豊穣

 何もない。床も壁も天井も、果てすらもわからない。けれど、ひとつだけはっきりしていた。


「……俺、死んだのか?」


 稲葉隼人、28歳。広告代理店勤務。


 睡眠時間は平均3時間。納期、修正、会議、メール、応対、資料。全部終わらせて、深夜にようやく帰路についたあの日。


 道端に倒れ、そのまま動かなくなった。


 次に目を開けたとき、そこには不自然なほど真っ白な空間が広がっていた。そして、目の前に立っていたのは見たこともない人物。


「おはよう。稲葉隼人くん」


 男とも女ともつかない。若くも老いてもいない、不思議な顔立ち。


「……誰だ」


「まあ、神みたいなもんだと思ってくれればいいよ。で、一つだけ選んで。『ギフト』――要するに、異世界で使える特殊能力だ」


「ギフト……?」


「君はこれから別の世界に転移するんだ。そこで使える特殊能力。どんなのでもいいよ。ただし、細かい条件や仕様の指定はできないからね。あ、言語も環境も問題ないようにしておくから安心して」


 意味のわからない言葉の洪水。でも、頭の奥にじわりとしみ込んでくる。


 世界。転移。能力。孤独。自由。土。実り。


 思考よりも先に、口が動いていた。


「……土地を豊かにするやつ。農業が……したい」


「《豊穣》ね。いいじゃん。実りってのはいい言葉だ。じゃ、いってらっしゃい」


 その言葉と同時に、床が抜けた。



 次に意識が戻ったとき、隼人は草原に立っていた。


 土の匂い。空の広さ。風の感触。


 それを感じる前に、脳内に情報が流れ込む。


【豊穣】


《触れた大地を豊かに変え、作物の成長を加速させ、気候までも調整できる祝福》


《自らの意思で、いかなる命も摘み取ることができない》


 その瞬間、足元が脈打った。


 地面が揺れた。ひび割れた土から、無数の芽が吹き出す。


 蔓が伸び、草が生え、幹が太り、花が咲く。


「え……? ちょ、待て……!」


 隼人が一歩退く間にも、大地は緑で埋まっていく。


 伸びた枝が身体をかすめ、蔓が腕に巻きつく。逃げ場はもうなかった。


「やめろ……止まれ……ッ!」


 叫んだ。けれど、止まらなかった。


 この力を止めるには、芽を摘み、枝を断ち、根を引き抜くしかない。


 だが――できない。


 それらはすべて“命”だ。彼の手では、それを摘むことはできなかった。


 ギフトは、完璧に働いていた。


 だからこそ、彼は自分の作り出した“命”に、呑まれていった。


◆◆


 その日の午後、聖都近郊の町から派遣された衛兵たちが、異変の報せを受けて現場を確認に訪れた。


 そこで彼らが目にしたのは、平地に忽然と立つ一本の巨木だった。


 周囲に森はない。あるのはただ、その樹だけ。


 なぜそこにあるのか、誰が植えたのか。地面には踏み荒らされた痕跡もない。


 ただ静かに、風に揺れるその樹の根元で、大地はかすかに脈動していた。

 そして、その枝先には、鮮やかな花がいくつも咲き誇っていた。


 それを見上げたひとりの衛兵が、ぽつりと呟いた。

「……これは、神樹だ……」


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