館長と少年と恩返し

 肌寒い朝の風が亥太朗の頬を撫でる。亥太朗は羽織物の一枚でもあった方がよかったと思いながら記念館の鍵を開ける。

 傘立てを見て、金髪の青年は無事に帰ることができただろうかと思う。彼を見送ってから雨はすぐに止んだ。亥太朗が記念館や琥珀の旧居の戸締りの確認をしてから帰路に着く頃、空には星が瞬いていた。

 秋の高い空の下、記念館は本日も休館だが仕事はある。来週には工事が始まる。大がかりなものではないが、工事に供えて準備がある。今日の予定をシミュレーションしながら執務室へ向かう。

 執務室に荷物を置いた後、館内を巡回する。静かな館内に異常はない。ぐるっと一周して受付に戻った亥太朗は名誉館長と目が合う。昨日、駿輔を見送ったときと同じ位置にいる彼は玄関先をじっと見ている。今日はさすがに来館者はいない。

 秋仕様のコンの服の用意もしなければと考えた亥太朗は玄関を見やる。


「……あ」


 自動ドアの先に見慣れた金髪の青年が立っていた。こちらに背を向けた彼の手には昨日貸した傘がある。返しに来てくれたのかと思った亥太朗は急いで自動ドアを開ける。


「畑さん、おはようございます」


 亥太朗が声をかけると、駿輔はちらりと視線をやり、手招きする。


「え?」


 何かあっただろうかと疑問に思う亥太朗をよそに駿輔は駆け出す。


「畑さん?」


 亥太朗もつられて走り出す。跳ねるように走る駿輔が向かったのは記念館のすぐ近くの琥珀の旧居だ。駿輔は玄関前で足を止めると、玄関を開ける。


「……え」


 今日はまだ旧居の方へ行っていない。昨日、駿輔を見送った後、きちんと戸締りの確認をした。そのため、旧居が開いているわけがない。鍵を使ったにしても、その鍵は亥太朗のポケットに入っている。駿輔が入ることは不可能なはずだ。

 亥太朗は開かれたままの玄関に飛び込む。玄関に駿輔の靴はない。どこへ行ったと視線を彷徨わせた亥太朗の目に、廊下を抜けて角を曲がった駿輔の姿が見える。亥太朗は靴を脱ぎ散らかしたまま旧居へ足を踏み入れる。


「畑さん!」


 亥太朗の声を無視し、駿輔は居間を抜け、さらに奥へと歩いていく。亥太朗は早歩きで駿輔を追う。

 駿輔は一度足を止め、肩越しに亥太朗を見る。


「畑さん、それ以上は」


 駿輔が立ち止まった先、廊下の奥や廊下に面する部屋は立ち入り禁止のエリアになる。柵も設け、関係者以外の立ち入りは禁止している。

 しかし、駿輔は亥太朗の忠告も柵も無視し、手前側の部屋へ入って行く。そこは琥珀の書斎だ。


「なっ……」


 玄関から居間、縁側までは自由に出入りできる。しかし、書斎や書斎の奥にある寝室は入室禁止だ。書斎に関しては柵を設けており、廊下から部屋を見ることはできるようにしている。

 駿輔は入室禁止の柵をすり抜けるようにして書斎へ入って行った。どういうことなのかと不審に思いながら、亥太朗は恐る恐る書斎を覗き込む。


「……畑さん?」


 書斎に青年の姿はない。いつもの書斎のままだ。亥太朗は柵をどかして入室する。

 書斎は琥珀が使っていた当時を再現している。机や照明、筆記道具は琥珀が当時使っていた物を残し、本棚は復元した物を置いている。ゲンがよく顔を覗かせた窓はガラスはそのまま、窓枠の補強をして残している。

 亥太朗は再度書斎を見渡す。書斎に青年が隠れることができるようなところはなく、窓を開けて出て行った形跡もない。それにもかかわらず、目立つ金髪の青年の姿は見当たらない。

