第2話『鈴川護編 深夜の電話と消えた妹』
深夜の喧騒を分厚い防音壁のように遮断するタクシーの重厚なドアが閉まると、吐息と共に、ようやく一日の終わりを実感できた。
街のネオンサインが、窓ガラスを滑るように後ろへ消えていく。
使い込まれた革張りのシートに深く身を沈め、重い瞼を閉じると、今日の収録の反省と次の役の台詞がぐちゃぐちゃに混ざり合い、思考の渦を作る。頭の中で、何度も同じシーンがリフレインする。
今日の仕事はこれで終わりだが、役者という仕事に本当の意味での終業時刻はない。
思考を巡らせていると、ジャケットの内ポケットでスマートフォンが不意に、しかし鋭く短く震えた。その振動が、妙に心臓に響く。
(……ん? この時間に誰だ?)
常であればディスプレイを確認するまでもなく無視することも多い着信だが、第六感とでも言うのだろうか、言いようのない胸騒ぎが、冷たい爬虫類のように背筋をじわりと這い上がってきた。嫌な汗が首筋に滲む。
ディスプレイにぼんやりと灯ったのは、ここ数年、めったに目にすることのなかった妹、
(千砂都から? 間違いじゃないのか? 電話なんて、一体どういう風の吹き回しだ……? 何か良からぬことに巻き込まれたんじゃ……いや、考えすぎか。)
ここ数年、あいつとのコミュニケーションは、ほとんどが簡素なメッセージアプリでの短いフレーズの応酬だけだ。他愛もない近況報告、形式的な誕生日祝いの言葉、そして、たまに金の無心の催促。
最後に肉声を聞いたのは……正直、記憶の彼方だ。
互いに忙しいという言い訳と、どこか意地を張っていた自分への自己嫌悪が込み上げる。
こんな時間に、しかも直接電話をかけてくるなど、何かあったのだろうか?
嫌な予感が鉄の爪のように胸を締め付ける。
俺は息をひとつ飲み込み、わずかに身構えながら、画面上の緑色の通話アイコンをタップした。指先が妙に冷たい。
自宅マンションまでは、まだしばらく距離がある。
「もしもし、俺だけど」
『あ、お兄ちゃん? 夜遅くにごめんね』
鼓膜を打ったのは、間違いなく千砂都の声だった。記憶の中のそれより少し低く、それでいて紛れもなく妹の声だ。
最後に聞いた時よりも少しだけ大人びたようにも感じたが、それ以上に、隠しきれない緊張と、どこか妙な昂揚感が入り混じっているのがワイヤレスイヤホン越しの声の震えから伝わってきた。
まるで、ジェットコースターに乗る直前のような、恐怖と興奮がないまぜになったような声色だった。
「どうした? 何かあったのか?」
『うん……あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけど。いや、私もまだ半信半疑なんだけど……。最近、なんか変なんだよね……誰かにつけられてる、みたいな感じがして。気のせいかもしれないけど、視線を感じるっていうか……』
「つけられてる……? ストーカーか何かか?」
『分かんない。でも、今日もね、バイトの帰り道、絶対後ろに誰かいたの。それで、今日もバイトの帰り道、例の視線を感じてさ。もう我慢できなくて、ムカついたから、人通りの少ない路地の角で急に待ち伏せて、そいつが出てきたところを捕まえようとしたんだけど……』
「おい! お前、まさか一人でそんな無茶なことを……!」
声が出そうになるのを必死でこらえ、タクシーの運転手に聞こえないよう、声を潜めた。
『大丈夫だって! 意外と私、運動神経いいんだから。でも、相手、すっごい足早くてさ――、暗い路地に逃げ込まれて、あっという間に見失っちゃった。悔しいけど。ただね……』
千砂都の声が、まるで手柄を立てた子供のように、ほんの少しだけ得意げな響きを帯びる。その声色が、俺の不安をさらに掻き立てた。
『逃げる途中で、これ、落としてったんだよね』
「これって……何を落としていったんだ?」
『帽子。どこにでも売ってそうな、何の変哲もない黒いキャップ。でも、触った感じ、生地はしっかりしてるし、結構新しい感じのやつ。汗の臭いとかは特にしないかな。だから、間違いなく、若い男だったわ。おじさんがあんなに俊敏に動けるとは思えないし。』
(若い男……黒いキャップ……手掛かりとしてはあまりに曖昧すぎる。)
情報があまりに断片的で、何も判断できない。
だが、それ以上に、妹のあまりに軽率な、いや、無謀とさえ言える行動に肝が冷えた。もし、相手が逆上していたら……考えただけでも血の気が引く。
