第1章:昼と夜の交差点

朝の工場は、蒸気と油の匂いが混ざっている。

高所で唸るクレーンの軋み、足元を走るフォークリフトの警告音、そして俺たちの怒号混じりの掛け声。

ここは、三交代制の中でも“昼番”がいちばん荒い時間帯。

機械のトラブルも、上からの圧も、作業の遅れもすべて昼に集中する。

だが、それがいい。すべての混沌に、俺のリズムが刻まれる。


「おいジョウ、鋼板切り替えるぞ!」

溶断機担当のヨッちゃんが怒鳴る。

「来たか! じゃあレーザー温めとくぜ!」


現場の誰もが、作業に命をかけている。いや、命を削って生きてる。

溶断で飛び散る火花は、まるで戦場の銃弾のように皮膚をかすめる。

でも、恐れはない。ここに立つ限り、俺たちは――戦士だ。


「いいか、お前らァ! 鉄が折れても、心は折れるな! 労働は、魂の筋トレや!」


朝礼での監督のスローガンがまだ耳に残っていた。

笑えるだろ? でもな、俺はあの言葉、嫌いじゃない。


昼休憩。

手早く飯をかき込み、喫煙所で缶コーヒーを流し込むと、スマホの通知が震える。


【今夜の配信】22:00〜

“対戦相手:あの工場飯の新入り・ユメちゃん!”

「うち、エプロンだけは脱がんって決めてますんで」


――来たな。


新人配達員のユメ。

目立たないタイプで、会話もあまりしなかったけど、あの目に宿る何かが俺を引っかけた。

汗をかいたままの俺に怯えず、エプロンをきゅっと握って黙って立っていた女。

あの時点で、配信の画が浮かんでいた。

鋼と白米、汗と乳房、油と唾液。対比の美学。

それが“ジョウの夜”の流儀だ。



午後の作業は地獄だった。

突然の材料遅れ、突発の設備トラブル、そして客先からの納期圧。

でも、焦りの中でも俺の手元は狂わない。酸化鉄まみれの手袋でスパナを締めるこの瞬間が、俺にとっては“前戯”なんだ。

肉体労働の果てにある夜が、俺を支えてる。


「ジョウ、さすがやな。てっぺん超えとるで」

「俺らの配信王、昼も職人やな!」

仲間が言う。だがその目に嫉妬はない。

なぜなら俺たちは、“日中に汗を流した者だけが、夜に火を灯せる”って、心のどこかでわかってるからだ。


定時を過ぎ、残業を駆け抜けて、クタクタの身体を軽トラに放り込む。

エンジンをかける瞬間、またスマホが震える。


【視聴予約:今夜のユメちゃん戦、待機中 1312人】


──いい数字だ。

この疲労も、すべて熱に変わる。

「疲れてるのに、なんでそんな元気なんすか」って若いヤツがたまに言うが、違う。

俺は、疲れてるからこそ、夜が燃えるんだ。


帰宅。シャワーも浴びず、夕飯もプロテインバーで済ませ、ライトを調整する。

作業着は洗ってないやつを選ぶ。

視聴者は知ってる。この汚れの中に、“リアル”があるって。


カメラオン。照明スタート。

チャット欄が一気に流れ出す。


「来た! 今日も現場くさい!」「鉄の匂いが画面越しにする!」


そして、ゆっくりとユメが画面に現れる。

白いエプロン。作業着よりも無防備なその姿で、彼女は静かに一礼する。


「ユメです。今日、工場で……あの、皆さんのお弁当……落としかけました……」

「その罰、ここで受けてもらおうか」


コメントが爆発する。


「労働の対価に、悦楽を!」「落とした弁当の弁償は、カラダで払えッ!」


俺は立ち上がり、カメラのアングルを変える。

部屋の片隅に用意した“鉄製のベンチ”にユメを座らせ、エプロンのポケットから、彼女が差し出した“配達表”を受け取る。

その指先が震えてるのがわかる。


「ユメ。お前、昼は誰のために働いてた?」

「……あなたの、ためです」

「なら──夜は、お前のために俺が動く番だ」


カメラ越しの歓声が聞こえる気がした。

静かに、だが確実に。

彼女の首筋へ、唇を落とす。


作業着の布越しに伝わる体温。

エプロンの奥に潜む、彼女の本音。

すべてを、ひとつずつ、確かめるように。

鉄と唾液の温度が、交差する──。



“労働と快楽は対立しない。むしろ両輪だ。明日も働くために、俺たちは今夜、燃え尽きる。”


ユメの肌は、工場の飯室で見たときよりも、ずっと白くて熱を帯びていた。

指を這わせるたび、微かに震えながらも、逃げない。

まるで、焼き上がる前の鋼材みたいだった。

硬くなる前の、柔らかな段階。

だが、火を入れれば――変わる。


「うち、あんま、しゃべるの得意やなくて……」

「喋らんでもええ。配信は五感で見せるもんや」


俺は照明を少し落とす。

工場の休憩室で拾ってきた緑色の非常灯が、空間をほんのり濁らせる。

無機質な空間に浮かぶ、白いエプロンと、作業着の濃紺。

チャット欄がざわめく。


「現場リアルすぎ」「まじで工場から中継してんじゃね?」


ユメは、エプロンをぎゅっと握ったまま、立っている。

その掌が、今日一日、俺たちの汗の詰まった弁当箱を何度も運んだんだと思うと、不思議と胸の奥が熱くなる。


俺は、作業手袋をゆっくり外した。

片方だけ、ユメの顔の前に差し出す。


「これ、午前中のラインで使ったやつや。ほら、火花の痕がある」

「……くさ……でも、あったかい」

「これが、労働の体温や。感じろ。俺たちの昼が、どんだけ熱かったか」


その手袋を、彼女は両手で包むように受け取った。

まるで儀式のように、ぎゅっと胸元に抱く。


――画面越しに、数千人が息を呑む気配がする。

そう、これは演技じゃない。

現場の男が、現場の女を“つなぐ”儀式だ。


ゆっくりと、俺は彼女の背中へ手を伸ばす。

エプロンの結び目を解くと、布の向こうに、彼女の芯の熱が伝わってくる。


「……うち、エプロンだけは、脱がんって決めてて」

「それでええ。脱がさんでも、ぜんぶ伝えるから」


彼女を鉄のベンチにそっと横たえ、脚をそろえて座らせる。

エプロンの裾が、膝のあたりでふわりと揺れる。

作業着のままの俺が、その向かいに膝をついた瞬間、チャット欄が爆発する。


「やべえ、これ舞台劇かよ」「ガテン詩人ジョウ……!」


息を合わせるように、そっとエプロンの端へ手を添える。

触れず、なぞるだけで、彼女の鼓動が伝わってくる。


俺は、低く、囁くように言った。


「ユメ。お前、昼の仕事は何のためにやってる」

「……生きる、ため」

「夜は?」

「……たぶん、生き返る、ため……」


その瞬間、俺は確信した。

この女もまた、鉄の火に照らされた“俺たちの仲間”だって。


俺たちは、その夜、エプロンのリボンだけを解かずに、最後まで燃え上がった。



配信が終わった後、画面のコメントはまだ流れていた。


「ブルーカラーに敬礼」「この国のリアルがここにある」「明日も働こうと思った」


照明を消したあとも、俺の目には、彼女の白いエプロンが焼き付いていた。

ただの布切れじゃない。

それは、昼と夜の交差点でしか見えない、誇りの証だった。

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