 では、自分が見た青年は何者だったのか。見間違いにしてはあまりに鮮明だ。この状況が理解できず、亥太朗はぐるぐると思考の底に落ちていく。


 コンコンコン


 硬い音に亥太朗の意識が引き戻され、音の発する方を見る。机の傍の窓からだ。窓越しに小さな手が見え、その手が窓を開ける。


「え……」


 窓も施錠されているはず。それが難なく開くと、ひょっこりと少年が顔を覗かせる。


「子狐ひょっこりこんにちは」


 色素の薄い髪色の少年は、へへへ、と笑う。


「あなたは……」


「傘のおとどけです」


 はい、と少年は傘を差しだす。その傘は昨日、駿輔に貸した傘だ。記念館の名前も入っており、間違いない。

 呆然とする亥太朗に少年は、ん、と傘を差しだす。


「え、あ、あの」


「ん」


 少年はむっとしながら傘を亥太朗へ伸ばす。亥太朗は慌てて窓辺へ駆け寄ると傘を受け取る。


「傘、ありがとう」


 少年はにこにこと笑いながら礼を言う。


「いえ……」


 亥太朗は少年を見下ろす。歳の頃は六、七歳ぐらいか。斜め掛けの鞄はどことなく見覚えがあり、鞄の金具には馴染深い狐のマスコットが揺れている。使い込んだ鞄に対し、狐のマスコットは真新しい。

 何より、少年の顔。金髪の青年の幼少期はこのような顔立ちだったのではないかと思わせるほど、彼に似ている。


「あなたは畑さん……畑駿輔さんの弟さんですか?」


 兄弟、もしくは、血縁ではないかと亥太朗は推測を立てる。姿を消した彼と一緒に来たのか、それならば駿輔が傘を少年に託した理由は何なのか。


「ん?」


 考える亥太朗に対し、少年は首を傾げる。


「……一人でここまで来たのですか?」


 先ほど見かけた駿輔の姿はない。もしかしたら、見かけていないか、関係者ではないかと思い亥太朗は尋ねる。


「うん」


「では、畑さんのことは知らない、と」


「ん?」


 少年は反対側へ首を傾げる。


「……」


 にこにこと笑っていて、とぼけているようにも見える。


「……本当に一人で来たのですか?」


「うん」


「傘を返しに?」


「そうだよ」


 亥太朗は返された傘を改めて見る。やはり、昨日駿輔に貸した記念館の傘だ。

 先ほど見かけた駿輔は傘を持っていた。青年はこの書斎に入ったと思ったら姿を消し、代わりに少年が傘を持っていた。

 どういう状況なのか。そのようなことがありえるのか。わざわざ亥太朗を旧居へ誘い込む必要があったのか。駿輔が傘を託したとして、この少年との関係性は見えない。

 亥太朗には納得できる答えがでない。


「ねえ」


「はい?」


 少年は思考の淵に落ちかけた亥太朗を引き上げるように呼ぶ。


「あのね、オレ、行きたいところあるの。忘れ物しちゃったから」


「忘れ物?」


「うん。一緒に行こう。玄関で待ってる!」


 じゃあね、と少年は走り去ってしまう。


「え」


 亥太朗は状況が呑み込めず、少年の姿を見送る。少しすると、来てねー!、と少年の声がして、足音は遠のく。


「……え?」


 やはり状況が呑み込めない。ひとまず、仕切り直すつもりで窓を閉める。きちんと施錠したことを確認し、もう一度書斎内を見渡す。青年の姿はない。隠れるようなところもないため、当然ではある。

 もしかしたら、まだ建物内にいるのかもしれない。そう思った亥太朗は建物内を巡回することにした。


◇◇◇◇◇


 巡回したが、駿輔の姿はなかった。人の気配もないため、亥太朗の知らない内に建物を出たか、そもそも、あの青年が見間違えだったのかもしれないと思うことにした。

 それにしては納得できない。

 亥太朗は玄関へ戻る。やはり、玄関には脱ぎ散らかした亥太朗の靴があるのみで、駿輔の履物はない。

 亥太朗は靴の位置を整えてから履く。


「……」


 開け放たれたままの玄関を見て、亥太朗は考え直す。

 玄関は初めから開いていたのか、駿輔は開錠する素振りもなくしれっと入っていった。昨日、確かに施錠を確認した。それが日課となっているため、開いていることはありえない。

 亥太朗はポケットから鍵を取り出す。記念館と旧居の鍵は確かに自分が持っている。それを記念館の職員ではない駿輔が持ち出すことなどありえない。記念館を巡回した際、自分以外に人の気配はなかった。

