第32話:“英雄”の孤独とノアの警告

 “対象B”の出現。それは、俺の心に重い影を落としていた。

 俺と同じように、異世界から来たかもしれない存在。その目的も、正体も、何も分からない。

 ただ、漠然とした不安と、そしてほんの僅かな、歪んだ期待のようなものが、胸の中で渦巻いていた。


 もしかしたら、この底知れぬ孤独を分かち合える相手が、この世界のどこかにいるのかもしれない――そんな、あり得ないと分かっていながらも捨てきれない、淡い期待のようなものが。


 そんな精神的な不安定さが影響しているのか、最近、俺の異世界での記憶が、奇妙に混濁し始めている。

 まるで古いフィルムのようにノイズが走り、現実と過去の境界が曖昧になるような感覚。

 時には、自分が今どこにいるのか、何をしているのかさえ、一瞬分からなくなることもあった。


(……まただ……。頭が、霞む……)


 ある日の午後。俺は自室で、力の制御のために瞑想を試みていた。

 だが、意識を集中しようとすればするほど、脳裏には異世界の光景が脈絡なく浮かび上がっては、すぐに消えていく。


 そして、それらの記憶の断片に混じって、時折、あの地下施設で見た禍々しい魔法陣のイメージや、そこに残されていた未知でありながらどこか懐かしいような魔力の残滓の感覚が、不意に蘇ってくるのだ。


 ――燃え盛る戦場。血の匂い。仲間の断末魔。

 ――見知らぬ街での、束の間の安息。笑い声。温かい食事。

 ――そして、月詠を手に、たった一人で魔物の大群と対峙した、あの絶望的な光景。


 それらの記憶は、もはや時系列も曖昧で、まるで悪夢のように、俺の精神を蝕んでいく。

 あの“もう一人”も、こんな記憶に苛まれているのだろうか。


「くっ……! しっかりしろ、俺……!」


 俺は、強く頭を振り、無理やり意識を現実に引き戻そうとした。

 だが、一度乱れた精神の歯車は、そう簡単には元に戻らない。


 最近では、街を歩いているだけでも、ふとした瞬間に、周囲の人々が異世界の住人に見えたり、日常の風景が戦場と重なって見えたりすることがあった。

 それは、まるで世界全体が、俺を嘲笑っているかのような、耐え難い孤独感をもたらした。

 この孤独を、あの“もう一人”も感じているのだろうか。いや、考えるな。


◇ ◇ ◇


「……蓮。あんた、最近ちょっと顔色が悪いんじゃないか? ちゃんと寝てるのかい?」


 ホーリィ商会を訪れると、リサが心配そうな顔で俺を見つめてきた。

 彼女の目には、いつものような打算や好奇心ではなく、純粋な気遣いの色が浮かんでいる。


「……問題ない。少し、考え事をしていただけだ」


 俺は、努めて平静を装ってそう答えた。

 リサに、これ以上心配をかけたくはなかった。それに、この不安定な状態を、他人に理解できるはずもない。

 たとえ、彼女であっても。ましてや、まだ見ぬ“もう一人”が、俺の何を理解できるというのか。


「ふぅん……。ならいいけどさ。あんまり根を詰めすぎるなよ? あんたが倒れちまったら、あたしも色々と困るんだからね」


 リサは、いつもの調子に戻ったように軽口を叩いたが、その言葉の端々には、やはり俺への気遣いが滲んでいた。

 俺は、そんなリサの優しさに、少しだけ救われるような気持ちになった。


 この世界で、俺のことを本当に心配してくれる人間など、彼女くらいしかいないのかもしれない。

 だが、それと同時に、彼女にすら打ち明けられない秘密を抱えていることへの罪悪感も感じていた。


 俺のこの孤独は、誰にも理解されることはない。

 たとえ、俺と同じように異世界から来たという“対象B”が現れたとしても、そいつが俺の理解者になるとは限らない。


 俺は、英雄などではない。

 ただ、異世界で生き延びるために、力を求め、そして多くのものを失ってきた、ただの人間だ。

 それなのに、この世界では「サイレント・ブレイカー」として、勝手に英雄視され、期待され、そして監視されている。


 そのギャップが、俺をさらに孤独へと追いやっていた。


「……なあ、蓮。あんた、最近ノアから何か連絡はあったかい?」


 リサが、ふと話題を変えるように尋ねてきた。


「ノアから? いや、特には……。何かあったのか?」


「うん、ちょっとね。あいつ、相変わらずあんたのこと、色々嗅ぎ回ってるみたいでさ。で、昨日、あたしにこんなことを言ってきたんだよ」


 リサは少し声を潜め、表情を引き締める。


「『対象A、精神に深い亀裂あり。放っておけば崩壊する。制御可能かどうかは五分五分だ。だが、力を持つ存在は、放置するには大きすぎる。僕らに残された選択肢は、観察か、管理か、あるいは……排除だ。リサ、君の裁量に期待してるよ』

……だとさ」


「……ノアが、そんなことを……」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 あの情報屋が、俺の精神状態まで把握しているというのか。そして、俺を“駒”であり“爆弾”だと――。


「全く、失礼な話だよねぇ。あたしがあんたの保護者かなんかだとでも思ってんのかね、あの野郎は」


 リサは不快感をあらわに吐き捨てる。

 だが、俺は、ノアの言葉の真意を痛いほど理解していた。


 今の俺は、確かに危険な存在だ。

 もし、この不安定な精神状態で月詠の力でも暴走させようものなら、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 異世界で、魔瘴に狂い、仲間を襲ったあの男のように――。そして、あの“もう一人”もまた、同じ危険性を孕んでいるとしたら……?


(……俺は、また、同じ過ちを繰り返すのか……?)


 背筋に、冷たい汗が流れるのを感じた。

 それだけは、絶対に避けなければならない。

 だが、そう思えば思うほど、心の奥底に渦巻く不安が、俺の意志を蝕んでいく。


「……リサ。俺は、大丈夫だ」


 俺は、リサの不安を打ち消すように、力強くそう言った。

 それは、彼女に対してというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。


「……リサ。俺は、大丈夫だ」


 俺は、彼女の不安を打ち消すように、力強くそう言った。

 それは、彼女に対してというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。


「……本当に、そうかい?」


 リサは、疑わしげな目で俺を見つめてきた。

 その瞳は、俺の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだった。


 俺は、リサの視線から逃れるように、窓の外へと目を向けた。

 夕焼けに染まる街の風景が、どこか物悲しく、そして俺の孤独を際立たせているように見えた。


 ノアの警告――それは、俺の心に重くのしかかっていた。

 “対象A”である俺が、世界にとって必要な存在であると同時に、最も危険な“爆弾”であるという評価。

 その言葉が示す未来を、俺は否応なく想像せざるを得なかった。

 そして、まだ見ぬ“もう一人”の存在が、この問いにどんな答えを突きつけてくるのだろうか。


 確かに今の俺は、不安定だ。

 誰にも話せない記憶を抱え、誰にも理解されないまま、過去の亡霊に苛まれ続けている。

 それでも、俺は――。


 (……負けたくない)


 この世界で、居場所を見つけたいと願った。

 誰かのために力を使いたいと、心から思った。

 だからこそ、この不安と孤独に、押し潰されるわけにはいかない。


 たとえ今は答えが見えなくても。

 たとえ、自分の中で何かが静かに壊れ始めていたとしても。


 俺は、歩みを止めたくない。

 この力が、誰かを傷つけるものでなく、誰かを守れるものであってほしいと――そう願わずにはいられなかった。

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