drive to the moon

木曜天文サークル

drive to the moon


「レマ、起きて。出発の時間だよ。」

 アリスの声で目を覚ました。一瞬ここが幼年組の二段ベッドの上であるかのように錯覚する。目がまだ慣れていなくて、部屋一面が夜の水槽の中みたいに青色に見えた。ゆっくりと体を起こすと、部屋の真ん中に手紙が落ちているのが見えて、あれ、どうして手紙が、と思ったけれど、よく見れば月の光が窓から差し込んで、床が小さな四角形に照らされているだけだった。

 アリスは梯子の中途半端な段に乗って、豊かな金髪を揺らし、幼い頃と変わらない透き通った黄金色の目で真っ直ぐこちらを見ている。昔、よくアリスにこうやって夜起こされていたのを思い出した。

「うん、そうだね、行こうか。」

 そう言うとアリスは、にっと笑った。

 そうだ、私たちはこれから月へ行くんだ。


「見て。月が近いよ。」

 たくさんの荷物を車に積み込んだ私たちは、それぞれの座席に座っている。白銀の巨体はフロントガラス越しに、私たちを静かに、確かに見下ろしていた。全てを、見透かされているような気分になる。早くここから出なければいけない。

「出よう。アリス、キーを貸して。」

 シートベルトを締め、サイドブレーキとギアのニュートラルを確かめた。ひとつ、呼吸をおいてキーを回す。小気味のいいリズムを立ててエンジンの回転が始まった。私も、アリスもきっと緊張している。もしエンジン音でシスターの誰かに気づかれたら私たちはここでおしまいだ。夜に外へ出るのは厳しく禁じられているし、ましてや施設長の大事な車を勝手に使うだなんて、ばれたらどんな罰が待っているか分からない。

 ホームの裏は大通りだし、夜中でも車がよく通るからきっと大丈夫。作戦を立てた時に、アリスはそう言っていた。

 エンジンが温まるのを待つ。私たちは誰からも気付かれずにここから出なければならない。


 埃を被った幌を外し、古い素敵な赤色の車体が現れた時はまだわくわくしていた。悪戯に心躍らせる幼年生みたいに。出発までの間、私は車の操作の仕方を何度もシミュレーションし、アリスは、早く出発しなければならないと言っているのに、食糧だのMDだの、果てはお気に入りの大きなくじらのぬいぐるみまで積み込んで、そのせいでトランクは既に一杯だった。

「レマは荷物が少ないね。」

 私の荷物。ホームで年少組に上がった時に与えられた木箱、三冊の本、三日分の服。それだけを後部座席に放り込んだ。他はもう、必要ない。

「いいの。これからは必要なものがあればその時買えばいい。月に行ったら私はそういう生活をする。」

 エンジンが温まり、私はできるだけ静かに車を出した。


 アリスが食糧庫から頂戴してきたクラッカーをつまみながら、アルファ16号線をひたすら走り続けている。ホームからこんなに遠くに来たのは初めてだ。全てが順調に進んでいて、それがこわかった。

 アリスは大きなくじらのぬいぐるみを後部座席から引っ張り出してきて、抱きしめて顔を埋めている。何年か前に見た時より綿がへたってきたようで、アリスの頭がほとんど埋まってしまっている。

 車内には、宙に浮かんでいるかのような、ゆらゆら漂っているような、そういうふわふわした音が流れていた。小節の区切りを越えて、ギターの音が変わる。曇り空の夏、海に面した崖の上で風を浴びている。そんな音楽だった。

「すてき。なんて曲?」

 アリスは顔を上げてケースを手に取った。

「古い文字だから読み方はわからないな。遠い国の昔の曲。でも意味は知ってるよ。多分、『笛の音が聞こえる?』って書いてある。」

 遠くへ、私たちはずっと遠くへ向かっている。あとどれくらい走ったら笛の音が聞こえてくるだろうか。


 アルファ16号線から、脇道に外れる。鋭いカーブをいくつも通り、舗装された道路から砂利道になって、背の高い草や木の枝がバチバチと車に当たる。轍を見失わないように運転席で背を伸ばした。本当にこの道で合っているのか、引き返そうか不安になり始めた時、私たちは錆びたゲートに辿り着いた。車から降りたアリスに開けてもらう。鍵は付いていなかったようで、金属の不快な音を響かせながら重そうなゲートは開いた。アリスを乗せて再び走り出す。


