第3話 罪人の劇場
「おはよう」
蒼波が声をかけても、少女は身を起こす以外の行動をしなかった。
「体調は?」
「至極普通」
少女は手枷を嵌められた手を見下ろした。
「早く終わらせよう」
蒼波は静かに訊いた。
「名前は?」
「
即答に蒼波は溜め息を吐く。
「〈鴉〉の王の名は」
「〈
「オーディン? どんな男だ?」
深錦が問うのに、蒼波は溜め息と共に答えた。
「北欧神話の神だ。
「……つまりちゃんと答えてないと?」
「その可能性は高いな。北欧神話の神と名が同じだから彼女に
彼女は薄く微笑んだまま肯定も否定もしない。どうせ答えないのだろう。
「どこの出身だ?」
軽い雑談のつもりだった。
「さあ」
「……?」
「覚えてないんだ。自分の過去の全てを」
「全く?」
「ああ、全く」
不思議だよね、と彼女は平坦に言う。
「蒼穹は?」
「一言、『絶望』と言って口を閉ざした。『真っ暗で、絶望が強すぎて他が窺えない』と」
「……他に、何か言いたい事は?」
「——〈鴉〉は無駄な殺しはしない」
無駄な事を言っているのは知っているだろう。それでも言うのには意味があるのか。少女はごろりと横になった。
「君らが〈鴉〉の犯行だと思っている事件の大半がうちじゃない」
それだけ、と言って彼女はくるりと背を向けた。
「私が能動的に殺すのは、たった一人だけ」
これ以上は押しても引いても話にならず、二人は退却した。
「お休み、
「……」
「
蒼波は牢に鍵をかけながら言った。
彼女は寝台に座って、壁に頭を凭らせている。眠たそうな声が言った。
「……ゆーしゅーな尋問官、という訳ではなさそうだ」
「あはは、そうだねぇ」
のんびりと笑った青年は、〈狼〉の王。
「随分偉い人が出てきたね。狼王ロボ——と言いたいところだけど、シヴァ、だったか。ヒンドゥー教の三大神……破壊と創造の神の名を冠する者が、どうしてここに?」
「知ってるでしょー?」
どっかりと椅子に座って、シヴァは微笑んだ。
「君が何も言わないからさ。こちらとしても困るんだよね、
「……」
「……まるで羽衣を盗られた天女か、羽を切り落とされた天使のようだね。君の噂は忽ち広まったよ。十五の美少女だって。あ、勿論関係者の中で」
興味なさげに冷酷な瞳が瞬く。
「……洒落たことを言ったつもり?」
「いいや。手厳しいね」
「……」
「まず、君は強いから、拘束を増やさせてもらうよ」
蒼波は壁に長く細く続く鎖を付け、その端を持って立ち上がった。
深錦が
「……」
彼女の細い首に、枷を近づけると、唐突に彼女は抵抗した。
冷たく鮮烈な殺気を放ち、身を捩って深錦の手から逃げる。しかし、手慣れている蒼波は逃げようとする隙に枷を嵌めた。
普通はこれで大人しくなる。そのはずだった。
「な、」
しかし、罠に掛かった鹿のように彼女は見境なく暴れた。
蒼波と深錦、二人掛かりでも抑えられない。彼女は枷のかかった場所に痣を作り、目一杯鎖を引いた。
「落ち着きなさい。見苦しいよ」
次に少女の取った行動は、蒼波たちの度肝を抜いた。
舌を噛もうとしたのだ。
蒼波が手を出したおかげで自殺は成功しなかったし、
「何故……」
「……」
「君の逆鱗に触れたなら謝ろう。枷を外すから、おいで」
「……」
「言ってくれないと分からないな。外して欲しいならおいで」
「……用があったんじゃないの」
「あるけど。君が落ち着いてからじゃないとね」
「……。この枷、要るの?」
「うちは、両手と首を拘束するが大原則で、出来れば脚も拘束するのが推奨という名の規則になってるから。君の場合、本当にあの〈
「なら許す。けど次はない」
「ごめんね。次から確認を取るよ」
シヴァは申し訳なさそうに言う。
「で?」
「どうしてそんなに嫌なの?」
「黙れ」
「……。分かった、少し面白い話をしよう。そうだな、蒼穹君はどうしてる?」
「……元気に楽器を弾いて人を揶揄って、遊び暮らしてるよ、あの唐変木は」
「今は違うみたいだねぇ」
「……ふーん?」
少女の目がきらりと輝いた。
「今、彼がどうしているのか知りたい?」
「君たちの捕虜」
蒼波はさっと顔を上げ、そして、王が言葉を放つ前に顔を伏せた。
「正解だよ。さて、仲間の命は惜しくないかね? 彼の持つ情報も」
「嘘だね」
少女は愉しげに笑みを浮かべながら身を起こした。蒼波と深錦はそっと目を交わす。初めて
「彼の弟の態度で分かる」
引き合いに出されて蒼波は身じろぎした。
「だって、彼には教えてないもん。お兄さんに殴り掛かったらたまらないから」
深錦の居る方向から「く、」と言う音がした。横目で睨むと、シヴァがまあまあ、と言うように苦笑していた。
「勿論、彼の相棒にもね。共謀するかもしれないし、彼女は彼女で『裏切り者は即刻め』派だからね」
