睡眠経済圏

@sfx

睡眠経済圏


レイは目を閉じ、呼吸を整えながら意識をゆっくりと沈めていった。寝室は完璧に調整されていた。空気中には、睡眠を促進する精密に調合された神経調整物質「ノクタミン」が極めて低濃度で散布されている。その微かな甘い香りがレイの神経系に浸透し、脳内のメラトニンとセロトニンのバランスを理想的な状態へと導いていた。


睡眠経済圏――人間が眠っている間の脳活動を利用し、それをデジタル資源として売買する新たな経済システムだ。この経済圏が確立されてから、睡眠の質は個人の社会的価値を決定づける重要な指標となった。睡眠が深く安定している者ほど、その脳波データが企業や政府の巨大な計算ネットワークにとって貴重な資源となり、高い報酬が支払われる。


レイは、この新しい経済システムの中で特に成功した人物だった。彼の脳波パターンは「理想的」と評価され、市場で最も高額な価格で取引されている。睡眠資産家という新しい社会階級の中でも、レイは頂点に近い位置にいた。彼の暮らしは贅沢で快適そのものだった。


だがここ数日、レイはいつもと違う感覚に捉われていた。通常なら、ノクタミンの効果で意識が自然に緩やかな沈静状態に導かれ、やがて完璧な眠りの波に乗ることができた。だが最近は、意識が眠りの入り口で不自然な抵抗を受けているかのような、不穏な感覚があった。


抵抗の正体を確かめるように、レイは再び首筋を押さえた。 硬質な異物がわずかに震え、その振動が神経を逆なでる。

「またか……」小さく吐き捨てると、彼はそのまま手を布団の中に戻した。寝入りばなに訪れるこの疼きを、生活のノイズとして片づけようとしていた。


レイは眉間にしわを寄せた。睡眠スコアを落とせば社会的地位にも響く。彼は寝返りを打ち、もう一度深呼吸をした。だが次の瞬間、彼は自分の部屋の空気が僅かに乱れるのを感じ、はっと目を開けた。


部屋の隅には見知らぬ男が立っていた。その姿は薄暗い照明の中で、静かにこちらを見つめている。


レイは驚きと動揺を抑えながら、冷静な声を絞り出した。「誰だ? どうやってここに入った?」


男は質問に答えず、確かな声で告げた。「君に話さなければいけないことがある。君の睡眠は、君自身が思っているような単純なものではない」


男の声には落ち着いた確信があり、その言葉はレイの胸に冷たく重く響いた。レイはゆっくりと身体を起こし、男を警戒しつつも興味深く観察した。彼はごく普通のスーツを着ており、見た目に特別なところはなかったが、首筋の後ろに微かに青白く光る装置が見えた。


「どういう意味だ?」レイは低い声で問い返した。「僕の睡眠が単純じゃないとは?」


男は一歩進み出て、落ち着いた口調で答えた。「君は自分の睡眠が自発的で自然なものだと思っているだろう? だが実際は違う。君の脳波パターンは極めて精密に制御されている。ノクタミンはただの睡眠促進物質ではない。君が深い睡眠状態に入ったあと、特殊な信号で脳を刺激し、脳波パターンを企業が望む理想的な形に調整している」


レイは唇を引き結び、言葉を探した。「なぜそんなことを?」


「なぜなら君の脳波は今や巨大なビジネスの中心だからだ。君の脳が発する電気的な活動は量子コンピューターの計算リソースとして利用され、世界の重要な経済的判断に使われている。君が毎晩生成する脳波データは、億単位の収益を企業にもたらしているんだ」


レイはショックを隠しきれなかったが、まだ理解しきれていないことがあった。「それはわかった。だが、それが問題だというのか? 僕は何も困っていないし、損害も受けていない」


男の表情がわずかに硬くなった。「君自身は気づいていないが、企業はさらに次の段階を計画している。彼らは睡眠を一時的な資源から永久的な資源へ変えようとしているんだ。彼らはそれを『パーマスリープ』と呼んでいる」