「千砂都、お前な……」
思わず声が大きくなるのを抑えられない。
「いくら昔、じいちゃんの道場で空手の手ほどきを受けていたからって、無鉄砲にも程があるぞ! あの頃のお前はまだ子供だったんだぞ! もし相手が刃物でも隠し持っていたら、どうするつもりだったんだ! 取り返しのつかないことになったらどうするんだ!」
『もー、心配しすぎだって! 大丈夫だって言ってるじゃん。ちゃんと距離は取ってたし、いざとなったら……ね?』
電話の向こうで、あいつが「ケケケ」とでも言いそうな、悪戯っぽく、そしてどこか挑発的な笑う気配がした。その笑い声が、俺の怒りに油を注ぐ。
昔からそうだ。妙なところで肝が据わっていて、それでいて危なっかしい。
一時期、得体の知れない自己啓発セミナーにのめり込み、まるで何かに洗脳されたかのように人が変わったようになっていた時は本当に肝を冷やしたが、あの時の、焦点の合わない虚な瞳は今でも忘れられない。
最近はようやく落ち着き、昔の明るい妹に戻ったと安堵していた矢先だったのに……。だが、この危なっかしさは、昔から変わらないのかもしれない。
「とにかく、一人で危ない真似は絶対にやめろ。いいな? それで、その帽子はどうしたんだ?」
『一応、持って帰ってきたけど……警察に届けた方がいいかな……?』
「……そうだな。いや、待て。警察に届けるのは俺が行ってからだ。下手に刺激しない方がいい。俺がそっちへ行く」
俺は即断した。この胸騒ぎは尋常じゃない。
「明日、どんなに遅くなっても、仕事が終わり次第、すぐにそちらのマンションへ向かう。それまで、絶対に一人で出歩くな。分かったな? バイトも休め。いいか、絶対にだぞ。」
『えー? 大丈夫だって言ってるのに。お兄ちゃん、相変わらず過保護なんだから』
「うるさい。とにかく、そう決めたんだ。いいな?」
『……はーい。分かったよ。じゃあ、明日待ってる』
「ああ。じゃあな」
通話を切り、俺はタクシーの窓の外を感情のない光の粒のように高速で流れ去る夜景を眺めながら、深く重いため息をついた。肺の中の空気を全て絞り出すような、そんなため息だった。
ストーカーの仕業だろうか? それとも、もっとたちの悪い何かなのか……?
久しぶりに聞いた妹の声は、確かに妙な切迫感を帯びていた。あの得意げな口調の裏に隠された怯えを、俺は聞き逃さなかった。
後味の悪さだけが、冷たく重い鉛のように、胸の中に澱のようにゆっくりと沈んでいく。
***
翌日の昼過ぎ。
騒がしいスタジオの片隅で、周囲に気づかれないようこっそりと、収録の合間に千砂都へ『今日の夜、何時頃なら部屋にいる?』 とメッセージを送ってみるが、スマートフォンの画面を見つめ続けても、一向に既読のマークがつかない。
時間だけが刻々と過ぎていく。
電話をかけてみても、呼び出し音が虚しく響くだけで、誰も応答しなかった。
(……寝ているのか? 昨夜、遅くまで起きていたのかもしれない。それとも、俺が心配しすぎだと拗ねて、わざと無視しているのか? あいつならやりかねん。だが、それにしても……。)
嫌な予感が、冷たい汗となって額に滲み出し、じわじわと確信に変わっていくのを感じた。心臓が、ドクドクと警鐘を鳴らしている。
いてもたってもいられず、俺は次の出番までの短い時間を利用して、午後の仕事を強引にキャンセルし、鬼の形相で詰め寄るマネージャーに平身低頭で謝罪してスタジオを飛び出した。
「理由は後で必ず!」と叫び捨て、振り返る余裕もなかった。
新宿駅から湘南新宿ラインに飛び乗り、桶川を目指す。
ガタンゴトンと不快な音を立てて揺れる車内でも、何度も千砂都に電話をかけ、「何かあったのか?」「無事なのか?」「頼むから返事をしてくれ」 と懇願するようなメッセージを送り続けたが、画面は冷たく沈黙したまま、反応は一切なかった。
桶川駅に転がるように降り立ったのは、もう太陽が赤みを増して西に傾きかけた頃だった。ホームに吹き抜ける風が生ぬるい。
焦る気持ちを必死で抑え、喉がカラカラに乾いているのを感じながら、駅前に停車していたタクシーに飛び乗り、「急いでください!」 と運転手を急かし、千砂都の住むマンションへと向かう。
駅からマンションまでは、歩いても十分ほどの距離だが、今は一刻も早く到着したかった。
マンションの前に着き、エントランスのインターホンを鳴らす。
……やはり、応答はない。
(クソッ……!)