 とうとう最後の坂を越えて右に曲がると、現れたのはどこまでも続く大きな大きな廃道路だった。所々路面が割れて、見たことがないくらい広い車線がずらりと並んでいた。汚れた黄色い標識が曲がっている。果てに目を凝らすと、道路は細い線となって月まで伸びていた。

 これが、月へと続く航空廃道路。私たち以外誰もいない、静かな高速道路。この先に私たちが目指す場所がある。

 アクセルを踏み込む。胸の高鳴りを抑えるように、早めのシフトチェンジでゆっくりと加速していく。一速、二速……操作も大分慣れた。三千回転。五速。速度を上げすぎてもガソリンを余計に消費する。分かっていても自然とエンジンの回転数が上がる。風切り音が強くなる。果てしなく真っ直ぐな道路の先で、眩しいくらいの満月が私たちを見ていた。


 私たちが生まれるよりもずっと昔、月と私たちの街を繋ぐ航空道路があった。開通した当初はたくさんの人たちが月へと渡って行ったそうだけれど、それから何十年も経って、ロケットでの移動が主流となり、やがて維持が大変な道路は閉鎖されてしまった。月の表側は景観のために保護され、裏側が主に都市開発されたそうだ。道路が造られ、ビルが建てられ、たくさんの人がいるらしい、私たちの町から唯一車で行ける独立大都市。都会ならたくさん仕事があるはずだし、働いてお金をもらって部屋を借りて、私たちはきっと生きていける。仕事もない、ロケットも飛ばないあの町で一生を終えるんじゃない。私たちは月で未来を手に入れるんだ。


 携行してきた燃料缶から二回目の給油を終えてしばらく走ったあと、遠く右手に閉業したガソリンスタンドのような施設を見つけた。

「レマ、そろそろ休憩を取ったら?」

「そうだね。そうしよう。」

 いちばん右の車線に移って、速度を落とし、ガソリンスタンドの屋根の下に入った。そろそろ仮眠を取った方がいいかもしれない。


「お疲れ様。少し眠る?」

「そうするよ。アリスも休むといい。」

 シートを倒して伸びをする。月は屋根に遮られて見えなかった。アリスが音楽を止めた。目を瞑る。嘘みたいな静寂に包まれて、私はガソリンの残量と月までの距離を考えていた。疲れているのに、期待と不安で上手く眠れなかった。

 しばらく経ってアリスが口を開いた。

「レマ、起きてる?」

「起きてるよ。」

 目を瞑ったまま答えた。

「レマってなんで運転できるの?」

「やり方を教わったことがあるんだ。今度教えてあげるよ。」

「ふふ、自転車の乗り方は私が教えたのにね。」

 アリスが座席の上で体勢を変える音がする。

「ねえ、私が上手く喋れなくなっていたとき、二人で自転車に乗って町外れの丘に行ったことがあったよね。」

「覚えてるよ。帰ってからすごく怒られたね。」

 二人で小さく笑った。

 微睡みの中、夕暮れの丘の上でアリスと手を繋いで寝転んだ。ぼんやりとした淡い月を、二人でずっと見ていた。

「遠くに、一緒に来てくれてありがとう。」

 何か返事を言う前に、私は眠ってしまった。


 それからどのくらい経っただろうか。おそらく一時間か二時間ほどだったと思う。突然、コンコン、と窓をノックされた。私はハッと目を覚まし、アリスは抱えていたクジラのぬいぐるみの口に手を突っ込んで、カチ、と小さな音を立てた。

「前に出ないでね。」

 アリスは外を確認し、左手で恐るおそる窓のハンドルを回す。

「こんばんは。お嬢さんたち。」

 おじいさんは三人分の椅子を持ってきて、コーヒーを淹れてくれた。話によれば、街から街への移動にこの航空廃道路を使うトラックがいるらしい。たまにタンクローリーが通った時に燃料を分けてもらい、ひっそりとこのガソリンスタンドを営業しているのだと話してくれた。

 向こうには転がったドラム缶や、古いけれどよく手入れされた小さなバイクがあって、みんな冷たくも暖かくもない月光に照らされている。手元には素敵な香りのコーヒー。

「ありがとうございました。」

「ああ、行ってらっしゃい。傷んでる路面に気を付けて。」

 ガソリンを補給させてもらい、再び廃道路を走り出す。お代は、と聞くと月生まれの植物を育てているから今度砂を持ってきてくれればいい、とそれだけ言って送り出してくれた。言葉の端に少しだけ懐かしさが滲んでみえた。

