第5話

 ひひん、と牛ではなく馬の声がしたのに目を開けると、辺りは薄暗いのか葛籠の中は真っ暗になっていた。元々あまり頑丈なつくりではなかったから光は入って来ていたのだけれど、昼間から今までの間に誰かが私の誘拐に気付いてくれたのだろうかと思う。


「織花!」


 戸が明けられるスパンと言う音がして、聞こえた声はどっちだろうと思う。被せられていた葛籠の蓋が開けられると、やはり時刻は夕方近くになっていた。よくもったな、『目印』。私は袖からぽろりと落ちた飴玉を見て、そう思う。


 牛を立ち止まらせるなら塩を盛ればいい、と言うのはよく聞くことだが、馬は甘いものの方が好きなのだ。だから私は葛籠の隙間から定期的に飴玉を落として行った。気付いた時頼様が追いかけてくれることを祈って。案の定時頼様の馬は飴を追い掛けて、あばら道もものともせず、私を迎えに来てくれたようだ。剣呑剣呑、えらいめにあったと立ち上がると、ふらっとした。すると支えてくれる手がある。白檀香。やっぱり時頼様だ。帝ではない。


「えらい目に遭いました、まったく」


 ふうっと息を吐くと、ぎゅっと抱き締められる。


「君の女房が、見知らぬ年寄りが届け物に着て帰ったとたんに君の姿が無くなったと大騒ぎになってね。私も市中見回りをしていたんだが、どうにも馬が立ち止まるので何かと思ったら。君にあげた飴玉だった。それを辿って、こうして見付けることが出来たんだ」

「なら、私の作戦は成功ですね。馬も甘味は好むと言う予想が当たって良かったです。ところで金子に釣られたぼけなすはどうなりました?」

「ぼけな……。大事になったと分かったとたんに名乗り出てくれたよ。それでなんとか、恩赦にしておこうと思う。無暗に人を罰すれば恨みを買うからね」

「無暗ですかねえ。姫の数多いる後宮に男を通すような見張り、見張りにならないと思うのですが」

「とにかく帰ろう。牛車は用意してあるから」

「あら手回しの良い。でも私、足袋だし単衣も着ていますよ? どうやって動いたら良いのか」

「そのぐらいは私に任せてくれ」

「っと、きゃあ!」


 膝裏と背中に手を入れられ、抱きあげられる。十二歳の殿方と言うのは存外力があるのだな、と思った。まだ子供のようにも見えるのに、ちゃんと大人の領分もある。単純に頼もしかったが、この頼もしさがもう少し早く私を見つけられていれば、葛籠で身体が痛くなるまで我慢しなくても済んだのにな、などと思う。


 まあ終わったことに文句をつけても仕方がない。取り敢えず竹藪の中で野垂れ死にしなくて良かった、思いながら私は時頼様に抱えられ牛車に乗り込んだ。そこには式部が待っていて、おお、と泣かれてしまう。


「一体誰が! 何の権限で中宮様をこんな目に遭わせたと言うのでしょう! この式部、心の臓が口から出るかと思いましたよ!」

「私は無事だ、心配することはない。布で縛られていたから少し手首は赤くなったが、それだけだ。それに迎えも存分早くやって来てくれたしな」

「おいたわしい……気丈に振舞わなくても良いのですよ、織花様、恐ろしかったでしょうに」


 恐ろしかったのは式部の方だと思うけどなー、なんてったって宮中誘拐に気付けなかったんだから。まあそんな事はどうでも良いかと、私はおいおい泣く式部の背を撫でる。すると牛車が動き出し、私は来た道を戻って行く。少しは都の地図も覚えた方が良いのだろうか。

 しかしこんなことは二度と起こらないだろう。伴氏の顔はしっかり見たし、後宮でも騒ぎになったと言うから警備は増やされるだろう。妹の入内前にそうなってくれたのは、素直に嬉しかった。あの子がこんな怖い思いをしなくて――あれ、私怖かったのだろうか。


 絶対に助けが来ると言う確信がどこかにあったのは本当だ。だけど怖いか怖くなかったかで言えば、怖かったのだと思う。野垂れ死にか河原に浮かぶか。明確な殺意だ、それは。義母からすら受けたことのないそれだ。