 どうなっているのか。普通では説明できないことが起きているのではないか。

 頭を悩ませながら、亥太朗は傘を片手に開け放たれたままの玄関を出る。


「……あれ?」


 少年は玄関で待っていると言っていた。しかし、姿は見えない。少年がいたであろう痕跡として、地面に絵が描かれている。亥太朗は身を屈めて絵を見る。三角形をふたつ頭に戴くそれは狐だろう。この狐はどこか名誉館長の面差しがある。可愛らしく描かれていて微笑ましく思う。


「ばあっ!」


「うわっ!?」


 突然、背を押された亥太朗は声を上げる。亥太朗は勢いよく振り返ると、少年がいた。


「はっ……はっ……」


 心臓の音がバクバクと響く。胸元を手で押さえる亥太朗の反応が最高だったこともあり、少年は、わーい、と飛び跳ねている。


「驚いた? びっくりした?」


「……ええ、とても」


 ここまで驚いたのは久しぶりだ。心臓が口から飛び出してきそうなほど強く脈打っている。あんなに大きな声が出たのもいつぶりかと亥太朗は思う。

 亥太朗は深く呼吸をして息を整える。子供の無邪気なところは可愛らしくもあるが、時として驚かされる。

 何度か呼吸をして、鼓動が収まった亥太朗は自分に注がれる視線にやっと気がつく。

 少年が眉を下げて亥太朗をじっと見ている。


「消えちゃった」


「え?」


 亥太朗は少年の視線の先、自分を通り越した背後を見やる。勢いよく足を引いたせいで、狐の絵が消えてしまった。


「ご、ごめんなさい!」


 あたふたと慌てる亥太朗に対し、少年は足元に落ちていた木の枝を拾うと亥太朗へ差し出す。


「描いて」


「描く?」


「この子」


 少年は鞄にぶらさがっている狐のマスコットを見せる。


「お友達」


「その子……」


 やはり、記念館のグッズとして出しているコンのマスコットだ。記念館のタグもついているため、間違いない。


「ダメ?」


 少年は可愛らしく首を傾げながらお願いする。


「……」


 消してしまった手前、亥太朗としては断るわけにはいかない。亥太朗は少年から枝を受け取り、しゃがむ。傘を置いた反対側に少年が座り込む。

 グッズのために何度も描いた顔。どうすれば可愛らしくなるか、名誉館長の顔を穴が空くほど見つめては、いくつものパターンを描いた。

 顔はひし形の輪郭を意識しながら、丸みを持たせる。三角形の耳も同様に柔らかく描く。丸い目は愛らしく、シャープな印象を受けやすい鼻は少し控えめにして、顔のパーツは中心よりも下側へ寄せる。

 名誉館長が可愛らしく見える条件を徹底的に分析した結果、導き出されたイラスト。亥太朗は可愛く描けたと自画自賛しながら、隣の視線の主を見る。


「……どうでしょうか」


 亥太朗は隣の少年に尋ねる。少年は途中からぴったりとくっつくようにして亥太朗の手元を見ていた。


「可愛いねえ」


 少年はにこにこと満足げに笑う。亥太朗はほっと胸を撫で下ろす。


「……ところで」


 それはそうと、と亥太朗は色々と思うところを尋ねようとする。少年のことや、駿輔のことなど、少年に聞きたいことがいくつもある。

 しかし、少年は亥太朗のことなど気にも留めず、真似っこする、と言って、亥太朗の手から枝を取り、亥太朗が描いたコンの隣に絵を描き出す。


「……」


 真剣に描いているところを邪魔するのも悪い。そう思った亥太朗は少年を見守ることにする。

 こうして間近で少年を見ると、本当に駿輔とよく似ている。つり気味の目元や高めの鼻はとくに似ている。


「……できた?」


 少年の手によって、愛嬌のある狐の絵ができあがった。しかし、むむむ、と少年はどこか納得がいっていない。


「お上手ですよ」


「本当? 何だか、違う気がする。鼻の位置?」


「描いている人が違うので、絵も変わるんです」


 少年が描いたコンの輪郭は亥太朗が描いたコンとよく似ているが、顔立ちが異なる。顔のパーツの配置が異なるからだと亥太朗は思う。


「そっか」


 少年は鞄につけられたコンをじっと見つめ、絵を見つめる。手の内にいる友達と亥太朗が描いた絵と少年が描いた絵はどれも違う顔をしている。しかし、少年にとってはどれも友達の狐が題材の絵だ。


