第13話:郊外にて

嘘と真実、虚構と現実——人はその境界線に立つとき、自らの存在の意味を問い直す。


セレウス歴967年初頭から数ヶ月にわたって、ガイアス港で演じられた「詐欺」という名の芝居は、単なる金銭の授受以上の意味を持っていた。それは社会という巨大な枠組みの隙間に浮かぶ、ある種の確かさの灯だったのかもしれない。


ヴォルク・アルブレヒト財務省査察課室長は、自らが「帝国の歴史を変える」と信じた瞬間に、別の意味で歴史を変えていた。彼が八千万セストルという代価を払って手に入れたのは、幻のワインではなく、別の価値だった。自分が理想とする自己像、「文化を守る英雄」としての確かな存在証明である。


一方、詐欺の設計者マルコこと偽名の男は、単なる金銭獲得以上の芸術を完成させていた。彼の芝居は自らの仲間すら欺く優雅さを持っていた。「芝居は重層的であればあるほど、美しいものだ」——その言葉には、彼の美学が凝縮されていた。


さらに興味深いのは、本物の密輸組織が、必然という名の偶然によって摘発されていたことである。ミリアが流した偽情報は、予定通りの真実となり、ヴォルクに予期せぬ栄誉をもたらした。虚構の中に隠された現実。あるいは現実と思われた虚構。その両義性こそが、我々の世界の真の姿なのかもしれない。


歴史家は常に事実を追い求める。だが、事実とは何か。ヴォルクにとって『トゥレーン黒標』を入手したことは、揺るぎない事実だった。その瓶が偽物だったとしても、彼が経験した高揚は真実である。マルコにとって、詐欺という芸術を完遂したことは事実だった。そして、本物の密輸団が検挙されたことも、また事実だった。


嘘が真実を生み、真実が嘘を内包する。人が「信じる」という行為は、世界に形を与える魔術に等しい。ヴォルクが手に入れた幸福は、決して欺瞞ではなく、彼にとっての真の現実だった。そして皮肉なことに、彼は騙されることで、制度と自己の間に横たわる齟齬からひととき解放され、ある意味での救済を得ていたのである。


マルコ——後にセレナール史に名を残すその男の若き日の姿は、既にその才能を開花させていた。彼は単なる詐欺師ではなく、「意味の設計者」として、人々の欲望と理想を巧みに操り、独自の世界を創造し始めていた。それはいずれ、より大きな舞台で演じられることになる歴史の序章に過ぎなかった。


真実と嘘、陽と陰、制度と個人——それらの均衡点に立つとき、我々は初めて世界の全体像を垣間見ることができる。マルコの芝居が教えてくれたのは、世界とは単一の視点から見るべきものではなく、多層的な視点の交錯によって初めて浮かび上がる、複雑な織物だということだ。


もしかしたらそれは、夜のヴェルシア湾を照らす月光のように、真実は直接的に見るものではなく、何かに反射して初めて私たちの目に届くものなのかもしれない。マルコたちの祝杯が終わった後も、海の波は変わらず岸辺を打ち続けていた。それは時の流れと、歴史という名の大いなる芝居が、これからも続いていくことの静かな証だった。


ところで、マルコは《アルセトラII号》甲板での祝宴のさなか、なんの変哲もない石を拾っていた。荷物の積み下ろしの際にでも紛れ込んできたのであろう。この石がどのような遍歴を経て、この船にたどり着いたのかは窺い知れない。


ただひとつ、確実に言えることは、この石は"秘石"でもなんでもなく、正真正銘の『ただの石ころ』だった。


マルコ、いや、もうこの名前はいいだろう。カーディ・ダーレは気まぐれでその石ころを懐中に収めていた。なぜ、なんの変哲もない石ころに気を止めたのか。それはカーディ本人にもわからなかった。ただ、なんとなく、そんな気がしたから。それ以上でもそれ以下でもなかった。


セレナール歴967年揺陽月(7月)、帝都ガイアスの片隅で、穏やかな波に揺られて寝眠りにつこうとしている、マルコことカーディ・ダーレは、このとき齢27歳であった。


【エピローグ】


照炎月の日差しが、熱く、そして眩しかった。


帝都ガイアスから遠く離れた、山間の盆地に位置する小さな町、トリエス。ここに建つ財務分室は、帝国の中央から見れば、ほとんど名もない辺境の出先機関にすぎなかった。


しかし、その小さな建物の中で、ラグナル・フェーンは一際異彩を放つ存在だった。地方の若きエリートとして、彼の綿密な分析眼と誠実な仕事ぶりは、上司からの信頼を集めていただけではなく、遠く帝都ガイアスまで聞こえるほどの俊英ぶりだったと言ってもよい。


蝉時雨が窓から絶え間なく響き渡る中、ラグナルは事務机の上の書類を手際よく整理していた。彼の計算は正確で、処理速度は分室の誰よりも速かった。


机の隅には少し日焼けした「帝都財務省・着任辞令」が、既にボロボロになったクリップで留められていた。トリエスのような小さな町から、本省への着任辞令が発出されることは極めて異例なことである。


