011話 剣に残した記憶


 視線の先には、抉れた地面から長い胴をうねらせ、再びこちらへと向き直る巨大百足ムカデカデの姿があった。

 その異様に青白く光る外殻から生えた無数の足が、獲物を探すように蠢く様は、見る者の本能に訴えかける不快さと恐怖を伴っていた。


 下層へ潜る際、できれば遭遇したくない魔物のひとつだ。

 俺も実際にこいつに出くわすのは、何年ぶりかになる。


『グリン』『グリン!』『グリン……!』

 断片的な過去の声が、頭の奥で不意に蘇る。


 ――そうだ。

 俺はこいつを知っている。

 あの時、俺たちはこの魔物を相手に、命を賭けて戦った。


 ……ならば、思い出せ。

 この巨大百足ムカデカデを倒す方法を。


「……思い出さなきゃいけないんだけどなぁ……」


 だが、都合よく思い出せるものではない。

 記憶に蓋をして、酒に逃げた年月はそれなりに長かった。

 やばい。まったく思い出せない……。


「目がないのって、キモくない?」

 ちゃっかり後方へ避難していたクロウェアが、のんきな口調でそう呟いた。


「退化したんだろ。下層以降じゃ、そこまで珍しくもない」

「ふーん……」


 雑談に付き合ってる余裕はない。

 こっちは目の前の化け物に集中しているというのに。


「カナリア、俺と挟み撃ちだ! お前たちは正面を押さえて、後方のクロウェアを守れ!」

 俺はそう叫ぶや否や、カナリアや妖精族たちの反応を待たずに、地を蹴った。


 まずは、相手の脚を削ぐ。

 動きを鈍らせれば、考える時間も稼げる。


 胴体が駄目なら、脚だ。


 俺は素早く巨大百足の側面へと移動し、

風の刃ウィンドカッター!」

 腕を振り下ろし、魔法の刃を無数の脚のひとつへと叩き込む。


 同時に、反対側からカナリアの魔法が閃光となって着弾する。


 が――どちらも、効果はなかった。


 風の刃はまるで何かに阻まれるように霧散し、カナリアの魔法も、敵の硬質な外殻に阻まれて弾かれていた。


 胴体だけでなく、脚までも無効とは……これは厄介だ。


 巨大百足が俺の方へと向きを変える。音もなく滑るような動きで、その大顎を牙のように開いた。


 俺は飛び上がって顎の上に蹴りを入れ、体を後方へと回転させて着地する。


 視界が回る中、誰かの悲鳴が耳をかすめた。


 着地と同時に息を整える俺に、

「今の、ようやれたな……」

 カナリアが呆れたように言った。


 巨大百足は、俺に逃げられたことが気に入らなかったのか、顎をカチカチと鳴らし始める。

 その音は、下層の空間に不快なほど響き渡る。


 カナリアが別の魔法を放つ。

「こなくそッ!」


 だが、それも同じだ。

 収縮した外殻が魔法をはじき、閃光が散って消えた。


 初めて、額に汗が滲む。


 先にいた妖精族たちが、地面から三角錐を無数に立ち上げ、連携して攻撃を仕掛ける。

 技量は申し分ない。威力も、速度も、熟練のそれだった。


 だが相手は、よりによってこの巨大百足ムカデカデだ。


 全ての攻撃は、外殻に当たった瞬間、菓子細工のように砕け、地面へと還る。


 巨大百足は、それを気にも留めずに身体をうねらせ、今度は三人の魔法使いの方へと狙いを定める。


 そして次の瞬間――仰け反った。

 上体をぐぐっと後方にたわめ、その姿は限界まで引いた弓の弦のようだった。


 リーダー格の妖精族が叫ぶ。

「やったか!? このまま押せッ!」


 錐がさらに勢いを増す。


 カナリアも両手を挙げて声援を飛ばす。

「効いとる! もう一発ッ!」

 

 ――効いているのか? 本当に?


