I.1 長青渓谷の朝


———

朝霧が長青渓谷を覆い、杉林の枝葉には昨夜の霜がまだ残っていた。

風が吹き抜け、枝先の雪が石畳に落ち、かすかな音を立てた。


アルシャ・ヴィトは家の前の石段に立ち、淡い灰色のショールを肩に掛けていた。

太陽は東の尾根を越え、杉の隙間から斑の光がこぼれていた。


彼女は手首の時間調整器に触れた。小さな針がゆっくりと動き、時間を標準時に合わせた。

この谷では帝国標準時より数分遅れていたが、彼女は常に中央の基準に従っていた。

それは習慣であり、職務への自覚でもあった。


彼女は調査員だった。

名目上は「観光文化事業会社の帝国外派社員」、実際には帝国文化局の依頼で辺境の風土を記録していた。


滞在期間は本来半年のはずだったが、既に一年以上が過ぎていた。

今では、町の住民たちも彼女を余所者とは思っていなかった。


———


朝食は黒麦パンと岩藤果のジャム、そして地元産の羊乳チーズ。

質素だったが、それで十分だった。


前日のノートを開き、一頁ずつ確認した。


【フラセード=ライン町・冬市祭:群衆舞踏会が二夜続き、治安事案なし。】

【北境文化局・建築遺産保護部門が修復申請を提出。】


余白に小さく書き足した。

「冬市文化は自治の形で継続。帝国標準の統治体系と地方文化の融合度は良好。」


窓の外では、古びた動力車が通り過ぎた。

港から運ばれた物資を積んでいた。

町の時間はゆっくりと、しかし着実に流れていた。

中央の星都の喧騒とはまるで異なるが、混乱ではなかった。


———


彼女は外套に着替えた。

深い灰色のロングコートとブーツ。

袖口の徽章は低調な銀色に変えていた。

町の人々は飾り立てた官吏を好まなかった。


石畳の道を下ると、町の中心部に出た。

交差する二本の主道が十字を成し、屋台が並び始めていた。

黒麦餅と冷たい朝霧の匂いが混ざっていた。


「アルシャさん!」

若い徒弟たちが手を振った。


彼女は微笑み返した。

「おはよう。」


この呼び方をされたのは、ここに来て三ヶ月目のことだった。

当初は住民との距離を保とうとしていたが、今ではその壁は自然と消えていた。


「調査員は距離を保つべきだ」と忠告されたこともあった。

だがアルシャは、文化の記録は冷たい文書ではなく、生きた生活そのものであるべきだと信じていた。


———


午前の陽光は短かった。

山影がすぐに町の北側に伸びた。


三ヶ所の遺産調査地を確認し、帰ろうとした時、林の奥から蹄の音が響いた。


若い鹿が杉林から飛び出し、彼女の肩をかすめて走り去った。

蹄の音が石畳に重く響いた。


すぐに治安官二人が駆けてきた。

制服には長青谷治安所の徽章があった。


「失礼、市街地に迷い込んだ野生動物を追っています。」


アルシャは頷いた。

腰の磁気軌道拳銃と肩の火力許可印が目に入った。

中央では見かけない装備だったが、ここでは当たり前だった。


ここには、ここなりの秩序があり、

彼女はそれを尊重していた。


———


昼食後、彼女は市場に出た。

春の食材が並び、新鮮な岩藤果と希少な香草を買った。


若い治安官副官が市場で巡回していた。

帽子に手を添えて会釈した。

「先日ご協力いただいた文化遺産保護申請、正式に承認されました。」


「それは良かった。」と彼女は答えた。


副官は何か言いたげだったが、彼女は微笑んで軽く手を振った。

町では適切な距離を保つのが礼儀だった。


———


※挿話・数ヶ月前


北境の調査で、スカイル平原に派遣された時のことだった。


移民と先住民が古代の石板を巡って争っていた。

移民は耕作地拡張のために撤去を望み、

先住民は文化的な聖遺物として保護を主張していた。


アルシャは石板の表面を慎重に調べた。

風化していたが、帝国初期の行政記録の刻印が読み取れた。


「これは単なる石材ではありません。」


「移民には代替地の申請権があり、先住民は正式に文化財登録を行う必要があります。」


当初、双方は頑なだった。

だが最終的に、帝国の仲裁に従った。


報告書にはこう記した。

「秩序とは、妥協ではなく、共存の意志に基づくものである。」


※挿話終了


———


夕暮れ、家に戻り夕食の準備を始めた。


炉火の音が静かだった。

窓の外、夕陽に染まった杉林が金色に輝いていた。


通信機の信号灯が点滅した。


手を拭いてチャンネルを開いた。


画面に見慣れた顔が映る――ヘランドゥヤ行省治安艦隊の副情報司令、ヴァン。


「アルシャさん、休暇中に申し訳ありません。」

「走私船の押収作業で、ミラーズ・オペレーション関連の資金と物資の線を発見しました。

特別調査連絡の確立をお願いしたい。」


彼女は静かに頷いた。

「詳細を。」


———




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