合鍵があれば……。
以前、千砂都が「お兄ちゃんもこれ持っとく?」 と屈託のない笑顔で鍵を差し出してきた時、「いや、いいよ。なんか照れくさいし」 と見栄を張って断ってしまったことを、今、猛烈に後悔していた。
あの時の自分を殴りつけてやりたい。何が照れくさいだ、馬鹿野郎。
確か、スペアキーは埼玉の実家……現在は祖父母が暮らしている家にあるはずだが、それを取りに行っている時間的猶予はない。
俺は管理人室のドアをノックした。出てきたのは、人の良さそうな初老の管理人さんだった。何度か顔を合わせたことがあるので、俺の顔は覚えてくれているはずだ。
「すみません、鈴川です。妹の千砂都の兄なのですが……!」
俺は汗だくのまま、息を切らしながら、鬼気迫る表情で事情を説明した。言葉がうまくまとまらない。それでも、必死だった。
昨夜の電話の内容、今日になって全く連絡が取れないこと、何か良からぬ事態に巻き込まれたのではないかと心配でたまらないこと。
管理人さんは、俺のただならぬ様子に目を丸くし、一度は困惑の表情を浮かべたが、やがて親身になって話を聞いてくれた。その優しい眼差しが、少しだけ俺の心を落ち着かせてくれた。
「それはご心配ですね……。千砂都さん、いつも明るく挨拶してくださる、本当に良いお嬢さんなのに……」
彼は規則と俺の必死な嘆願との間でしばし逡巡した後、
「……分かりました。規則では本来お開けできないのですが、お兄さんがそこまでおっしゃるなら。何かあってからでは遅いですから。今回だけですよ」
と言って、マスターキーを手に、一緒に千砂都の部屋まで来てくれた。
「もし、何かおかしなことがありましたら、すぐに私にもお知らせくださいね」
「ありがとうございます……! 本当に、感謝します……!」
深く礼を述べ、俺は管理人さんが開けてくれたドアから、祈るような気持ちで、部屋の中へ転がり込むように入った。ドアノブに触れる指が震えているのが自分でも分かった。
最悪の事態も覚悟していた。鼻腔の奥にこびりつくような血の臭い、物が散乱し、家具がなぎ倒された荒らされた室内、そして、二度と見たくない、変わり果てた妹の姿……。
脳裏に浮かぶおぞましい光景を必死で振り払う。
しかし、部屋の中はまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。荒らされた形跡も、争ったような物音一つしない。
あまりの静寂に、逆に胸がざわつく。
ただ、昨日電話で話した時のままのような、彼女が淹れかけのコーヒーカップがキッチンカウンターに置かれ、読みかけの本がベッドサイドに開かれたままになっているような、生々しい生活感だけがそこにあった。
……千砂都の姿だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、どこにもない。
(どこへ行ったんだ……? 自分の意志で出て行ったのか? それとも……何者かに連れ去られたのか?)