 背筋を冷たいものが這い上がる。

 仰け反った巨大百足の姿を見て、胸の奥にかすかな違和感が生まれる。

 あの角度――不自然に深すぎる。


 苦しんでいるというより、力を溜めているように見える。


「おいッ! お前たちッ! そこを退けッ! ばらけろッ!」


 確証はなかった。ただの直感。

 けれど、あれだけ攻撃を受けて無傷な敵が、楽観の対象になるはずがない。


 妖精族のリーダー格が吠える。

「何をッ!? 貴様に指図される筋合いはないッ!」


 その仲間たちも、同様に攻撃を続ける。


 少し離れた後方にクロウェアの姿が見える。


「ちッ……! クロウェアッ! そこから離れろ! そいつらの後ろに立つなッ!」


 俺の声と同時に、クロウェアは動いた。


 そして――その刹那。


 引き絞られていた巨大百足の上体が、放たれた矢のように宙を駆けた。


 目標は、魔法を撃ち続ける三人の冒険者たち。


 その速さは、先ほどの比ではなかった――。


 一瞬の判断で、従者たちがリーダーを突き飛ばし、自らが巨大百足の進行ルートに身を投じた。

 それはまさしく従者の鏡たる英断であった。あのままでは三人まとめて呑まれていた――そうならなかったのは、彼らの献身にほかならない。


 直撃をそれたリーダーのリーダー格の冒険者であったが、その体は巨大百足に弾かれ、壁まで吹き飛ばされた。


 その身が壁に叩きつけられると、

「かは……ッ!」

 叩きつけられた壁には冒頭者を中心にしてクモの巣のような亀裂が走った。


 その結果、残された二人の妖精族の従者は巨大百足の顎に囚われていた。

 一人は既に半ば捕食され、救いを求めるように差し伸べられた手だけが口の隙間から覗いている。

 

 顎肢の内側にある小顎に引っかけられたもう一人は、

「あっ、いや、だッ! たす、け……ッ!」

 錯乱した様子で周囲に助けを求めていた。


 それを見ていたカナリアが、慌てて叫ぶ。

「やらせんでッ!」


 魔法を放とうと身構えるが、

「カナリア! 後ろだッ!」

 俺が声を張り上げる。


 カナリアの背後からは、ひときわ長く鋭い最後尾の脚が、無音で迫っていたのだ。


 カナリアは反射的にその場を跳ね、回避する。だが、その一瞬の間に、もう一人の命が奪われていた。


「あ”あ”ぁ”ぁ”――」


 巨大百足は、引っかけていた冒険者を口へと落とすと、断頭台もかくやという勢いで顎を閉じる。

 そして響くのは、何かがすり潰され、砕け、引き裂かれる音。

 耳を塞ぎたくなるその音が、冷たい空気を這うように広がった。


「そ、そんな……!? 嘘やん……!」

 カナリアの悲痛な声が、耳を打つ。


 夢を抱いて潜る者たちの希望と欲望、それを餌に待ち構える現実。

 冒険迷宮とは、そういう場所だ。


 手にするには、命という対価を求められる。

 掛け金は常に、自分自身。


 熟練した魔法使いでさえ一瞬で命を落とす――それがこの迷宮の本質だ。


 汗が伝うのも気づかないまま、俺は剣の柄を握り直した。

 