 きっと、あのおじいさんは月に住んでいたことがあるんだ。さっきの曲が車内で流れていた。


 三日三晩、私たちは航空廃道路を走り続けた。

「ねえ、アリス。これからどんな仕事を探そうか。月に着いたら何がしたい?」

「まず車を売って部屋を借りようよ!私、スカイレールに乗って通勤したい。毎日空から街を眺めるの。」

 もう航空道路は真っ黒な宇宙の中だった。目の前に迫った月の裏側へ向かって、緩いカーブが細く長く続いている。振り向くと青々とした地球。車内には白銀の月光が窓から差し込んで、アリスの柔らかい髪がきらきらと透けていた。


 数時間後、車は緩いカーブを描きながら、滑るように巨大な月面の街の上空を走っていた。薄暗い明け方の街、高いビルの影。明かりはひとつも見当たらない。

 だんだん道路の高度が下がってきて、私たちは気づく。互いに何も口に出せなかった。

 私は航空道路の出口の方へ緩くハンドルを切った。


 車を置いて、私たちは瓦礫に気を付けながら暗い道を歩いた。そびえ立つ白い塔、夜明けを反射するビルディング、けれどよく見れば、それらは至る所が割れたり崩れたりしていた。

 この街を、そして理由を知りたかった。私たちはしばらく歩き回った。駅の入口の看板を見つけたけれど、上空にある駅へ繋がるエレベーターは動かなかった。二人で隣の長い非常階段を登る。一歩、また一歩、次の段に足を乗せる。薄い空気を吸い込むたび、肺が冷たさと疲労で痛んだ。吐き出す白い息を見つめながら確実に段を踏む。

 とうとう登りきって、駅のホームに出た。開放的な作りで、天井に掲示板がいくつも吊り下げられている。いちばん向こうのホームの終わり際には車両の最後尾が見えた。

「見て、あれって……。」

「スカイレールだ。」

 車両に向かって、ホームの上を歩いた。上空の風が容赦なく吹き付けてくる。十分に広さがあるので落ちてしまう心配は無いけれど、端には頼りない柵があるだけで、ビルよりも高いこの場所から下を覗き込む気にはなれなかった。

 最後尾の車両の扉は重かった。それでも何とか開いて、もう動くことはないであろうスカイレールに乗り込んだ。扉をいくつもくぐり、いちばん先頭まで辿り着いて、二人とも電池が切れたようにシートの真ん中に座った。


 私たちはそれから、明けていく月の街をずっと眺めていた。

「昔はたくさんの人が暮らしてたんだろうね……。」

 空から見渡せば、ここがどんなに大都会だったのかが分かった。けれど、ここには命の気配がひとつもない。車窓の向こう、建物ばかりがひしめき合うがらんどうのこの街に、私たちが思い描いていた未来は無かった。

「ここって夜が半月あるんだって。どんな生活だったのかな。」

 アリスは窓の向こうを見つめたままそう言った。

なんて大きくて不思議な街。この車両だって毎日何千人もの人々を運んだに違いない。仕事に行く人、学校に向かう人。家族や、友達。かつて月の街に住んでいた人たちが、待ち望んだ朝。私たちは同じ景色を見ている。

「レマ、見て。……すごく綺麗。」

 月の街の夜が明けた。




 目の前のぼんやり光る街灯や建物の屋根を避けながら、アリスがオールを漕ぐ。ホームのすぐ近くの海、私たちは夜のピクニックに出た。ゆっくりとボートは進んでいく。年少組の頃、ちょうど真下にある公園でアリスとよく宇宙船ごっこをしたのを思い出す。沈んでいく私たちの町。ホームだってあと十数年もすれば海に飲み込まれてだろう。

「アリス、この辺にしよう。」

「そうね。はやくサンドイッチが食べたい。」

 そこら中で柔らかな光を放つ街灯に照らされて、私たちは海の上のピクニックを楽しんだ。


 町を捨てて、育ったホームを捨てて、月を目指した私たち。結局私たちが月で得たものは、おじいさんに渡すための月の砂だけだった。今までの仕事もだめになったし、シスターからのお咎めもこれからだ。もしかしたらホームから追い出されるかもしれない。けれど、完全に放棄され、窓ガラスの割れたビルや、崩れ落ちた高速道路ばかりの月の街は、それでも美しかった。後悔はひとつもない。


 美味しいサンドイッチに葡萄のジュース。空には瞬く星々。

「ねえ、アリス。これからどんな仕事を探そうか。」

「レマと一緒ならなんだってできるわ。だって私たち、月まで行ったんだもの。」

「そうだね、きっと、私たちは大丈夫。」

 私たちはきっと生きていける。水平線近くで光る月は、前より少しだけ小さく見えた。

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