蒼波が確かに、と思って頷くと、怨嗟を込めた視線が肌を焼いた。
「そうだとしても、彼は捕まらない」
「何故?」
「確信があるから」
「何故、その確信ができるのかな?」
「推理したらどう?」
決して馴れ合いではない笑みを浮かべ、二人は滑らかに話題を変えた。
「
「……たしか十四」
「どんな子?」
「普通」
「普通って?」
「どう思う?」
「うーん、学校に通ってるとか?」
「外れ」
「常識人?」
彼女は苦笑する。
「ある意味とっても非常識だよ、あの子は」
「えー、なんだろー?」
少女は微笑している。その表情を見て、シヴァははたと手を打った。
「人殺しをしたことがない」
「正解。ついでに盗みなどもしたことがない」
二人のどちらも、口角は上げているが、目は鋭く相手を見据え、失言や隠された背景を探り合っている。二人とも全く油断ならない。
「〈鴉〉なのに?」
「
「そりゃ凄い。けど……不法侵入、
くすくすと
「君、未成年だけど、どうやって暮らしてるの?」
「株とか?」
「その株の名前は〈鴉〉だったりする?」
「さあ?」
「どこに住んでるの?」
「個人情報保護法」
「そうだね。偉いなー、勉強してるんだね」
そりゃどうも、と非感動的に答えて、
「それにしても、人手不足?貴方達三人と、後二人。それから看守ぐらいしか見かけてないけど」
「報復に殺されたらたまらないからね」
「殺さないよ」
二人ともの目が鋭く光って、互いをしっかりと見た。
「〈鴉〉は無益な人殺しはしない」
「有益だったらするのかな?」
「まあね。私たちの狙いは金じゃないけど」
「へえ?」
彼女は足を組み替える。
「全部教えたら詰まらない。〈鴉〉の犯罪歴を洗い直しながら答えを考えてよ」
「僕たちを潰すことじゃないの?」
「だったらもうしてる」
「自信満々だね」
彼女の笑みが薄ら寒い。
「組織なら頭と、それに準じるものを殺すか破滅させればいい」
「破滅とは?」
「社会的な死。今はハイエナがいるだろう?」
「
「ああ。最近ならばマスメディア以外の媒体——、ミドルメディアやパーソナルメディアなどでも十分にマスコミュニケーションぐらいできるでしょう? ……全てのメディアを悪いと言うわけではないけど」
「舶来の言葉が多いねぇ」
のんびりとシヴァが言って、論争は一旦終幕した。
「何か要望でもある?」
「……小説が読みたい」
「へえ?」
意外そうにシヴァが首を傾げた。
「なんて小説?」
「殺人事件でも起きるの?」
「……幻想的な塔で起きる殺人。凄く良い」
「うーん、良いのかなぁ……重罪人に」
「これ、あくまで勾留でしょ?」
「目撃者が三十人に登るのに?」
「あ、そう言えば
今思い出したわけではないのだろう。さらっと
「うっ」
わざとらしく言って、シヴァがそれを取り出した。
「ま、二日経ってるからね」
「だろうね。……改めて見ると凄い量だな。
少しも驚いた様子もない
「まだ後十七日あるよん」
「検察官が担当しないといけないんじゃ?」
「動かすと危ないから検察官直々に来て貰ったよ」
「ああ、あの目つきの悪い看守か」
シヴァの表情は動かない。
「演技指導してないのに連れられてきてるのが丸わかりだった。彼が大根っぷりを披露する羽目になったのも殺されないように配慮した結果?」
「そうだとしたら、君は相当危険って事だね」
「魔法もあるしね」
「本当に小説が欲しいの?」
シヴァは席を立って牢の外に向かって歩き出す。
「……いや、〈鴉〉の本拠地に送りつけてくれないかな? って、知らないか」
無表情でシヴァは振り返った。
「……脱獄宣言かな?」
「あの子に読んでみてもらいたいんだ」
一瞬姉らしい表情を浮かべ、それを掻き消して、彼女は冷静な目でシヴァを見上げる。
「じゃあ、住所を教えてくれる?」
「やっぱり私に頂戴」
「用意しておくよ」
シヴァは踵を返した。蒼波と深錦は牢を出て主人を迎える。
「あ、」
シヴァは歩き出しながら軽やかに言った。
「お休みなさい、
「明日も来る?」
少し意外そうにしてから、手帳をぱらぱらと捲ってシヴァは言った。
「明々後日かなぁ。明日と明後日はどうしても抜けられないんだよね」
「そう。残念」
少女は布団の上に倒れ込んだ。
「じゃあね」
「おはよう、
「……ん」
返事と解釈する事にして、蒼波はいつも通りの問いを発した。
「
「名は名乗れない。あの人にくれてやったから」
初めてまともな答えが返ってきた。態度が軟化している。深錦が僅かに身を乗り出した。
「私は
「〈鴉〉の王……」
「貰った代わりの名しか名乗らない。それが
諦めたような、俯瞰して眺めているような、達観した微笑みがそこにはあった。望んで王の元に行ったはずなのに、その表情はなんだ?