「ふふふ、いっぱいいて嬉しいね」


 少年はぴょんと跳んで立ち上がり、改めて絵を見つめる。満足そうにしている少年に対し、亥太朗はそろそろ本題を切り出そうと立ち上がる。


「ところで、行きたいところがあるとのことでしたが……」


「あ! そうだった!」


 少年の大きな声が澄んだ空気の中に響き渡る。


「早く行かないと!」


「ちなみに、どちらへ?」


 少年は忘れ物をしたと言っていた。

 どこに何を忘れたのか。亥太朗には館内や旧居内に忘れ物の届けがあった記憶はない。


「お墓」


「お墓?」


「うん! 急がないと!」


 少年は亥太朗の手を取る。少し冷たい少年の手は力強く亥太朗を引っ張る。


「待ってください。鍵を」


 少年に驚かされて戸を閉めてもない。駿輔のことや鍵が開いていたことなど、考えたいことは多いが、まずは戸締りをしっかりしなければならない。

 亥太朗はポケットに手を入れた。やはり、鍵は間違いなく自分が持っている。


◇◇◇◇◇


「ぷるると揺れた白玉は、ぽったり、ぽちゃり、ぽたぽたと」


 少年が機嫌よく諳んじるのは琥珀が作った「空気の贈り物」という詩だ。陽光を受けて光り輝く露の光景を題材にしている。

 亥太朗の手はスキップまでして調子のいい少年の手と繋がれている。彼が跳ねるのに合わせてマスコットもぴょんぴょんと跳ねる。

 記念館から歩き出して十分ほど。流れで少年に連れられてしまった。旧居の戸締りは確認したが、記念館は開いたままだ。不安に思いながら、何事もないことを祈る。

 少年は琥珀の詩を諳んじたり、道端の草木や虫、鳥に視線を奪われたりと自由だ。

 亥太朗は少年に対して聞きたいことがある。が、こうして楽しそうにしているところを遮ってまで訊くのは無粋だと思い、こうして彼の様子を窺うに留めている。

 少年は琥珀の詩をよく知っていると亥太朗は思う。馴染んでいるのか、つっかえることなく、すらすらと諳んじる。亥太朗もいくつか暗記したが、少年ほど覚えてはいない。琥珀の詩の中でもマイナーなものも口にする。時々、亥太朗が全く知らない詩を口ずさむこともある。

 子供向けの詩が多くあるとは言え、この年頃の子供が琥珀の詩をいくつもすらすらと諳んじることができるとは珍しい。亥太朗が関心していると「空気の贈り物」が終わる。


「もう秋だよ、館長さん」


 「空気の贈り物」は秋を読んだ詩だ。まだ露の頃ではないが、もう近いだろうと亥太朗は思う。

 少年に話を振られた亥太朗は、そうですね、と同意する。少年と歩いたためか、身体が温まってきた。


「たくさん詩を知っているのですね」


 亥太朗はタイミングがいいと思い、話を切り出す。


「うん」


「詩はお好きですか?」


「うん!」


 少年はへにゃりと笑う。


「オレのお守りで宝物!」


「お守りで宝物……」


 亥太朗は昨日の話を思い出す。ゲンも駿輔も詩はお守りと言った。少年にとっては宝物でもあるようだ。


「これから先、ずっと持っていたい宝物」


 少年は空いている手を胸に当て、祈るように言葉を零す。


「こうして口ずさめば、残すことができる。おじさんとのこと覚えていられる。約束を守ることができる」


 少年はすっと息を吸う。


東風こちに託せよ、しろがねの花。眠りのときはもうしまい」


 少年は「銀に咲く花」を口ずさむ。詩は琥珀が、旋律は琥志朗が作ったものだ。

 亥太朗はその旋律をよく覚えている。祖父である琥志朗の元を訪れると弾いてくれた。ピアノを弾き、時には歌う祖父の隣に座るあの時間が亥太朗は好きだった。琥志朗は孫たちが幼稚園で歌った曲も、クラシックも、即興の曲も、様々なジャンルの曲を弾いては亥太朗や他の孫たちを楽しませた。途中で飽きてしまう孫がいる中、亥太朗は琥志朗の傍に長くいることが多かった。