 そっか。私、案外怖かったのか。恐ろしかったのか。

 式部の言葉ではたと気付く程度に、気持ちを麻痺させていたぐらいには。

 ぽとっと一粒涙を零して、私はそれでもそれ以上にならない自分の可愛げのなさを少し恨んだりして見た。


 後宮に戻ると女房達に縋られておいおいと泣かれた。この場合泣きたいのは私だと思うのだけれど、先にこんなに泣かれては自分の涙なんて一つでも十分なぐらいだった。式部の単衣を一枚借りて顔を隠して戻ったのも悪かったのだろう、藤壺に入るまで誰も私に気付かなかった。その結果がこれである。

 悪いことをしたな、と謝れば、織花様は悪くございません、と怒鳴られる。私達が怪しい者だとも気付かず簡単に人払いに従ったから――と、また泣き咽ばれる。化粧が取れてるぞ皆の者。おしろいも流れているから止めなさい。私は無事だから。何もされていないから。


「本当に何か乱暴をされてはいないんですね? 姫様」

「ええ、葛籠に入れられて竹藪の小屋で数刻過ごした程度よ」

「良かった……お戻りになられて、本当に良かった……! もう少し遅ければ帝が捜索隊を組織するところだったのですよ」


 まあ似たようなもんに見付けられたので、苦笑いで誤魔化す。すると、笑い事じゃありませんよ、とぴしゃり言われてしまった。相済まない、私は心配されることに慣れていないのだ。父も小さな頃は私を可愛がってくれたが、妹が生まれてからはそうも行かず、疎遠になってしまっていたから。家庭内疎遠。まあ寝殿造りでは珍しくもない。まして姫と父親なら。


「藤原様も大層慌ててあちこちを探しておられましたのですよ。うちの花が、花がって」

「まあ懐かしい」

「懐かしい?」

「私がまだ小さな頃は、花、と呼ばれておりましたのよ。最近はとんと聞かなくなっていたから、私も聞きたかったぐらいね」

「――花!」


 と、そこに男の声が割り込んでくる。勿論帝じゃない、時頼様でもない。しっかりと声変わりした大人の男の声だ。きゃあっと女房達が顔を隠す。私はぽかんと、冠が曲がっているその人を――父を、見上げた。


「花、花……無事でよかった、本当に……! して、犯人の顔は見たのだな?」

「ええばっちりと。背の低い老爺でしたよ。冠を付けて束帯姿、めくれた口に額に大きな疣が」

「みな聞いたな?」

「はい」

「めくれた口に額の大きな疣。伴氏に間違いない。これで伴の者を宮廷から一掃できる!」


 あー……。

 そういう意味の心配ね。ちょっとでも期待した自分が浅はかだったなと、私は溜息を吐く。何を期待したんだか、今更。花、と呼ばれたのが久しぶりで嬉しかっただけだ。それも政争の時分の戯言だとも気付かずに。私は愚か者だ。

 今更愛してもらえるわけも無かろうに、何を期待したんだか。

 攫われたことよりもそちらの方が落胆を誘って、涙が出る。


「花? 泣いているのか? 恐ろしかっただろう、だが鈴の入内前で本当に良かった」


 鈴は妹の名前だ。鈴香。

 その鈴に害が及ばなくって良かったって、すでに入内して騒動に巻き込まれた娘の前で言うことじゃないよねえ。


 まあ良い、過ぎたことだ。父上にご退出願って、冷めた夕餉を食べ、今日は灯台を点けて寝そべる。案の定夜半にやって来たのは時頼様の方だった。帝はこんな時でも中宮である私を形だけですら労わってくれない。忙しいんだろう、ナニするのに。処女嫁に対して随分な仕打ちだな、と私は白檀の香りのする時頼様を御簾のこちら側に迎え入れる。

 これも十分不貞だと思うんだけど、その方が帝が動きやすいと言うのなら仕方あるまい。それにしても本当、どうやって始末をつけるつもりなのだろう。伴家はもうおしまいだと思うから、そんなところに警備に行ったって仕方ないだろうに。明日には帝からの詔で伴家は取り潰されるだろうに、何故今夜も来てはくれないのか。


 別に良いけれどね。飴玉をころころ舐め転がしながら、私と時頼様は貝合わせやすごろくをして遊んだ。

 こういう遊び友達としては、時頼様も良い方なんだけれどな。

 一度しかお目に掛かったことのない帝よりずっと、私に寄り添ってくれている。

 それが同情なのかもしれなくても、心地良いものではあった。

 少なくとも、父上よりは。

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