 仲間の死も衝撃だが、何より恐ろしいのは――

「退路が、塞がれた……」


 巨大百足は咀嚼を終えると、頭部をこちらへ向けたまま長い胴体を引きずって移動し、俺たちの来た道を遮っていた。

 俺たちをここから逃がす気はないようだ。


 素早く周囲へと視線を走らせる。

 俺たちのパーティーにはまだ負傷者はいない。


 肩を貸して立ち上がった妖精族の冒険者は、絶望の色を浮かべつつも命に別状はなさそうだった。

 とはいえ、まともに戦えるかは疑問だ。

 いま、他所のパーティーに構う余裕はない。自分の命は自分で守ってもらうしかない。


 巨大百足は、まだ飢えているかのように咀嚼音を残して振り返ると、再び顎を広げた。

 そのとき、口元から滴り落ちる赤黒い液体が見えた。

 それは、この世界における厳然たる掟――『食うか、食われるか』を無言で語っているかのようだった。


 そして、奴が狙いを定めたのはクロウェアと、その肩を借りている冒険者だった。


「クロウェアッ! ――カナリアッ! 魔法で奴の気を逸らせッ!」


 カナリアはすぐに魔法を放ち、巨大百足の胴体に命中させる。

 だがやはり、魔法は青白い外殻に弾かれ、霧のように散った。


 目的は果たされた。

 気づけばクロウェアは俺の背後に立っていた。気配も足音もなく、霧の中を滑るように――そのでたらめな動きには慣れないが、今は頼もしく思える。


「グリンッ! どうするん! 次は!?」

 カナリアの声が焦りを帯びる。


「いま……考えてるんだよッ! もう少し、持たせてくれ!」


 巨大百足は触覚を動かし、周囲を探るようにしていたが、すぐに獲物を取り逃がしたと気づいたのか、カチカチと不快な音を立てる。

 その音が空気を震わせ、俺の思考を急かす。


 蛇のように体をくねらせ、俺たちの方へ再び向きを変える。


 カナリアが、俺の反対側の壁際から叫ぶ。

「うちが時間を稼ぐッ!」


 巨大百足は魔法の発動に反応した様子で、彼女へと突進を開始する。


「どうする、どうするどうする……」


 前も後ろも塞がれた。もう、退く道はない。

 この下層の入り口でさえ、迷宮の理不尽さは容赦しない。


 幸い、ここでは巨大百足が頂点の捕食者。

 逆に言えば、ここで勝てなければ、その先へは進めない。


 考え込む俺の元へ、クロウェアがすっと寄ってくる。

「先へ進むっていうのはどう?」


 俺と同じ考えだった。

 けれど、それは博打に過ぎない。

 さらに強力な魔物に遭遇するリスク、混戦になる不確実性、そして連戦による疲弊。

 それらを考慮すると、安易に選ぶべき選択肢ではない。


 クロウェアがカナリアへと視線を移す。

「あの外殻、反則級だけど……動きが止まるのは救いだったね」


 ――その通りだ。

 もしあの一瞬がなければ、今ごろ俺たちは全滅していた。


 ……だが。


 その挙動にこそ、突破口があるのではないか?


 なぜ、魔法を弾く必要がある?

 なぜ、動きを止めてまで防御する?


 あれだけの装甲を持つなら、魔法など無視して突進してくればいい。

 だが、それをしない。


 ならば、そこに奴の「弱点」があるはずだ。


 俺の脳裏に、過去の記憶が一気に蘇った。

 かつて、仲間たちと共に挑んだ地獄の戦い。

 

 そうだ。

 あのときも、俺たちは魔法を通せなかった。

 けれど、ある方法で――あいつを仕留めた。


「うへぇ……」

「どうしたの?」


 露骨に顔をしかめた俺に、クロウェアが小首をかしげる。


「思い出したんだよ……巨大百足あいつの倒し方を」

「やるじゃない。それで、どうするの?」


「接近戦だ」


 青白い外殻の継ぎ目――体節と体節の隙間。

 そこは装甲が薄い。


 奴は魔法を弾くとき、体を縮めてその継ぎ目を隠す。

 つまり、動いているときだけ、そこが狙える。


「俺が接近して、殻を剥ぐ。カナリアがそこに魔法を叩き込む」


 言葉にするのは簡単だ。

 だが実行するのは、地獄のような作業だ。


 俺は思わず唇を噛む。


「ただ、その殻を剥ぐのが……本当に、クソみたいに大変なんだ」


 それでも、やるしかない。

 このままでは、本当に全滅する。


 だからこそ、俺は足を踏み出す。


 冒険なんてしたくなかった。

 でも――今だけは、その嘘を忘れてやる。


 俺が、生きて帰るために。

 

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