 ある日、幼い亥太朗は琥志朗に尋ねたことがあった。よく聞かせてくれる曲のことを亥太朗はよく知らなかったから、気になってのことだった。


『じいじはこのおうたがすき?』


『うん、大事な曲だから。いー君は?』


『うーん……。むずかしいおうただけど、きらきらしてていいなーっておもう。ゆきがふるときのおとみたい』


 幼い亥太朗には歌詞の意味がわからなかった。「銀に咲く花」という題を聞いてもどんな花なのか理解できなかった。しかし、旋律の静かな美しさは祖母が寝る前に歌ってくれた子守歌みたいに綺麗だと思った。


『雪が降るときの音、か。いー君はいい耳をしているね』


 琥志朗に頭を撫でられて亥太朗は嬉しかった。しかし、まだわからないところがあった亥太朗はさらに尋ねた。


『おうたのこと、おおきくなったらわかる?』


『そうだなあ……。確かに、いー君が歌詞をわかるようになるのはまだ先だろう』


 これぐらい大きくなってからかな、と琥志朗は手を高く挙げて見せた。幼い亥太朗がその手を見上げようと後ろに倒れそうになるぐらいだった。


『いー君はきっとわかるよ。感じる力を持っているのだから、大きくなったらわかるさ』


『そうかな?』


『うん』


 琥志朗に真っ直ぐ言われ、くすぐったかった。今思えば、雪が降るような音と表わした時点で、あの曲のことを少しわかっていたのだろうと思う。それが幼い孫に伝わって、琥志朗は嬉しかったのではないかと亥太朗は思う。


『ねえねえ、この曲はじいじがつくったの?』


『半分はじいじが作って、半分はひいじいじが作ったんだ。この曲はひいじいじとじいじの曲なんだよ』


 祖父は誇らしそうに話してくれた。誇らしげな口調の一方で、あのときの琥志朗の表情は今にも泣き出しそうだった。幼い亥太朗には状況がよくわからず、泣かないで、と琥志朗を慰めた。寂しい旋律だったこともあり、幼い亥太朗には琥志朗が悲しく思っているのかと感じた。

 成長し、琥珀や琥志朗の功績を知ってからは印象が変わった。悲しさだけではなかっただろう。やるせなさや達成感、愛しさ、憂いなど、複雑な感情が絡み合った表情だったのではないかと思った。記念館で働くようになり、琥珀の苦悩、琥志朗の熱意、親子の関係などを知った。より一層、祖父の心中が言い表すことができない感情を抱えていたのだろうと思った。

 少年が歌う琥志朗の旋律に乗った琥珀の詩。懐かしいことを思い起こさせる。


「春告げ鳥の初音呼べ」


 少年が歌い終わると亥太朗は心の中で拍手を贈る。子供特有の高い声音と不釣り合いかと思われたが、不思議と心地よかった。


「歌も上手ですね」


「へへへ。ピアノがあるともっと綺麗」


「ピアノの伴奏も素敵ですよね」


 ピアノの伴奏があると、一層よさが際立つ。亥太朗もそう思う。琥珀と琥志朗の親子が作った曲は詩も旋律も欠けてはならないものだ。

 少年は満面の笑みを浮かべると、新しく詩を口ずさむ。


「空をこぐ、小さなお舟。おされ、ながされ、天高く」


 亥太朗は少年の口から発せられる詩に目を瞠る。その詩はゲンのノートに書かれていた詩だ。


「水なき川をうめつくす、小さなお舟のおとどけびん。遠く、遠くへとどけたい。窓から見てて、お舟のむれ」


「!?」


 驚く亥太朗をよそに少年は詩を続ける。

 新たに見つかったゲンのノートに記されていた詩。展示した際は全文を見せていない。全文を知る者は限られている。

 その詩を少年は口にする。すらすらと読み上げる少年に亥太朗の背筋が凍る。

 なぜ、知っているのか。震えた亥太朗の手は少年にぎゅっと握られる。


「館長さん、大丈夫?」


 少年は詩の読み上げを中断して亥太朗に尋ねる。


「……」


 無垢な目で問いかける少年に亥太朗は足を止める。これは突き止めなければならないのではないか、訊いてもいいのか、と迷いはあるが、震える喉元に力を込める。


「……あなたは何者ですか?」


 ありえるはずがない。しかし、これなら辻褄が合うのではないか。

 あるひとつの考えが亥太朗の脳裏に浮かんでいる。昨日、駿輔には否定した話で、亥太朗としても信じていない話だ。

 だが、この浮かんだ可能性を完全に否定できるほどの材料がない。本来、少年が知り得るはずのないことを知っているのだから、むしろ、こうであってくれという亥太朗の願望もある。


