第7章:鉄の中の愛撫、鋼の中の涙

鉄は黙っている。

だが、黙っているからこそ、何かを訴えかけてくる。


――それがわかるのは、火を浴びてきた者だけだ。


ジョウは今夜も、火を焚く。

現場ではない。

溶接トーチでも、アークライトでもない。

“女の奥にくすぶる、焼け残った何か”に、火をつけるのだ。


その夜の女は、廃車置き場の奥、

サビだらけのジャッキアップ台に腰掛けて煙草をふかしていた。

ジャンプスーツの腰を落とし、黒いブラが火花のように闇を切り裂いている。


「アンタがジョウ?」


女の声は、ナットを咬み込んだまま回らなくなったスパナのように、

きしんでいた。


ジョウは無言でうなずく。


火花が散る前には、沈黙が必要だ。



「ねえ。ほんとは、この手、溶接なんかより――

 誰かの体をなぞるためにあるんじゃないの?」


女が自分の胸元をゆっくりなぞる。

油のにおいと、溶けかけたゴムの匂いが交じる。


ジョウは工具箱の上に腰を下ろした。

視線だけで、女の火口を探る。

そこに火を落とせば、何が燃えるのか。


「鉄は、熱で曲がる。

 でも、芯まで焼かなきゃ、形は変わらん。」


「ふふ……怖いこと言うね」


「それでも、欲しがってる女の目をしてる。

 “焼かれたい”って言ってる目だ。」


女は息を呑んだ。

その瞬間、彼女の中で火が走ったのが、はっきりわかる。



官能とは、熱交換だ。


男の掌に残る、溶けかけた肉体の感触。

女の背骨に走る、火傷のような震え。

言葉ではなく、温度で語る夜。


ジョウは女を持ち上げた。

鉄板の上に、焼きならされたように寝かせる。


彼の手は、トーチと同じ精度で動いた。

どこに熱を、どこに圧を、どこに「焦がし」を与えるか――

それを知っている男の、熟練の手つきだった。


女は声を漏らすたびに、ボルトのように緩んでいった。



天井の錆が、粉雪のように舞う。

油に濡れた床が、月の光を跳ね返す。


ジョウはゆっくりと顔を寄せた。

唇が触れる寸前で止まり、言った。


「お前の中の“固く冷えた鉄”が、泣いてるぞ。

 泣く鉄には、火がいる。

 俺はそれを、裸火で煮るだけだ。」


女は、目を閉じて頷いた。


「……焼いて。もっと深くまで、焦げるくらい」


鉄板の上で絡み合うふたりは、まるで熱処理中の鋼材だった。

冷えていた芯が、ゆっくりと、じわじわと、

赤く、赤くなっていく。


女の呼吸は短く、火花のように弾けた。


「こんなに――こんなに熱いの、はじめて……」


ジョウはただ、黙ってそれを受け止める。

音のしないアークのように、静かに、だが強烈に。


彼の目には、もう女の肉体だけではなく、

その奥にある“削りかすのような孤独”が見えていた。

それは、日々の溶接現場で捨てられる鉄粉と同じように、

誰にも気づかれず、誰にも拾われずに積もっていく。


女の手が、ジョウの胸板に触れる。


「……アンタ、本当は優しいんでしょ」


「いや、違う。

 俺はただ――鉄を信じてるだけだ。

 曲げたいわけじゃない。

 ありのままを、焼き付けていたいだけだ。」


その言葉に、女ははじめて涙を流した。

頬を伝った雫は、油まみれの鉄板の上で音も立てずに消える。


それはまるで――

鋼の中で、二度と溶けない涙を冷やすような瞬間だった。



その夜、女は何も言わずに去った。

廃車置き場の外灯の下、ふと振り返り――笑った。


「ジョウ、また“焼かれに”くるよ」


ジョウは返事をしなかった。

言葉より、火花を信じる男だった。


彼は缶コーヒーをあけ、一口だけ飲んで捨てた。

中身はぬるかった。

だが、そのぬるさすら、今夜の熱と比べれば冷たすぎた。



“鉄の中に愛撫を。鋼の中に涙を。”


ジョウがこの世界で信じているのは、ただそれだけだった。


次の朝も、鉄工所では溶接音が響いていた。

火花が舞い、鉄は曲がり、汗が背を流れる。


ブルーカラーは今日も稼ぐ。

それは、生活のためでも、夢のためでもない。

鉄がそこにある限り、それに応える義務がある。


“燃やせ、汗と火花で、生活の芯まで――”


壁に書かれたスローガンの下で、

ジョウはまた、黙々と火を浴びる。


だがその目の奥には、昨夜の鉄の残熱が、まだ消えていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る