「ふ〜」


ラグナルは長い息を吐いた。それは分室では飛び抜けた能力を持ちながらも、帝都での新たな挑戦に心躍らせる複雑な感情が混じったものだった。


「おい、ラグナル。お前、いつまでここにいんのよ……?」


昼食から戻ってきた同僚が、意を決して声をかけた。彼の表情には、本来なら帝都で大活躍しているはずの優秀な同僚が、未だここにいることへの不可解さが浮かんでいた。


「ええ、辞令はもらってるんですけど、着任命令がまだ来てなくて……」


ラグナルは正確さを重んじる、真面目な口調で答えた。帝国官僚としての規律正しさが、彼の言葉の端々に表れていた。彼はここトリエスで、規則を守ることの重要性を体現してきた模範的官吏だった。


「いや、それ4ヶ月前の話だろ。お前のような優秀な奴が、帝都で腐るほどいるわけないのに」


同僚の言葉には、皮肉ではなく純粋な称賛が込められていた。分室の誰もが、彼の抜擢を当然だと考えていたのだ。


「いや、その後にきた追加の書簡に"しばらく待機してください"って書いてありましたよ。……ありましたよね?」


ラグナルは、やや自信なさげに着任辞令と追加書簡を広げた。どちらの書簡にも帝国公式の完全に整った書式で、その旨が記されていた。その緻密な目は、文書のわずかな不整合さえ見逃さないはずだったが、今回は何も見つけられなかったようだ。そこには確かに、公式の印章と共に「当面はトリエス分室にて待機のこと」という一文が記されていた。


「でもお給金はちゃんと毎月届いていまして。……びっくりするくらいで」


「本当か。帝都、さすがすぎるな。お前の実力を正当に評価してるんだな」


同僚の目が見開かれた。それは純粋な尊敬の表情だった。


「ちゃんと明細にも"帝国財務省本省査察課"ってあって……心が跳ね上がっちゃって」


ラグナルの顔には、何の疑いもない純粋な喜びが浮かんでいた。彼の真面目な性格と計算能力は、皮肉なことに詐欺という概念から最も遠い存在だった。


「……いや、そうなんだろうけど……とはいえ、もう夏だぜ? なんか変だよな」


一同の間に、妙な沈黙が流れた。誰もが「おかしい」と感じながらも、帝国の官僚機構の複雑さを前に、疑問を口にできずにいた。


午後の陽射しが西に傾き始めた頃、計算書をチェックし終えたラグナルは廊下の掲示板に目を留めた。そこには省庁公式の公示などが掲示されていた。彼は習慣的に、数値の誤りがないか確認するように目を走らせた。


そして、彼の鋭い目が見開かれた。


「帝都で禁制ワイン摘発! 査察官ラグナル・フェーン氏、迅速な采配」


記事の見出しには、紛れもなく自分の名前が躍っていた。


「……え、ぼく? これ……ぼく? 着任してないですよね??」


ラグナルの声は混乱に満ちていた。彼の論理的思考では、帰納的にも演繹的にも、起きていることを理解できなかった。


「……いや、じゃあ誰が……? もしかして帝都に同姓同名の人が? でもそれだと辞令の説明がつかないな……」


同僚もまた、状況を飲み込めないようだった。帝国の官僚機構は複雑だが、少なくとも「存在しない人物」が功績を挙げることはない——常人はそう信じているのが通常だからだ。


「や、やっぱり、ど、同姓同名かなあ。帝都に行ったらご挨拶してみますね。そのラグナルさんに」


天才的な計算能力と真面目さを持ちながら、ときに驚くほど素直なラグナルは、そう言って微笑んだ。彼の中には、現実と虚構の境界線を引く能力が、不思議なほど欠けていた。あるいは、それこそが彼の天才性の一部なのかもしれない。他者の嘘を信じ、自らの不在すら疑わない純粋さ。


「……いや、どう考えたってお前だよ」


「えっ、でも……帝都にいませんでしたよね、ぼく?」


ラグナルの表情から、混乱が一切消えていた。それは虚構と現実の間に立つ者の、独特の達観にも似ていた。


窓の外では、蝉の声だけが変わらず響き続けていた。歴史の舞台では、時に名前だけが先に旅立ち、本人はそれを追いかけるように動き出す。ラグナル・フェーンは知らぬ間に、ある物語の主役を演じていた——そして、彼自身はその役柄にも関わらず、物語の外に取り残されていたのである。


皮肉なことに、彼の不在と、優秀さという評判こそが、カーディ・ダーレの計画に必要不可欠だった。歴史の舞台裏では、存在しない人物が大きな役割を担うこともある。それは、真実と虚構の境界線が、思いのほか曖昧であることの証明でもあった。

世界は、時に「在るべきもの」ではなく「在ると信じられたもの」によって回る。


その日のトリエスの空は、騒がしい蝉時雨とともに、いつもと変わらぬ青さで広がっていた。


■第二章に続く。


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セレナール大陸の石物語:第一部『官吏と秘宝とまだまだ未熟な暗殺者』 大谷往喜尾 @OrangePiggy

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