最終話
大学の研究棟は、夜になると冷える。
俺、高見周一は、残っていた提出物を一通り確認し終えたあと、ルーティンのようにノートPCを立ち上げ、小説投稿サイトを開いた。
趣味半分、研究の一環半分。知らない誰かの創作活動をそっと覗くのが、日課になっていた。
何気なく、最新投稿欄を眺めていると、妙なタイトルが目に入った。
『とある小説家からの依頼』
作者:オキヤマショウ
胸の奥が微かにざわつく。
偶然だろう、そう思って一話を開いた。
『これは、俺が経験した話である』
見覚えがある。
心臓が、ゆっくりと波打つ。
名前は書いていない。だが、文章の癖も、視点も、匂いも、あの男だ。
あの春のことを、思い出した。
今年度のゼミ生の名簿を最初に確認したとき、一人だけ気になる名前があった。
菊池翔。
当たり前の日本人の苗字に、何の疑問も持たなかった。だが、初回のレポートには、明確にと記載されていた。
読み間違いかと思った。だが、次の提出物も、その次も、すべて沖山翔。
ゼミ中の会話でも、友人たちは彼をオキヤマ、と呼んでいた。
気になって、ある日こっそり山川という学生に聞いてみた。
「彼、名字は菊池のはずだけど、オキヤマって呼んでるよね?」
「え? あぁ……本人が“オキヤマって呼んで”って。小学校の頃からずっとそうらしいです」
そのときは、少し変わったニックネームかと思い、深く詮索しなかった。
数週間後。教え子である作家・松林凛が、大学を訪ねてきた。
新刊の献本を手にしていた彼は、雑談の流れでこう訊ねた。
「先生、今年のゼミはどう? 面白い学生いる?」
ふと頭に浮かんだのが、沖山翔だった。
「ああ、ちょっと変わった子がいてね。本名は“菊池翔”なんだけど、自分で“オキヤマ”って名乗ってるんだ。不思議な子だよ」
その瞬間、松林の表情が明らかに固まった。
まばたきすら止まったように沈黙したあと、松林は静かに言った。
「先生。その子、ずっと探してた子です。」
後日、松林から連絡があった。
「一度、特別講義をやりたい」と。
「お金の話でもしてみようかな」と軽く言っていたが、あれは明らかに口実だったのだと思う。
講義当日、彼は予定通り教壇に立ち、平凡なようでどこか刺さる話をしていた。
俺は教室の隅から、その様子を見守っていた。
そして気づいてしまった。
彼の視線が、教室のある一点にばかり向いていたことに。
そこには、沖山翔。いや、菊池翔が座っていた。
講義が終わった後、松林から「少しのあいだ研究室を貸してほしい」と頼まれた。
俺は何も聞かずに、了承した。
その翌週、俺は彼を呼び出した。
理由は説明しなかった。
ただ、松林がまた来るとだけ伝えた。
研究室で交わされたふたりのやり取りは、聞こえない距離にいた俺にも、異様な熱を帯びていた。
松林が何かを渡し、沖山が静かにうなずいていた。
それが何の始まりだったのか、このときの俺はまだ知らなかった。
それから、時間が過ぎていった。
あの投稿を読んだ日の晩、俺はしばらく眠れなかった。
オキヤマショウ。
それが、沖山翔……いや、菊池翔の投稿者名だと気づいた瞬間から、頭の中で何かが軋みはじめた。
奇妙な筆致。異常な観察眼。そして、
あまりにも本人にしか書けないような、十編の物語。
だが、読み終えた直後、さらに気になることがあった。
そうだ。松林から、もう一ヶ月も連絡がない。
彼とは年に数回、近況報告がてら食事をする仲だった。
いつもは原稿の愚痴や、読者の感想メールの話をLINEで送ってきていたのに。
ここ最近は、連絡が途絶えていた。
それに、気になって松林のSNSを確認したが、更新が止まっていた。
公式HPは維持されているが、スケジュールは調整中のまま。
出版社の告知も、なぜか今月の新刊案内から松林の名前が外されていた。
不安に駆られて、出版社の編集者にそれとなく連絡を取ってみた。
すると、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「……ええ。実は、松林先生、ここ二週間ほど、連絡がつかないんです」
電話もメールも、全て音沙汰なし。
自宅にも何度か訪問したが、留守で、郵便物も溜まっているという。
失踪。
その言葉が、頭をよぎった。
だが俺は、ただの偶然とは思えなかった。
あの十編の不思議な話。最後の殺人の小説。
あれは、ただの創作じゃない。
それにしては、あまりに、あまりに生々しい。
そして、読み終えた最後の行。
『物語は、始まったばかり』
まさか、松林の失踪と、この作品がつながっているのだとしたら?
俺は震える手でPCの画面を閉じた。
そして、目を閉じた。
呼吸を整えてから、ふと思った。
今、この物語の続きを書いているのは、一体誰なんだ?
とある小説家からの依頼 七凪亜美 @0_0u_u
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