1938/8/15 (月)

 晴彦さんと初めて会った日。私は甲子園球場に居ました。特に何をするでもなく、ぼうっと試合を眺めていました。

 その日は学生野球の一回戦で、天気の良さも相まって、いつも以上にお客さんが押し掛けていました。私は何となく気まずくて、真ん中の席の辺りをうろうろしていました。

 白球が三塁線を切れる様子。使い古したバットがしなる様子。それに負けじと、声を張り上げて応援をする人の様子……。


 ……本当は、私も応援をしなければならないのです。そういう存在ですから。

 ああ、本当に。自分がイヤになります。


 それこそ、最初の方はちゃんとやっていました。人間の応援歌やら軍歌やらを、熱心に復唱していました。

 けれど、ある時聞いてしまったのです。「球場に怪異が出る」と。音が練習以上に大きくて、理由が分からず気味が悪いだと。それは紛れもなく、私のことでした。


 所詮、私は「不気味なもの」留まりなのです。改めて自覚すると、ぽっかりと穴が空きました。それ以来、妙にやる気が入らずに──。


 カキーン!


 ──快音と共に、打球が私の目の前に飛んできました。縫い目の一つひとつがくっきり見えるほど、至近距離まで迫ってきたのです。


「きゃっ!」


 人間じゃあるまいし怪我などしないのに、思わず反射で避けてしまいました。髪の毛すれすれを掠めた白球を見送った、その時。

 ダイヤモンドを駆け抜ける打者と目が合ったのです。彼の黒い瞳孔が、私の姿を射抜いていました。

 まさか、気のせいです。そう思ったのですが、試合が終わった後、彼が私の方に走り寄ってきたのです。


「さっきの、大丈夫だったか?」


 背の高い彼を見て、私は驚きを隠せませんでした。

 私が見えているのですか? 分かるのですか? 私に向かって、話し掛けているのですか?


「あ、はい……。大丈夫、です……」


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、上擦った声で返すのが精一杯でした。


「あ、あの……! 私のことが、見えているのですか……?」

「はぁ? お前、何言ってんだ?」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔。今まで存在すら認識されなかった私にとって、これほどまでに嬉しいことはありませんでした。


「お前、名前は?」


 晴彦さんは、真っ直ぐな瞳で私を見ます。純粋な人だなと思いました。


「名前は、ありません」


 私は話しました。自分は呼子のような存在です。皆さんがよくご存知なのは、山にいる呼子、「山びこ」でしょう。けれど私は日本に野球が来てから生まれた存在で、いわゆる「新参者」扱いでしたから、ロクな名前もないのです。


 こんな情けない私に、晴彦さんは「そんなんじゃ可哀想だな」と同情してくれました。


「そんじゃ、ノブ子ってのはどうだ? 女の名前でちょうどいいだろ」

「ノブ子……」


 ノブ子なんて、どこにでも居る平凡な名前です。でも何故か、その響きがストンと胸に落ちました。同時に、心がじんわりと温かくなるのを感じました。

 

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