最悪の事態は免れたかもしれないというほんの僅かな、蜘蛛の糸のような安堵と、それでも妹の身に何かただならぬことが起こったに違いないという腹の底から湧き上がってくるような確信に近い不安。
この二つの感情が、俺の中で激しくせめぎ合っていた。
俺はいてもたってもいられなくなり、管理人さんに再度深く頭を下げると、「すみません、警察に行ってきます!」 と告げた。
「もしよろしければ、途中まで車でお送りしましょうか?」 という管理人さんの温かい申し出に甘え、彼の車で埼玉県警上尾警察署へと送ってもらった。
車窓から見える夕暮れの街並みが、やけに非現実的に感じられた。
だが、警察署での対応は、想像をはるかに超えて冷淡なものだった。
「妹さんと連絡が取れない? 成人されてるんですよね? 事件性があると断定できる明確な証拠でもおありで?」
生活安全課の名札をつけた若い警察官は、パソコンのモニター画面から一瞬たりとも目を離さず、まるでテレビゲームでも操作しているかのように無感動な指つきでキーボードを叩きながら、まるで他人事のように言い放った。その声には、何の感情も込められていなかった。
俺が昨夜の電話の内容、尾行されていた可能性を必死に訴えても、「思い過ごしかもしれませんしねぇ」「まずはご自身で、お心当たりの場所を捜索されてみてはいかがですか?」 と、全く取り合おうとしない。
「ふざけるな! 妹の身に何かあってからでは遅いんだぞ!」
俺が思わず声を荒らげても、彼はまるでうるさい虫でも追い払うかのように、面倒くさそうに顔をしかめるだけだった。その態度が、俺の怒りをさらに煽る。
「事件として正式に受理できなければ、我々も動くことはできませんので」
結局、俺は薄っぺらい失踪届の書類だけを半ば押し付けられるように渡され、まるで厄介者扱いでもされたかのように、追い返されるように警察署を後にした。
夕闇が迫る中、警察署の建物が巨大な墓石のように見えた。
怒りと、無力感で、全身がわななく震えた。歯を食いしばっても、その震えは止まらない。
この国は、本当に何かが決定的に壊れてしまわない限り、指一本動かそうとしないのか。妹の命がかかっているというのに!
(どうすればいい……? 千砂都は一体どこに……?)
途方に暮れながら、警察署のロータリーで呆然と立ち尽くす。そうだ、今は千砂都の部屋で待つしかない。あいつが何事もなかったかのように「ただいまー」と帰ってくるのを。
あるいは、万が一、億が一の可能性として、犯人からの何らかの接触を……。そんなことを考えている自分に吐き気がする。
スマートフォンを取り出し、タクシー配車アプリを起動しようとした、まさにその瞬間だった。
画面に、まるで悪魔の宣告のように、着信が表示された。「非通知設定」。その四文字が、やけに不吉に目に焼き付く。
心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように、嫌な音を立てて大きく跳ね上がった。喉の奥がカラカラに乾き、ゴクリと生唾を飲み込む。その音すら、やけに大きく響いた気がした。
普段なら絶対に応答しない電話だ。だが、これは……? 千砂都が、どこかから……? いや、違う。これは、おそらく――
震える指で、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『…………』
一瞬の沈黙。周囲を行き交う車の走行音だけが、やけに大きく耳に届く。
ややあって、まるで深海から響いてくるような、低く、感情の抑揚というものが一切感じられない男の声が、スマートフォンの小さなスピーカーから響いた。その声は、聞く者の体温を奪うような冷たさをまとっていた。
『……鈴川千砂都の兄か』
「……っ! そうだが、誰だ貴様! 千砂都はどこにいるんだ!?」
『鈴川千砂都の身柄は、こちらで預かった』
男の声は、温度というものが一切感じられなかった。まるで、精巧に作られたAIか何かが、プログラムされた言葉を読み上げているかのようだ。
全身の血の気が急速に引いていくのを感じた。
「な……なんだと……? どういうことだ、それは!?」
『返して欲しければ、月島みゆの身柄と交換だ』
まるで、商品の取引でも持ちかけるような、事務的な口調だった。
「つきしま……みゆ……? 誰だそれは!? 一体、何を言っているんだ!?」
『要求に応じなければ、妹は死ぬことになる』
その言葉は、何の躊躇もなく、何の感情もなく、ただ淡々と告げられた。まるで、明日の天気を告げるかのように。
「待て! どういう意味だ! 千砂都に何をするつもりだ!?」
『返事は明日、またこちらから電話をする。その時に聞かせてもらう。……よく考えておくんだな』
「おい! 待て! 月島みゆとは一体誰なんだよ! おい!!」
プツッ、という命綱が切れるような無機質な音と共に、通話は一方的に切断された。耳元で、ただツーツーという虚しい音が繰り返される。
俺は、スマートフォンを握りしめたまま、呆然としていた。
(身柄を預かった……? 交換……? 月島みゆ……? 死ぬ……?)
言葉の意味が、すぐには頭の中で像を結ばなかった。
ただ、全身がコントロールを失ったように激しく震え、まとわりつくような夕方の生暖かい風の中、冷たい汗が額から、首筋から、背中から、とめどなく噴き出してくる。地面が揺れているような錯覚さえ覚えた。
月島みゆ……いったい、誰なんだ……?
千砂都は、どこにいるんだ……?
俺は、ただただ、まるで血の色のように不吉な茜色に染まり始めた空を、力なく見上げることしかできなかった。
これから、俺は一体どうすればいいんだ……?
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