12話目 「二つの記録」

 秋葉原の街から、“名前”が消え始めていた。


 通りすがる人々の会話は噛み合わず、聞き覚えのあるBGMが別の旋律に変わっていた。

 看板のフォントが微妙に違い、コンビニのレシートには見覚えのない会社名が印字されている。


 「……おかしい、よね」


 レトがぽつりと漏らす。

 その手には、昨日撮ったインスタント写真──“写ルンです”の現像紙があった。

 だが、そこに写っていたはずの“封匣”の姿は消えていた。白い背景に、影のようなものがぼんやりとあるだけ。


 「確かに撮った。ここに……あったはずなのに」


 「記録されたものが、観測から外された」


 輝の声は静かだった。

 街が変わり始めている。

 記録できない物が、観測されないまま“なかったこと”にされていく。


 レトは、自分のこめかみに指を当てた。


 「……昨日の放課後、どこ行ったか思い出せないの。家に帰ったような気もするし、帰ってない気もする……変でしょ」


 その声に、輝は息をのんだ。


 それは、観測されなかった記憶。

 存在したはずの時間が、まるごと空白になっている。


 「……記録されなかった時間だ」


 実際に起きたはずの出来事も、“観測されていなければ”それは無かったことになる。

 まさに今、秋葉原は“そう”なりかけている。


 2人は足早に“相互電子”へ向かった。


 だが、建物の外観はすでに“違って”いた。

 看板が新しくなり、以前にはなかったテナント名が並んでいる。

 壁の色も変わり、ビル名すら──“相互電子”ではなくなっていた。


 「ここ……だよね?」


 レトが呆然と呟く。


 「記録が、別の記録で上書きされた」


 輝はその扉を開ける。

 内部は相変わらず薄暗く、湿った空気が漂っている。

 だが、どこか現実的な“日常の記憶”で塗り替えられていた。


 応接室に入ると、封匣はまだそこにあった。


 ──ただし、“観測されていない”状態で。


 ぼやけていた。

 見えているはずなのに、輪郭が曖昧で、まるで夢の中の物体のようだった。


 輝が手を伸ばすと、封匣が反応した。

 モニターがひとりでに起動し、かすれたブート音が部屋に響く。


---


> [記録 No.027]

> 発信者:Kazama_Hikaru

> タイトル:“記録者の死”

>

> 内容:

> この世界が記録されなくなる前に、私はもう一度だけ記す。

> 未来に向けて。過去の自分に向けて。

>

> 「記録は、観測者がいなくなったときに消える」

>

> “もしこのログを君が読むなら、それは君がまだ生きている証だ。

> ならば観測を、続けてくれ”


---


 「……俺の、記録?」


 輝は言葉を詰まらせた。


 それは、未来の自分が残したログだった。

 内容は、まるで遺言。

 この世界の“終わり”を予感した者だけが残せる種類の記録。


 レトが静かに尋ねる。


 「ねえ……それって、いつ書いたの?」


 「わからない。けど──これは、未来の俺が、この世界を観測できなくなった時に書いたものだと思う」


 モニターがノイズを走らせ、また別のログが自動で表示される。


---


> Minel:

> “外界との境界不安定化進行中。

> 記録済みエリアに逆流開始。

> 封匣システム、受信モード強制移行”

>

> ※観測者名無しとの再接続不可。

> ※観測者Kazama_Hikaru同位体存在確認──エコーログ再生中


---


 「逆流……?」


 レトの声が震える。


 その瞬間、封匣から発せられた低周波が室内を満たした。

 振動ではない。音でもない。

 “記憶の中の音”に似た、重く沈んだ波が、2人の脳に直接響いた。


 レトが額を押さえ、膝をつく。


 「……だめ、なんか、変な記憶が──」


 輝が支える。

 だがその手にも、微かな違和感が生じていた。

 “レトという存在”の境界が、一瞬だけ曖昧になったのだ。


 「レト、お前……!」


 「私……昨日、あんたと会ってないって、一瞬思った」


 それは“観測されなかった記憶”だ。

 現実にあったことが、“なかった”と上書きされる現象。


 「これが、逆流か……!」


 封匣の画面が白く点滅し、最後にひとつの文字列だけを映し出した。


---


> “記録を保つには、記録される前の“本質”が必要だ”


---


 輝は、その言葉を読みながら自らの手を見る。


 「俺は、“何を記録するために”ここに来た?」


 レトが微かに笑う。


 「じゃあ、聞くけど……“誰に”届けるために?」


 2人の記録が、いま重なろうとしていた。

 過去と未来、観測者と記録者。

 その狭間にあるのが、いま消えかけている“秋葉原”という都市そのものだった。

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