「……」


 少年はただ笑うだけだ。その笑顔は悪戯が見抜かれ、それでもとぼけようとしているように見える。


「もうちょっとでお墓だよ」


 ほら、と少年は指をさす。少年の言うとおろ、琥珀と祥が眠る地は目と鼻の先だ。

 少年に視線を誘導された亥太朗は手元を引かれて我に返る。少年は別の詩を口ずさみ始めていた。


◇◇◇◇◇


 少年は墓前に着くと亥太朗から手を離す。一歩、二歩、と踏みしめる足は先ほどまでの軽やかな物とは違う。神聖な場所へ踏み入れるように慎重だ。亥太朗は少年の隣に控え、墓を見る。いつもと変わらない、琥珀と祥の名前が刻まれ、花が生けられている。少年の言う忘れ物と思われる物は何もない。


「……」


 少年はじっと墓石を見つめる。子供とは思えないぐらいの覇気のある横顔は無邪気に詩を諳んじていた姿と全く違う。神経を研ぎ澄まし、音という音を耳で捉えようとしているようだ。

 しばらく墓石を見つめていた少年はペコリと頭を下げると、鞄を開ける。壊れ物を扱うように取り出した物は紙で包まれた細長い物だ。少年はさらに慎重に包を開ける。

 包の中身は向日葵。小さな向日葵を二輪、琥珀と祥の墓前に供える。


「……昨日、忘れちゃってごめん」


 少年はしゃがんで手を合わせる。目を閉じ、祈るようなその姿に亥太朗は声をかけられない。

 少年は何度か深く呼吸をすると、手を下ろし、目を開ける。


「おじさん、おばさん。オレ、約束守れたかな?」


 語り掛ける少年の声は大人びていて、優しい。先ほどまでと口ぶりが変わった少年に亥太朗は目を瞠る。そして、少年の正体に確信を持つ。


「タカやコタ、コジも残してくれた。たくさんの人がおじさんの詩を守り、残し、見てくれた。だけど、それだけではまだ足りなかったみたい」


 少年は鞄の紐に触れる。


「おばさんやタカはオレが持っていていいと言ってくれたけど、やっぱり、おじさんとの約束を守るなら、オレは手放さないといけなかったよ」


 少年の手は鞄の紐をぎゅっと握る。


「ずっとオレが持っているわけにはいかなかった。おじさんとの思い出、おじさんと作った詩、きちんと守り、残してくれる人たちに渡すのが一番いいんだ。オレでは朽ちさせてしまう。ねえ、そうでしょう?」


 少年は一歩後ろにいる亥太朗を見上げる。


「正直さ、寄贈した資料、結構傷みが激しかったでしょ?」


「……どの資料も手を加えることは必要ですから。これから長く、残すためにも」


「優しくて遠回りな言い方をするね」


 少年の物言いは金髪の青年と重なる。やはりそうなのか、彼の正体も、と亥太朗は目を伏せる。


「これ以上、オレが持っているわけにはいかなかった。なら、ちゃんと管理してくれる人に頼んだ方が間違いないわけだ」


 少年は目を細めると眠る二人に向き直る。


「オレとしても、おじさんとの思い出の品を傍に置いておきたかった。形ある物でなくとも、おじさんとの思い出がなくなるわけじゃない。でも、やっぱり形がある方が振り返りやすくて、懐かしく思うんだ」


 おじさんとの思い出は覚えている。今も目を閉じればあの日々の光景が浮かぶ。自分を呼ぶ声も聞こえる。

 おじさんと一緒にいた確かな証。それは物だ。もう会うことができない彼がいたという証はかけがえのない宝物。

 少年は鞄の紐を握る手に力をさらにこめる。胸が苦しいが、決めたことだ。


「だけど、ずっと持っているわけにはいかなかった。おじさんとの約束を破ることになるから。……踏ん切りがついたんだ」


 少年は空を見上げる。雲ひとつない青空が少年の綺麗な目に映る。


「おじさん、おばさん。オレ、貴い方のところにお勤めに出ることになったんだ。だから、遠くへ行く。荷物をいっぱい持っていけないから、おじさんたちがくれた物、全部は持っていけない。置いていくこともできたけど、朽ち果てさせてしまう可能性があるなら、できなかった」