「
「何かな?」
畏まった言い方をして、
「お前は、よく退屈そうな顔をするな?」
「……そうだね」
「退屈か?」
「私だって生きている。飽きるし疲れるし、眠たくなるし……死にたくなる」
「そう、か」
「……君、面白いな」
「そうか?」
微笑したまま、彼女は何も言わなかった。
少し、彼女が退屈であることを悲しく思ったのだ。こんな自由な生き方を選んだ人間ですら、満たされないのだ。——本人にとっては、自由などではないのかもしれないが。望んで選んだとしたら、なんと虚しい事だろうか。
ならば、
「何故生きているんだ?」
蒼穹でさえ窺えないほどの真っ暗な深淵のような過去。それは、絶望という言葉では安いほどの、もっともっと凄惨なものではないのだろうか。まるで、煉獄のような、地獄のような。
「さあ。……生きてる意味を問うなんて、陳腐じゃないかい?」
「日常に帰りたいか?」
「……あはは」
軽く乾いた笑い声を少女は立てる。その表情に一瞬、どす黒い闇が落ちた。
「日常を捨てた時点で、帰る道なんてないけど?」
真っ黒な瞳が、冷笑と同時に悲しみを、ほんの一瞬だけ映した。
「それとも〈鴉〉としての日常?」
「いや。勉学に励み、友と穏やかに過ごしたくはないのか、と」
「くだらない」
「そんな幻想。馬鹿馬鹿しい」
「……」
琥珀色の瞳が部屋の隅へ視線を向ける。
「……これ以上はよそう。互いのためにね。——おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
これが最後のおやすみ、だった。
夜勤明け、凄まじい警告音で蒼波は飛び起きた。
『監獄、八七九にて爆発。繰り返します、監獄……』
「
蒼波は駆け出した。深錦がいつの間にかそばに居た。
「
「ああ」
「何があったんだ⁉︎」
「分からない!」
牢を駆け抜け、目的の方へ近づく。
「
凄まじい炎に身を引いた二人の前で、天井の穴から少年が飛び降りてきた。それを軽々と彼女は受け止める。
「
「お見事。お疲れ様」
ぐりぐりと銀髪の少年は彼女に頭を押し付けた。
「元気そうだね」
「うん」
「ねえ、この六日間何してたの?」
「質問は後にして」
——手枷がない。
そう思った瞬間、蒼波は大きく身を引いた。短刀が煙を引き裂き輝いた。
何か居る。
蒼波は抜刀し、見えない相手に斬りつけた。
……躱された。おそらく殺し屋か何か。恐ろしく俊敏だ。恐らく小柄。
その隙に、空気が動いた。
一瞬煌めいた赤みがかった橙。成程、〈
「っ! 逃げた!」
深錦がそう叫んだ時には、暗殺者も、
「結界を張れ! 魔法使用禁止結界だ!」
深錦が無線機に向かって声高に叫んでいた。
「ねえねえ、
「……まあね。でもこんな場所には二度と連れて行かないからね」
「えー‼︎ どうして⁉︎」
「蒼穹は?」
「本部にて四人の見張りをつけて軟禁中です」
赤みの混ざった黒髪の小柄な人はそう答えると、赤っぽい橙の瞳を、嬉しそうに輝かせた。瞳と同じ色の羽飾りが左耳の下で跳ねる。
「
「まあね。でも、練習したら出来るよ。さっさと帰ろう、ヘル、
ヘル、と言うのはヘルハウンドの愛称だ。オーディンがヘル、と呼んだのを契機に
「うん!」
「はい!」
悲鳴と共に、血煙が一瞬だけ現れる。そこを駆け抜けて屋上を目指す。
「上から脱出する事を考えるなんて……!」
「どうかな。読まれてるかも」
「えっ⁉︎ 誰か来る?」
嬉しげに声を上げた
「かもね」
「お見送りしてくれるの誰かな⁉︎」
「お見送りで済むと良いけど」
眼を輝かせていた狼が、不意に立ち止まった。
「みんな下に集まって行ってる。読まれなかったかもね」
「いや」
「お見送りしてくれるみたいだ」
