磯のよめじょ

白洲尚哉

          一



 切り立った岬の上に、若い女と男が立っていた。女は婚礼の振袖衣装、男は紋付に袴である。


久右衛門きゅうえもんさま、きっと、きっと、後を追ってくださいまし」

「ああ、分かっとる。きっと追うけんな」


 女は七ヶ浦しちがうらの村娘でお波といった。男は村の庄屋の息子で久右衛門という。

 ふたりは恋仲であった。

 しかし、浮世では結ばれぬ仲でもあった。

 久右衛門は庄屋の息子、お波は小作漁師である網子の娘。それだけならまだ良かったのだが、久右衛門は縁談によって、漁師を束ねる網元の娘まつとの婚姻が決まってしまった。

 ふたりが悲しんだのは想像に難くない。 

 ならばいっそと、こうして晴れ着を着て、岬から落ちて心中しようと決めたのだ。海の底で、きっと幸せになろうと。


「久右衛門さま、では」


 泣き腫らした顔を引き締め、さっと岬から飛び降りた。岬の下は岩だらけの磯である。岩に当たれば、死は免れない。

 だが、お波は即死できなかった。頭を打ち、足も腕も折れていたが、死んではいなかった。けれど、怖くなかった。きっと久右衛門がすぐに飛び降りてくれる。そうとばかり思っていたが——。


 久右衛門は飛び降りなかった。足がすくんでいたのだ。血に染まる磯を見て、無残な姿になったお波を見て、急に怖くなってしまった。

 久右衛門は逃げ出した。内心でお波に何度も詫びながら、岬を下りて、村のあるほうへ走って行った。


 ——久右衛門さま、どうして、どうしてお逃げになるの?


 体が痛い。涙が出てくる。しかしなにより、心が痛かった。


 ——そんな、久右衛門さま、あんまりじゃありませんか。


 だんだん頭がくらくらしてきて、視界がぼやけてきた。ただ辛かった。裏切られたのだ。愛した、心中まで約束した男から。


 ——久右衛門さま、久右衛門さま、久右衛門さま……


 お波は息絶えて、磯には晴れ着姿の女の死体が残った。

 後日、久右衛門は網元の娘まつと婚姻を結んだ。

 江戸時代の半ば頃の出来事であった。



          二



 一面に広がる石畳。曇天は晴れる気配もない。灰色に塗りつぶされた世界を貫くように、焦げ茶の塔が建っている。栄螺さざえ堂のような六角形を幾百幾千も重ねたような塔は苔むした瓦が葺かれ、その塔の先端は雲の中に隠れて見えない。


 塔の名前は八百識楼やおしきろうといった。


 塔の一階には観音開きの扉があり、その奥には番台のような空間がある。板張りのその空間には埃を被った書物が何冊か置かれている。中は吹き抜けで、中央にある番台から天井を仰ぐと、各階層の六角形の各辺に書架が置かれ、その中におびただしい量の書物が収められているのが分かる。床には唐櫃からびつ長持ながもちが積み重ねられ、分厚い埃が覆っている。


 この高楼は名が表す通り知の高楼だった。しかしこの高楼が収めている知識は、妖怪や妖物あやかし、化け物と呼ばれる類いに関するもので占められていた。

「さて、そろそろ手をつけっかねぇ」

 ぽつりと呟いて、八百識楼の主・五代目 八百識蔵司やおしきのくらつかさは吸い終わった煙管きせるの灰を灰皿へ落とした。十代半ばになったかなっていないかという年頃の容姿。髪は長めで、片目がすっかり隠れている。ややはだけた着物に袴、下駄を履いて、両袖を襷掛たすきがけにしている。


 蔵司は番台に座ると、煙管をくるっと回した。すると、上の階のそこここから書物が浮遊してきて、番台の大きな板の台に積み重なった。蔵司はもう一度、煙管を回した。書物はひとりでに浮き上がり、それが蔵司の前に漂いながら並び、ひとりでにページが繰られていく。

 いま浮いている書物には、『古今海魔考』『海霊萬誌』『海の鬼女の研究』などの題名がついている。蔵司は繰られるページの文章に、ふむふむと目を走らせ、繰り終わった書物は番台の端に置いた。例えば、『海の鬼女の研究』にはこのようなことが書いてあった。


 ——海に死せる女の霊、その気魂留まりて海の霊気妖気と混じり凝りて海妖と成せり。世俗にヌレオナゴ、イソオンナといへる海の鬼女もまた、これに依りて生まれたるものなり。


 読み終えた書物は番台の両端に固まって置かれ、書物の塔が十層を越えたあたりで、蔵司は煙管を振った。すると、書物の塔が浮き上がり、ふわふわと漂って、塔の七十五階にある真新しい書架に収められていった。

「ふぅ」

 蔵司が一息ついて、一服しようと煙管に煙草を詰めていると、ばたん、と扉の開く音がした。


「やあ蔵司。元気してるかい?」


 扉のほうを見ると、若い女が立っていた。

 女の髪は雪原のように真っ白で、長い睫毛も、形の良い眉も真っ白。くっきりした二重まぶたに大きな瞳。白いふわふわがついた真っ黒のコートを羽織り、背中にはリュックサックを背負う。リュックサックには、一メートル弱くらいの細長い黒革の袋が括りつけられていた。中性的な整った面立ちだが、髪は毛はねてぼさぼさで、コートは薄汚れてところどころほつれている。おまけに履いているジーパンは擦り切れて色が落ちており、出で立ちが整った顔を台無しにしていた。


 名を鴉羽堂からすばどう夜風よかぜといった。もちろん本名ではない。屋号である。

 妖怪退治を生業として生きる、若い退治屋だ。


「おう、鴉羽堂の。おめぇさんの心配にゃ及ばねえ。オレぁ不老不死だぜ」

「それもそっか、ははは。人外ジョークじゃん」

 にやり、と笑いながら夜風は塔の中に入り、番台にもたれかかった。

「で、なんだい。なにか知りてぇことがあんのかい?」

「いいや、この前知恵を借りたのの精算さ。最近妖怪を退治したんでね、その話をしにきた」


 この八百識楼では、知識を求める者に知識を授け、その代わりに新たな知識を持ってくることを求める。ここにある知識を求める者の多くは夜風のような妖怪退治屋か、妖怪や幽霊を視ることができる霊感を持った研究者のどちらかであった。

「そうかい、ちっと待ってろ。筆記をとる」

 蔵司は一旦煙管から煙草を取り、先ほどと同じようにくるっと振った。

 すると、番台の後ろにある箪笥の抽斗ひきだしが開き、中から紙と筆が出てきた。番台の台に紙が広げられ、筆から墨が染み出した。

「よし、いいぞ。なんてやつを退治したんだい?」

 夜風が口を開くと同時に、筆はひとりでに走り出した。



  

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