〈短編小説〉まどろみの巡り夢

夕砂

まどろみの巡り夢




引っ越してきたのは、古びたアパートの一室だった。


駅から徒歩二十分、坂を上った先の、小さな住宅街のはずれにその部屋はあった。


築年数は不明。鍵の重さと床の軋みだけが、過ごしてきた年月を物語っていた。


不動産屋は言った。

「この物件は、夜とても静かですよ」


その言葉通り、誰の足音もしない、隣人の気配もない。


なのに時折、誰かに見られているような気がする。



引っ越して三日目の夜、ポストに一通の封筒が届いていた。


差出人も、宛名も書かれていない。ただの白紙の手紙。

便箋にも何も書かれていなかった。


最初はイタズラかと思った。


だけどその夜、妙に鮮明な夢を見た。




真夜中の校舎。窓の外に、誰かが立っている。

見たことのない顔だけど、どうしてか、“私自身”だとわかった。


次の夜も、同じように白紙の手紙が届いた。

どんなに目を凝らしてみても、ただの白い紙だ。



だけど、やっぱりその夜も夢を見た。




今度は知らない教室の隅にいた。


手を挙げても、誰も見ていない。

声を出そうとしても、音が空気に飲まれていくようだった。


目覚めたときも、胸の奥に妙なざわつきが残っていた。


これは、本当に自分自身の夢なのだろうか。


どこか、他人の夢を覗き見ていたようだった。




三通目の夜も同じだった。



今度は、誰かを突き飛ばす夢。

泣きながら、“ごめん”と呟く自分を、遠くから見ていた。


なんだか、悔しかった。


不意に、中学のときのことを思い出す。


言い返せなかったあの日。守れなかった友達。

やり場のない怒りを、自分に向けたこともあった。


「俺にもそんな日、あったんだな。」



そして、四通目の晩——




教室の窓際。

髪を耳にかける癖のある“彼女”。

知らない人だけど、遠くからずっと見ていた。

声をかけたかった。でも、怖くて、何も言えなかった。


目が合った気がしたけど、彼女はすぐに外を見た。


なんだか少し寂しかった。


その夢を見た朝、ふと考えた。


この記憶、いや夢は、俺のものじゃない。

でも、誰かの想いが確かにこもっていた気がした。


白紙の手紙と、夢。

もしかして、誰かが心に秘めていた何か——。





そして五日目の夜。

ポストには、いつも通り白紙の手紙が入っていた。


その夜、見た夢は



天使みたいな"誰か"が、「ありがとう」と笑いかけてくれた夢だった。


それだけで、幸せで満たされて、


"自分"は夢の中でスキップしていた。


相当嬉しかったんだろう。


帰り道に通った、綺麗な花々はまるで踊っているようだった。



目が覚める。目頭に涙の跡が乾いていた。



「よっぽど、嬉しかったんだな。」



"君"にもう一度会えたら、何を伝えようか...


知らない"誰か"の感情が、まるで自分のもののように、胸の中でしこりとなって残っていた。






その夜もまた、ポストを開けた。


もう慣れたもんだ。



中には、いつもと同じように白紙の便箋が入っていた。


けれど今度は、それを“読む”のではなく、“書きたい”と思った。


迷うことはない。


机に向かい、静かにペンを走らせる。





もしまた会えるなら、ちゃんと伝えたい。

あの時の“ありがとう”が、僕の救いだったってこと。あの日、君に"ありがとう"って言って貰えた日から、僕の世界は輝きだしたんだ。




書き終えたその瞬間、インクがゆっくりと滲み、文字が溶けるように消えていった。


目の前には、ただ白い紙があるだけだった。




「....やっぱり。」



白紙に戻ったその便箋を、そっと封筒に入れ、ポストへ差し込む。


そして、目を閉じて、眠りについた。

その日は何も夢は見なかった。



翌朝、大学のキャンパス。

講義の帰り道、偶然すれ違ったのは、かつてよく話していたあの子だった。


最後にちゃんと話したのは、いつだったか思い出せない。

それでも、彼女は僕の顔を見るなり、ふっと微笑んでこう言った。


「ねえ、今日ね、すっごく素敵な夢を見たの」


「え?どんな夢?」


「誰かが、“ありがとうって言ってくれた言葉が、ずっと心に残ってた”って……

意味の分からない変な夢だけど、起きたとき、あったかい気持ちになったんだ。

あんまり嬉しくて、あのまま夢から覚めたくなかったなあ。」


彼女はふと遠くを見つめて、まるで夢の続きを思い出すように笑った。



風が吹いて、彼女の髪が揺れる。


僕は少し驚いて、でもすぐに笑った。



「それは、いい夢だね」



そう言って空を見上げると、やわらかい朝の光が差していた。




明日は、どんな夢を"誰か"に届けようか。



届けるべき夢を、そっと大事に抱えるように

今日もポストは、静かにそこにあった。







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