5

 でもなぜ陛下が? ひょっとして私と同じ気持ちに――。ううん、そんなこと、ない!


「ええと……」気まずそうなソリョンの声が聞こえた。「そなたの話を聞いていると、陸の世界に興味がわいてくるのだ。いろいろ訪れることができればよいな、と思う。ああ、海の世界も知らない場所がたくさんあるのだ。けれども私は――」


 ソリョンの声が、固く、強張ったものになった。「私は――つまり私は臆病なのだ――」


「臆病だなんて……」


 どういうことなのだろう。スニは今度ははっきりとソリョンを見た。ソリョンが何か、大切な話をしようとしているのかもしれないと思った。ひょっとするとそれは、海の王の抱えている問題というものに関する何かだろうか。


 ソリョンの動揺も収まっているようだった。ソリョンがスニを見つめていた。不思議な眼差しで。


「そなたが……奇跡を起こすというのだ」


 奇跡……。スニは思った。奇跡がなんなのかいまだにわからないけれど。でも陛下を癒すことならば。この人が力になることができるのならば。


 早く奇跡が起こってほしいと、スニは思った。




――――




 それから二日ほど後のことだった。スニはまだ海の王国におり、まだ占師たちの元で働いていた。その日もまたスニはお使いに向かっていた。別の部署に届けるための書類を持ってスニが宮殿内を歩いていると、向こうからいかめしい格好の兵士たちが数人やってきた。


「スニ殿」


 その中で一番偉いと思われる男がスニの前に立ちふさがった。スニは戸惑い、恐ろしく思った。男はあごひげを生やし、背も高ければ筋肉もたくましかった。


「我々とともに来てもらおう」


 男は言った。あまり友好的といえない声だった。スニはわずかに後ずさった。


「あの……あなたがたは」

「我々の正体などどうでもいい。ともかくあなたに用事があるのだから」


 そう言って男は大股でスニに近寄り、その腕を取ろうとした。スニは悲鳴を上げ、書類が落ちる。けれども男はスニを捕まえることはできなかった。


「な、なんだ! 耳に何か……!」


 男は叫んだ。そして自分の耳のそばでやみくもに手を振る。スニはすぐにわかった。ドヨンだ! てんとうむしとなって自分にくっついていたドヨンが、男の耳で暴れているのだ。


 スニはたちまち見を翻した。男に背を向け、走る。「おい、逃げるぞ!」背後から声が聞こえた。スニは一目散に走り――そしていつのまにか、うさぎの姿になっていた。


 うさぎが走る。小さな茶色のうさぎが。うさぎは、か弱いけれど、足は早いのだ。


 私たちの武器なんだ。逃げながらスニは思った。うさぎの仲間たちが言ってた! これは私たちが生き延びていくための武器なんだ、って! 私たちは恐ろしい爪や牙はないけど、でも、大きな耳に頑丈な手足があって、敵から上手く逃れることができる、って!


 スニは逃げていく。そして伝説に出てきた、うさぎのことを思った。だまされて海の王国に連れてこられたうさぎ。あのうさぎだって――上手いこと嘘を言って、海の王から逃げてきたじゃない!


 そう、戦ったわけじゃなかった。ただ、逃げたんだ!


 スニは走り、そしてある場所を目指していた。それはこの異国の中で、自分を守ってくれそうな場所。親切な人たちがいそうな――占師たちの部屋だ!


 目当ての部屋の扉は開いており、スニはその中に飛び込んだ。ちょうどユソンがいて、驚いた顔でスニを見た。


「まあ、うさぎ!? ああ、スニね! スニなのね!」


 ユソンがスニを抱き上げた。スニは震える体をユソンにくっつけた。


 声と足音がする。占師たちの部屋に向かってくる、数人の男たちの声と足音。ユソンがスニを抱いたまま、扉の外に出ていった。


「あなたたち――何をしているの」


 ユソンが厳しい声でとがめる。男たちがユソンの前で止まった。うろたえる声がする。


「これはユソン様、私たちは――」

「スニを追いかけていたの?」

「それはですね、我々は、その、予言のことを鑑みるに、このままではよろしくないかと……」


 ユソンと男の間で、一瞬、不思議な視線が交わされた。ユソンが何かを察し、その上で男をいさめているかのようだった。スニはやわらかいユソンの胸にしがみついていたので、そのことに気付かなかったが。


「……このことは、後で話し合いましょう。とりあえず、スニを脅すのをやめなさい」


 ユソンはきっぱりと言い、そしてスニを見て、うってかわって優しい口調で声をかけた。


「怖かったでしょう? 少し自分の部屋で休むといいわ」




――――




 ユソンに言われた通り、スニは自室にひきあげた。今はもう人間の姿をしている。部屋に入り、しょんぼりとすみに座ると、たちまち声がした。


「スニ」


 ドヨンの声だ。すぐ隣に、一匹の小さなてんとうむしがいる。その姿を見て、スニは安心感と涙がこみあげてきた。


「ドヨン様……」


 泣き声になってしまった。涙をこぼすまいと、必死にこらえた。そうしてようやく言った。


「助けてくださって……ありがとうございます」

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