢様も学校から帰ってきている。
私はそろそろ家へ帰らなくてはならない。
「あー」
と思い出した。
今日のお昼、ネジをお風呂場で見つけたんだ。ご主人様に渡そうと思っていたんだ。落とさないように気を遣っていてすっかり渡すことに気が回らなかった。
「けどまた明日でいっか」
「ああ、今日も、忘れてしまった、また明日でいっか」
気づけばそのネジは、1週間も渡せないままでいた。結局、お風呂場の洗面所の上に置いておいた。
「あのネジ」
と私に声をかけたのは奥さんの方だった。
「ありがとね」
今日もお風呂場で掃除をしている。犬がやってくる。今日はいつもより嬉しそう。尻尾を振っている。いつもより美味しいご飯でも食べさせてもらったんだろうか。私はその犬の身体を撫でる。
いつもそんな感じ。ご主人様に用事があっても、声も掛けられなくて、奥様と親しくなろうと思っても親しくなれない。
私は、人と距離を取る事が苦手だ。こんな私のことをご主人様と奥様は分かっているだろうけど、それでも私のことをこの家のお手伝いとして、雇って
くださっている。
私は平凡な人生を歩んできた。成績も普通。ただこんな性格であることもあって中学時代はいじめられていたけれど、だけど今は、
「一緒に買い物に行こう」
お嬢様はとても優しく人に分け隔てなく接する性格だ。何か用があると、私を誘い、一緒に買い物へ行く事が頻繁にある。これも仕事のうちだった。
犬と散歩するお嬢様に付き合って一緒に散歩する事がある。
今はこれで、今はこれはこれで幸せな日常だった。
するとある日のことだった。珍しくご主人様が 私に三日間の休みをくれた。
三日間。特にしたいことも行きたいこともなかったけれど、一つだけあった。
ずっと気になっていたんだ。ネジで思い出した。ホームセンターにずっと行きたくて。ここは植物があったり、家で使う生活用品がたくさんあってちょっと気になっていた。
ご主人様の家を掃除する時に、気になる場所がいくつかあったから。
少しだけ観葉植物を見ていきたい。ふとそう思った。この観葉植物を一つ買って帰ろう。みんな喜んでくれるはずだ。そして自分用にも一つ。
私が観葉植物を洗面所に置こうとすると、ご主人様の家には、まだ洗面台にネジがあった。いつか修理してもらおう。
そんなことを日々思いながら今日もお風呂掃除をしているときには犬が近づいてくる。
私に何か訴えかけるように、私なら何かわかってくれるってそんなことを。
犬もネジも、お手伝いである私も。
「いつか」のなにかの、そんな日を待って生きているのかもしれない。
今日も燃え盛る炎のような夕焼けが美しい。
安堵の表情でわたしは帰宅した。
犬と下女とネジ 和泉柚希 @yuki3838sr
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