第2話 キリギリスは飛んでいけるのに

始発の車内は、思っていた以上に明るかった。隣の席では、作業着姿の男が缶コーヒーを片手にスマホを見つめている。その向かいには、高校生らしき若者がうつむいたまま眠っていた。誰も、俺の存在なんか気にしていない。


 吉祥寺を過ぎたあたりで、ようやく夜が明けてきた。窓の外に広がる空は曇天で、太陽の姿は見えなかった。まるで、「今日も特別なことは何も起きない」とでも言われているようだった。


 降りたのは高尾。都心から電車で1時間ちょっとの、山と住宅の境目のような町。どこか遠くへ行きたいと思ったはずなのに、俺の足はなぜかこの程度の距離で止まっていた。


 改札を出て、コンビニで温かいパンとコーヒーを買った。ベンチに座り、ノートを取り出す。ページをめくると、あの一行が目に入る。


俺は、キリギリスが嫌いだ。


 ペンを手にしたものの、続きは書けなかった。何を書いたらいいのかわからなかった。感情が濁りすぎていて、言葉が形にならなかった。


 駅前のバス停のそばで、通学中の子どもたちが笑っていた。遠くから聞こえるその声が、まるで自分のいる場所と無関係な世界の音のように感じた。


 誰にも必要とされていない自分。そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。歩き出さなければ、何も変わらない。そう言い聞かせて、足を動かす。だけど、どこへ向かっているのかはわからない。ただ、地図もスマホも開かずに歩いていた。


 町外れの小さな坂道に差しかかったとき、ふと草むらでガサリと音がした。目をやると、小さなキリギリスが飛び跳ねた。あいつは、どこに向かっているんだろうか。俺よりもよっぽど目的がありそうに見える。


気付かない振りをしながら、なるべく大股で足を浮かさないようにして歩いた。


負けてなるものか。虫になど。

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私の嫌いなキリギリス @dialbird

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