 少年はこみ上げてきた熱いものをぐっと堪え、押し込む。


「手放すのは本当に寂しいけれど、忘れるわけじゃない。おじさんとおばさんと過ごした日々はきちんと覚えているから。それにね、お勤めに出るのはおじさんとの約束を、オレの夢を叶えるためでもある。……今までみたいにしょっちゅうは来れなくなるけど、必ず、花を手向けには来るから」


 少年はゆっくりと目を閉じる。


「あってもなくてもいいと言われても、キミが生きた証を残したい。……この夢を叶えられるように、お勤め頑張るから」


 少年は深く息を吸い、ゆっくりと目を見開く。つり目は降り注ぐ太陽の光を眩しそうに見つめる。


「応援してほしい」


 少年の言葉に応じるように風が鳴る。優しいその音は天から降ってきたようだ。

 少年は姿勢を正し、鞄を掛け直す。そして、立ち上がると祥の墓と向き直る。


「祥おばさん、この鞄は持って行くよ。この鞄は相棒だから。ありがとう」


 少年は祥の墓に深々と頭を下げる。次いで、琥珀の墓に向き直ると、墓に手を伸ばす。そして、墓石に刻まれた琥珀の名前を確かめるように指でなぞる。


「琥珀おじさん、あなたはオレにたくさんくれた。おじさんと過ごした詩の時間は楽しかった。ありがとう」


 少年はすんと鼻をすすり、名残惜しそうに墓石から手を離す。


「また、来年会いに来る。その次の年も、その次の年も」


 少年は目元を拭うと、ふう、と一息ついて亥太朗の方を振り向く。


「……ありがとう、館長さん」


 へへへ、と少年は無邪気に笑うと亥太朗を見上げる。


「つき合ってくれてありがとう」


「……私は何も」


「そんなことないよ。……そんな、泣きそうな顔しないでよ」


 亥太朗の眼鏡の奥の目は潤んでいる。少年は眉を下げて苦笑する。


「すみません」


「そういうところもコタに似ているんだから」


 少年は肩をすくめる。気弱な売れっ子作家も涙もろいところがあった。そこが彼の美徳とも言えるし、舐められる要因だと少年は思う。

 そんな彼はなすべきことをなした。人前に立つのは苦手だろうに、同業者の前に立ち、率いた。彼が尊敬した人物を守るため、そして、二度と同じことを起こさないために、虎の名を冠するに相応しい立ち居振る舞いをした。

