やさしい嘘と、ほんとうの声 〜 あの日言えなかった言葉のつづき〜

石ノ葉 しのぶ

やさしい嘘と、ほんとうの声 〜あの日言えなかった言葉のつづき〜

春の匂いが街に広がる頃、僕は彼女を失った。


その日の朝、彼女はいつものように優しく微笑んで「またね」と言った。それが、僕たちの最後の言葉だった。


理由を聞くことができなかった。胸が痛くて、怖くて、言葉が出なかった。でも、彼女が何も言わずに去って行ったことは、深く胸に刻まれている。自分を守るために、あえてその答えを求めなかった。


数ヶ月後、僕は彼女の不在に慣れ、日常を取り戻そうとした。しかし、どうしても心の隅に空いた穴を埋めることができなかった。毎年春が来るたびに、彼女のことを思い出す。


あの桜の花が舞い散る並木道。手を繋いで歩いた日々。静かで、温かい笑顔。それがあまりにも鮮やかで、時間が経っても色褪せることはなかった。


そして、あの春から二年が経った今年の春。僕のもとに、一通の手紙が届いた。宛名も差出人もない、ただ「あなたへ」とだけ書かれていたその封筒。手に取った瞬間、心臓が震えた。


中身を開けると、彼女の字だった。最初は信じられなかった。封を切る手が震え、目の前がかすむ。あの日からずっと彼女に会いたかった。でも、もう二度と会えないと思っていた。


手紙には、彼女が僕に伝えたかったことが書かれていた。


「ごめんなさい。あなたに何も言わずに去ってしまって。」


「あなたを嫌いになったわけじゃない。どうしても伝えられなかった。私は、もうすぐ遠くへ行かなければならなかった。どうしても言えなかったんです。」


「あなたと過ごした日々が、私にとってどれほど大切だったか。あなたの笑顔、あなたの声、あなたの温もり。すべてが今も、私の心に深く残っている。」


「でもね、私はあの時、あなたにそのことを伝えられなかった。それは、あなたを傷つけたくなかったから。最期を迎える前に、あなたに本当の気持ちを伝えることができなかった。」


「それが、私のやさしい嘘。けれど、本当の気持ちは今もあなたの中に残っていると信じています。」


「あなたに会いたかった。でも、もう戻れない。」


手紙を読み終わった僕は、ただ無言でその場に立ち尽くしていた。心がどうしようもなく締めつけられ、涙があふれそうになった。


彼女が去った理由、その本当の理由を、ようやく知った。しかし、何も言わずに去ったあの行動が、今も僕の胸を深く突き刺す。彼女は何も言わずに去った。その沈黙が、彼女のすべてだったのだと。


心の奥底でずっと待っていたものが、ようやく現れた。それは、優しさの中に隠された痛みだった。彼女の選んだ「やさしい嘘」、その裏にあった無言の愛。僕はその思いを受け入れることができた。


外に出ると、春の風が吹いていた。桜の花がちらちらと舞い散り、歩道にピンクの絨毯が広がっている。僕は足を止め、目を閉じた。


あの日、彼女が残した桜の花びらが、今も僕の心に残っているような気がした。


「ありがとう、君に出会えてよかった。」


それだけが、心の中で自然に浮かんだ言葉だった。彼女が残してくれたあたたかさ、言葉にできなかった愛。僕はそれを抱きしめて、生きていこうと思った。


彼女がいなくても、僕は前を向いて歩ける。そのことを、彼女の最後の手紙が教えてくれた。やさしさだけじゃなく、痛みも、すべてが今の僕を作り上げている。


桜の花がひらひらと舞う中、僕はただ静かに立っていた。彼女の声が、もう一度聞こえた気がした。その声を、大切に心の中にしまい込むように。


誰にも見せることなく、彼女に伝えたかった言葉を、今、ひとりで心の中で言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

やさしい嘘と、ほんとうの声 〜 あの日言えなかった言葉のつづき〜 石ノ葉 しのぶ @relambda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