第10話:静けさへの祈りと不穏な予兆

 ノアから謎めいたメッセージが届いてから数日、俺は自室にこもり、その返答を考え続けていた。


 あの意味深な問いかけに、どう応じるのが正解なのか。あるいは、無視を決め込むのが最も安全なのか。


 リサに相談することも考えたが、あの女のことだ、どうせ面白がってからかうだけだろう。まともな助言を期待するだけ無駄だ。


(……刺激は避けたい。だが、沈黙もまた疑念を深めるだけかもしれない)


 そう思い、俺は慎重に言葉を選び、時間をかけて返信をひとつ捻り出した。

 ――『泉も夜空も、探す者の心の内にある』。


 詩的すぎるか? だが、相手が言葉遊びで探りを入れてきたのなら、このくらい曖昧な返しのほうがいい。


 真意を悟らせず、時間を稼ぐ。それが今できる最善だった。


 とはいえ、ノアの件を棚に上げたとしても、今の俺にはそれ以上に神経を削る問題がある。


 ――日常に潜む、あの忌まわしい魔瘴の気配だ。


 かつては、旧渋谷地下街ダンジョンのような特殊な場所でしか感じなかったあの魔瘴の気配が、最近では、街中でもふいに鼻を掠めることが増えてきた。


 人混みの中で一瞬感じる、不自然な違和感。排水溝の奥から立ち上る、微かに腐ったような臭い。


 公園の隅で、なぜか一角だけ不自然に枯れた植え込み。


 単なる気のせいか?

 それとも、異世界での経験を経て、俺の感覚が鋭敏になりすぎているだけか?


(……だが、もし本当に魔瘴が、この日常の裏で広がりつつあるのだとしたら……)


 背筋が、ぞくりとした。


 仲間たちが次々と狂い、互いに牙を剥き、殺し合った――あの地獄のような日々が、記憶の底から這い上がってくる。


 あんな惨劇は、もう二度と繰り返したくはない。

 この世界が、あの異世界と同じ末路を辿るなど、絶対にあってはならないのだ。


 不安を抱えながら、俺は改めて、リサが持ちかけてきた“お宝探し”について思いを巡らせていた。


 最初は、ただの金儲け――危険な仕事の一つ、程度にしか考えていなかった。


 だが、もしリサの言っていたとおり、あの古地図が示す“お宝”が、「触れた者の魔力反応を変質させる」とか、「周囲の魔瘴をわずかに吸収する」ような代物だとしたら……それは、単なる財宝ではない。


 もしかすると、いずれ本格的に蔓延するかもしれない魔瘴に、対抗できる数少ない手段になり得るかもしれない。


 あるいは――


 ノアのような得体の知れない存在に対し、自分自身の身を守るための“力”となる可能性もある。


(……静かに生きたい。それが俺の唯一の願いだったはずだ。


 だが、このまま手をこまねいていれば、その静寂すら手に入れられなくなるかもしれない)


 平穏を望む気持ちと、迫りくる気配への警戒。

 その狭間で、異世界の探索者としての本能が、静かに火を灯しはじめていた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、マンションの窓の外では、しとしとと静かに雨が降り続いていた。


 俺はベッドの上に腰を下ろし、腕を組んだまま、ただ淡々と雨音に耳を澄ませていた。


 思考は、ぐるぐると同じ円を描くように巡っていたが――ようやく、ひとつの答えに辿り着く。


(……やるしかない、か)


 リサの話に乗ろう。


 それは、俺が望んでいた「静けさ」を捨てるということではない。


 むしろ、騒がしさに飲まれないために、自分の手でその静寂を取り戻す、最初の一歩なのだ。


 そう腹を括った瞬間、不思議と心が軽くなった。


 ふと、あの女の気怠げな笑みが頭をよぎった。


 そういえば、リサは今までずっと、俺のことを“パートナー”としか呼ばなかったな。


「……そうだ。名前くらい、教えておくか」


 それは、信頼でも友情でもない。ただ、必要な一線を越えるという“意思表示”だった。


「日向 ひなた れん。……それが、俺の名前だ」


 俺は、誰に聞かせるでもなく、静かにそう呟いた。


 長い間、俺の行く手を阻んでいた霧が、少しだけ晴れたような気がした。


 俺はスマートフォンを手に取り、リサの番号を呼び出した。数コールの後、やや不機嫌そうな、しかしどこか期待を含んだような彼女の声が聞こえてくる。


『……もしもし、何の用だい、パートナー? こんな夜更けに』


「……あんたの言っていた“お宝探し”の件だが」


『ほう? で、どうするんだい?』


「受ける。ただし、条件は前回と同じだ。俺の素性や、品の出所については詮索しない。そして、取引は常に双方合意の上で行う」


『……はっ、相変わらずお堅いことで。だが、それでこそ、あたしの見込んだ男だよ。で、いつから動けるんだい?』


「準備はできている。……それと、リサ」


『ん?』


「いつまでも“パートナー”じゃ、呼びにくいだろ。……日向 ひなた れん。それが、俺の名前だ」


 電話の向こうで、リサが息を飲む気配がした。そして、すぐにいつもの調子を取り戻したのか、くつくつと喉を鳴らして笑う声が聞こえる。


『……へえ。日向 蓮、ね。悪くない名前じゃないか。分かったよ、蓮。じゃあ、詳しい話はまた明日だ。楽しみにしてるぜ』


 通話を終え、俺はスマートフォンの画面をじっと見つめた。


 これで、後戻りはできない。いや、するつもりもない。


 その時だった。


 ピンポーン――。


 静かな部屋に、間の抜けたドアチャイムの音が響き渡った。


 俺は、思わず身構えた。こんな深夜に、誰だ?


 リサか? いや、あの女なら、今電話を切ったばかりだ。こんな直接的な方法でコンタクトを取ってくるはずもない。


 では、一体――。


 音を立てないようにベッドから下り、そっとドアに近づく。

 ドアスコープを覗き込んだ俺は、息を飲んだ。


 そこに立っていたのは、予想だにしない人物だった。

 あるいは――人ではない、“何か”の気配。


 選べると思っていたその道も、気づけば、もう一本しか残されていないのかもしれない――そんな予感だけが、妙に確かだった。


 俺の静かな日常は、どうやら、今日この瞬間をもって、完全に終わりを告げようとしていた。




ーーーーーーーーーー

【あとがき】

ここまで第1章をお読みいただき、ありがとうございました。


異世界から帰還した蓮が、静かに生きようとするも、力や過去、そして不穏な気配に少しずつ引き寄せられていく――そんな“日常の中の異物感”を描いた章となりました。


情報屋リサや謎の観測者ノアとの出会い、広がる魔瘴の気配など、物語は静かに動き出しています。


次回より【幕間:ネットの噂と観測者たちの囁き】を挟み、

本作は、第2章「忍び寄る歪みと黒き影」が始まります。


第2章では、蓮の“再出発”が本格化していきます。彼が何を選び、どう進むのか。引き続きお楽しみいただければ幸いです。


第2章の執筆モチベーション維持のため、☆やフォローでの応援をよろしくお願いいたします!



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