 彼の血も引く若い館長。亥の字を冠する名を持つ彼もまた、曽祖父たちのように弱さを糧にして進んでいけるだろうと思う。

 負けていられないと少年は思う。


「オレにはまだやることがあるから。本当はオレがちゃんとできればいいんだけど、そうもいかなくなった。その責任をあなたたちに押しつけてしまった」


「押しつけられたなど思っていません。今まで、守ってくださりありがとうございました」


 亥太朗は深々と頭を下げる。少年は自分の視線近くまで下げられた頭を撫でる。


「あまり追い詰めすぎないで。館長さんはおじさんの血縁だからか、自分の苦しいを自分でさらに苦しくするんだから」


 気弱な小説家と顔立ちはそっくりだが、苦悩の表情は少年がよく知る「おじさん」そっくりだ。

 ほら、と少年は亥太朗の肩を掴み、身体を起こさせる。亥太朗はされるがまま、上半身を起こす。


「本当、おじさんの悪い血が曾孫にまで流れているなんてね。でも、苦難と向き合ってにらめっこできるいい血でもある。大丈夫だよ」


「……大丈夫」


「うん、大丈夫。稲荷様はちゃんと見ておられるから。オレも頑張った証は認められるべきだと思うから。それが叶うように、お勤め頑張る」


 そうだ、と少年は鞄から何かを取り出すと亥太朗の手を取り、それを置く。


「お礼。稲荷様のご加護がありますように」


 少年は包み込むように亥太朗の手を握る。


「ふふふ」


 少年は亥太朗の手を優しく撫でる。自分よりも大きな亥太朗の手はよく知る手だと思う。


「何か?」


「おじさんと同じ手をしてると思ってた。ペンを強く握る人の手」


 亥太朗と手を繋いだとき、懐かしく思った。亥太朗の手は彼の手よりも若い手だが、肉付きが似ているように思う。こうして見ると、指の感じは同じ部類だと少年は思う。

 ぽつりと少年の鼻先を濡らす。少年は晴れ渡った空を見上げ、ひとつ頷く。


「もう行かなくちゃ」


 少年は名残惜しそうに亥太朗から手を離す。


「お守り、大事にしてくれると嬉しい。……本当にありがとう」


 少年は一歩、二歩下がり、再度墓と向き直る。物言わぬ二人に微笑みかけ、深く頭を下げる。


「琥珀おじさん、祥おばさん。行ってきます。また会いに来るから。オレの活躍話、聞いてね」


 少年の言葉に言葉は返ってこない。が、墓前に供えられた向日葵が風もないのに二輪とも揺れる。

 よし、と少年は顔を上げると鞄を掛け直す。使い込んだ鞄には真新しい狐の友達がついている。

 自分だけではない。少年は表情を引き締めると墓の方へ一歩踏み出す。

 瞬間、ぽつり、ぽつり、と空から雫が降る。


「あ」


 亥太朗は空を見上げる。雲一つない、晴れ渡った空。降り注ぐのは金にも銀にも見える雨だ。


「キュウ」


 ほんの一瞬だった。亥太朗が目を逸らした隙に少年の姿は消えていた。代わりに、琥珀と祥の墓の間に子狐が一匹、亥太朗を見上げていた。子狐はペコリと頭を下げると、祥の墓、琥珀の墓の順に身体を摺り寄せる。


「キューン」


 高らかに鳴くと、子狐は天へと駆けて行く。琥珀色の身体はするすると上ると、また一声鳴く。そして、身を翻すと稲荷神社の方へ走り去っていく。


「……」


 琥珀の命日には不思議なことが起こる。

 晴れた空から雨が降る。金にも銀にも見える不思議な雨は琥珀の命日に必ずと言っていいほど降る。この雨のことを「子狐の雨」と呼んでいる。

 子狐の雨以外にももうひとつ、琥珀の命日には不思議なことが起きる。

 琥珀と祥の墓参りの一番手の存在。琥珀の命日である子狐忌は記念館としても特別な日であるため、関係者や多くの人々が訪れる。非常に大切な日であるため、亥太朗に限らず、琥珀の縁者や記念館の職員で準備をする。命日の当日、早い時間から準備をするのだが、その段階で必ず向日葵が供えられている。

 いつ、誰が供えているのか。目撃者はいない。墓が荒らされていることもないため、無理に突き止める必要もないとされた。また、死者をひっそりと弔う姿をカメラなどで捉えようとするのも無粋とし、記念館や高岳家は深入りしないことにし、内々に留めている話でもある。

 確証はないが、誰なのかは薄々思い当たっていた。それは琥珀が可愛がった少年ではないかという話だ。実際、琥珀の死後、少年が向日葵を供えていた事実や虎太郎や琥志朗の日記に示唆するような記述があった。

 亥太朗は供えられた向日葵を見つめる。小さくて、可愛らしい向日葵。九月に入ってしまった今となっては咲いているはずのない花だ。生花の向日葵は雨に打たれるも、花弁は濡れていない。

 子狐忌の朝に見る光景だ。


「……あなただったのですね。いつも、向日葵を届けてくださったのは」


 頷く狐もいなければ、青い煙が上がることもない。亥太朗と少年を可愛がった二人が眠っている静かな空間だ。

 亥太朗は少年から渡された物を見ようと手を広げる。掌にころんと転がる甘い蜜の塊を見ると、表情を綻ばせる。


「こちらこそ、ありがとうございました。また機会があれば、記念館に遊びに来てくださいね」


 少年から贈られたのは琥珀の欠片だった。植物の葉のような影や気泡、傷を持っている琥珀の欠片は神様がくださった物だったか。


「どうか、お元気で」


 亥太朗は稲荷神社の方を向き、頭を下げる。どこか遠くで、キュウ、と狐が鳴いたような、風が鳴いたような音がした気がした。

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琥珀おじさんとゲンの詩の時間 真鶴 黎 @manazuru_rei

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