「パーマスリープ?」レイはその単語を繰り返した。言葉の響きが冷たく耳に残った。


男は頷きながら続けた。「永久睡眠のことだ。つまり、君のような理想的な睡眠資産家を永久に睡眠状態に置き、その脳波を継続的に利用するというプロジェクトだ。君はその第一候補だ」


レイはその言葉に背筋が凍る思いがした。今まで自分が安全で完全に管理された世界で生きてきたという認識が崩れ、未知の危険が迫っていることを明確に感じ取った。


「なぜ僕にそれを伝える?」レイは声を絞り出した。


「君に選択の機会を与えるためだ。このまま企業に支配された快適な眠りを続けるか、それとも真実を知り、自ら目覚めるか」


レイは男の目をじっと見つめ返した。彼の心の中には不安と混乱が渦巻いていたが、同時に初めて、自分の人生を自分の意志で決める機会が訪れたのだと感じていた。


「真実を知るというのは、具体的にはどういうことだ?」レイは静かに問いかけた。


男は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに確かな口調で答えた。「君自身の過去を取り戻すことだ。君が今いる状況を理解し、その真相を受け入れるためには、自分が失った記憶を掘り起こす必要がある」


レイは困惑した。「僕の失った記憶?」


「君は知らないだろうが、数年前まで君自身が睡眠制御技術の開発に携わっていた科学者だった。だが、ある事故で君は記憶を失い、その後企業にとって完璧な被験者として再教育された。君が開発した技術が、君自身に適用されているんだ」


レイの胸に衝撃が走った。自分が科学者だったという事実すら全く覚えていなかった。「それを証明できるのか?」


男は静かに首筋に触れ、首の後ろに埋め込まれた装置を示した。「君と同じ装置を私も持っている。私は君の元同僚だ。私自身もかつては企業の研究者として働いていたが、君の事故をきっかけに、この計画の本質を知り、脱出した」


レイは深呼吸をし、自分自身の鼓動を静めようと努めた。彼が信じていた世界が音を立てて崩れ始めていたが、同時に新たな真実への道が開かれつつあった。


「僕はどうすればいい?」レイの声には決意が宿り始めていた。


男は静かに微笑み、小さなデバイスを差し出した。「これは君自身が開発した記憶再構成デバイスだ。これを使えば失われた記憶を取り戻し、自分の意志で人生を再構築することができる。ただし、その道は決して楽ではない」


レイは迷わずデバイスを受け取った。冷たく滑らかなその表面が、彼の指先で新たな決断の重みを感じさせた。


「使い方を教えてくれ」レイは慎重に言った。


男はゆっくりとデバイスを指差しながら説明を始めた。「デバイスを首の後ろに装着し、中央のスイッチを押す。それだけで十分だ。装置が自動的に君の脳内の隠された記憶にアクセスし、再構成を始める」


レイは慎重にデバイスを眺め、その中央にある小さなスイッチに視線を落とした。「痛みはどの程度なのか?」


男は僅かに目を伏せた。「それは人による。だが、過去の記憶が戻る過程で、混乱や苦痛を感じることは避けられない。君が過去に体験したあらゆる感情が、一度に押し寄せてくるからだ」


レイはもう一度深呼吸をした。自分の人生が根底から覆されようとしていることを感じながらも、もう後戻りはできないことを理解していた。


「覚悟はできている」レイの声は静かで落ち着いていた。「僕は真実を知りたい」


男は静かに頷き、優しくレイの肩に手を置いた。「それならば始めよう。君が目覚めるべき本当の世界へ」


レイはゆっくりとデバイスを首の後ろに装着した。微かな冷たさが肌を刺し、彼は一瞬震えたが、躊躇いはなかった。彼はスイッチに指をかけ、目を閉じた。


「さようなら、これまでの自分」レイは小さく呟き、迷わずスイッチを押した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

睡眠経済圏 @sfx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る