豊穣
何もない。床も壁も天井も、果てすらもわからない。けれど、ひとつだけはっきりしていた。
「……俺、死んだのか?」
稲葉隼人、28歳。広告代理店勤務。
睡眠時間は平均3時間。納期、修正、会議、メール、応対、資料。全部終わらせて、深夜にようやく帰路についたあの日。
道端に倒れ、そのまま動かなくなった。
次に目を開けたとき、そこには不自然なほど真っ白な空間が広がっていた。そして、目の前に立っていたのは見たこともない人物。
「おはよう。稲葉隼人くん」
男とも女ともつかない。若くも老いてもいない、不思議な顔立ち。
「……誰だ」
「まあ、神みたいなもんだと思ってくれればいいよ。で、一つだけ選んで。『ギフト』――要するに、異世界で使える特殊能力だ」
「ギフト……?」
「君はこれから別の世界に転移するんだ。そこで使える特殊能力。どんなのでもいいよ。ただし、細かい条件や仕様の指定はできないからね。あ、言語も環境も問題ないようにしておくから安心して」
意味のわからない言葉の洪水。でも、頭の奥にじわりとしみ込んでくる。
世界。転移。能力。孤独。自由。土。実り。
思考よりも先に、口が動いていた。
「……土地を豊かにするやつ。農業が……したい」
「《豊穣》ね。いいじゃん。実りってのはいい言葉だ。じゃ、いってらっしゃい」
その言葉と同時に、床が抜けた。
◆
次に意識が戻ったとき、隼人は草原に立っていた。
土の匂い。空の広さ。風の感触。
それを感じる前に、脳内に情報が流れ込む。
【豊穣】
《触れた大地を豊かに変え、作物の成長を加速させ、気候までも調整できる祝福》
《自らの意思で、いかなる命も摘み取ることができない》
その瞬間、足元が脈打った。
地面が揺れた。ひび割れた土から、無数の芽が吹き出す。
蔓が伸び、草が生え、幹が太り、花が咲く。
「え……? ちょ、待て……!」
隼人が一歩退く間にも、大地は緑で埋まっていく。
伸びた枝が身体をかすめ、蔓が腕に巻きつく。逃げ場はもうなかった。
「やめろ……止まれ……ッ!」
叫んだ。けれど、止まらなかった。
この力を止めるには、芽を摘み、枝を断ち、根を引き抜くしかない。
だが――できない。
それらはすべて“命”だ。彼の手では、それを摘むことはできなかった。
ギフトは、完璧に働いていた。
だからこそ、彼は自分の作り出した“命”に、呑まれていった。
◆◆
その日の午後、聖都近郊の町から派遣された衛兵たちが、異変の報せを受けて現場を確認に訪れた。
そこで彼らが目にしたのは、平地に忽然と立つ一本の巨木だった。
周囲に森はない。あるのはただ、その樹だけ。
なぜそこにあるのか、誰が植えたのか。地面には踏み荒らされた痕跡もない。
ただ静かに、風に揺れるその樹の根元で、大地はかすかに脈動していた。
そして、その枝先には、鮮やかな花がいくつも咲き誇っていた。
それを見上げたひとりの衛兵が、ぽつりと呟いた。
「……これは、神樹だ……」
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