蒼波は屋上の扉を蹴破った。
「まだか」
いない。
建物の上か下か、それとも横か。どこから脱出する気か知らないが、屋上に先に着けたのは大きいだろう。多少遠回りでも、追手のない身の方が早い。蒼波は扉を閉めた。
『蒼波、無事着いたか?』
無線から音声が流れた。深錦だ。
「ああ。屋上にはまだ誰もいない」
『あいつ、ほんとどうやって逃げたんだろうな』
「手錠か?」
『ああ』
手枷がなかったあの時、少年が外してやったようには見えなかった。もし
『もっと早く逃げれたはずだよな』
「何故ここに留まったんだんだろうな」
『内部情報が欲しかったんですよ』
無線。
蒼波は硬直した。
くすくすと笑う声がする。
『今から行きます』
一体どうやって……この無線は深錦としか結んでいない。余程幸運でない限り、この周波数をこの短期間で把握するなんてことが出来るはずが……。
その時、結界が砕け散った。
「な……」
今から行く。
独りで逃げ切れるはずの
要らないはずの援助。それは——。
「六日間お世話になりました」
無造作な白い囚人服が、美しく風に靡く黒髪を引き立てている。
「
「これはお返ししますね」
投げられた機械は、無線機。
「深錦さんから
「お前、まさか」
必須ではない助け。
「仲間を待ったのは」
必須ではない要件。
少女は軽く驚いたように目を開き、興味深そうに目を細め、薄く微笑んだ。
「……内部情報の入手、仲間の教育、貴方達と話すこと……。完璧に達成出来ました。思わぬ収穫もありましたし。では」
屋上の縁に立っていた彼女が、ふわりとこちらに背を向けた。力強く黒い猛禽類の翼が羽撃く。白銀の狼と、それに騎乗した〈
「っ……」
蹈鞴を踏んだ蒼波を振り返って、
二人の間に結界が降りた。
「……では、少しだけさようなら」
「どう言う意味だ!」
「もうすぐ会う事になる。……私を理解しようなんて、貴方は馬鹿だね」
「……厭世的な奴を、取り戻したいんだ」
あいつの音色が、好きなだけだ。
「……楽しかったよ」
微笑。
「少しだけ。ほんの少しだけね。じゃあね、
少女は踵を返し、くるりと回って影から出した黒外套を羽織った。
体重を感じさせない動きで空中をくるりくるりと回転しながら飛び去っていく。頭巾を被っていないため、黒髪が空に泳ぐ。ふわりと仲間の元に辿り着くと、分厚い資料の束を持って、それを愉しげに振って見せた。
「くそ……」
恐らく内部情報の紙束だろう。何が盗まれた? 何を彼らは盗って行った?
軽やかに橙と白と黒の鴉が飛んで行く。
自由な空の元、気持ち良さげに微笑っていた彼女の、誇らしげで満足げな表情を思い出す。
(じゃあね、
「……最後だけ名を呼ぶのか。名乗らないくせに」
相棒が慌てて駆けてくる音がした。
「蒼波! あいつに無線を掏られた! それと、捕えていた〈鴉〉関係者、全員が失踪したらしい! おい蒼波!」
蒼波は乱暴に肩を掴まれながらも、もう一度鴉達を見た。雲の間に溶け込んで、悠々と飛んでいく、少年少女達。
「……だろうな。被害の確認を進めるぞ。あと、今あいつが無線を返してきた」
「はぁ⁉︎ 逃したのかよ⁉︎」
「仕方ないだろう! 下手に動けば逃げられていた!」
「結局逃げてんじゃんか!」
「主導権は完全に彼方が持っていたんだ」
全く散々な目に遭った。
「あの鴉共……! 悪知恵ばかり働かせやがって……!」
「落ち着け深錦」
「落ち着いてられるか!」
蒼波は彼らが紛れ込んだ街を見る。
たった六日間で、奇妙な牢屋見学には終幕が訪れたらしい。
空は——青く澄んでいた。
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