ようせいの幻滅

楓雪 空翠

 

 昼下がりの休み時間、半端な空調の効いた教室は蒸し暑く、周囲はこぞって下敷きやノートを扇いでいる。一方の僕は自分の席に座ったまま、彼女の意気揚々とした語りに相槌を打っていた。


「――――それでね、間一髪のところで時間を止めて、車にひかれそうになってた子供を助けたシーンとか、もうすっごくカッコよくて!」


 両腕を僕の机に預けて興奮気味に話しているのは、クラスメイトの美夏みなだ。普段は柔和で、絵に描いたような模範人間だが、ヒーローものの映画とか、現代ファンタジーの漫画だとか。所謂いわゆるスーパーパワーを持った主人公が人助けをする作品の話になると、僕の知る誰よりも真摯な昂りを見せる。


「あぁ、私も超能力が使えたらなぁ」


 彼女のは虚空を捉えて、きっと幻想に耽っている。恍惚とした、どこか物憂げな、整った顔立ちは神妙で、いつしか僕も魅了されていた――と言うよりむしろ、僕は彼女に寄生しているのだと思う。


「ねぇ、君はさ、もしもだよ。もしもなにかすごい力が、一つだけ手に入るとしたら。君は、何が欲しい?」


「うーん……」


「なんでもいいんだよ」


「……人の心を読む力、かな」


「へぇ〜?」


 美夏は絵に描いたようなニヤけ顔で、仰々しく頬杖を突いた。適当なことを言ってみたはいいが、勝手に邪推をされても困る。間近に重なった目線を少し逸らし、ぶっきらぼうに訊き返した。


「そう言う美夏は何が欲しいんだよ」


「よくぞ聞いてくれました!私はもちろん、困ってる人を助けられる力が欲しいな」


「自分で話振った割には、やけにアバウトな気がするけど」


「細かいことはいいの」


 そう言うと、美夏は明様あからさまに腕を組み、そっぽを向いた。わざとらしいなぁ、なんて微笑わらうものの、彼女の仕草一つが絵になるのだから、なんとも不思議なものだ。僕がいつものように感心していると、美夏が今度は手をぽんと叩いた。


「そうだ、今度の日曜日、流星群見に行こうよ」


「流星群?なんでまた急に――」


 言いかけた僕の声を、六限の予鈴が遮った。また後でね、とだけ残し、彼女は自分の席へと戻る。美夏は流星群なんかに興味があったのか、一体どこで流星群なんて見るつもりなのか。それ以上に余韻を残したのは、また後があるのだということ。ふと、彼女は僕をどう見ているのだろう、と思った。


 僕はかつて、彼女を都合の良い踏み台として見ていた。




 僕が美夏と初めて話したとき、君の小説を書かせてほしい、なんてことを言った。そこには大した悪意もなく、単にそれが僕にとっての利益になると思っていた。才色兼備な彼女のことだ。薄っぺらな関係でも築いておいて、僕よりよっぽど有望なその将来にあやかれば、楽に名声が手に入ると思った。


 二つ返事で快諾した彼女に多少の罪悪感を抱きながらも、僕はその日から取材を始めた。それなりに書き物を好いてこそいたが、てらった言葉で着飾ってばかりの僕には、ありのままの人間を描くことなど到底出来そうにもなかったのだ。彼女の好きな色、好きな食べ物、好きな音楽。日々の会話の中で、彼女はその全てを親切に教えてくれた。


 そうして美夏という一つの人物像が僕の脳内で形成されるなか、彼女も完璧ではないことを知った。実は朝に弱いこと、未だにパプリカが苦手なこと。寧ろ、僕よりも幼稚にさえ見えた。自らの弱みを平然とさらす彼女を前に、それを利用しようしていた自身の浅薄な卑小さを思い知った僕は、何事もなかったかのように一人の友人として彼女に接し、挙句の果てには好意すら抱いている。


 僕はきっと誰よりも知っているが、きっとを全く理解などしていない。過ちを悔いてなお、無尽蔵の慈愛を貪って、他愛もない日々の会話の心地よさに酔い痴れて。身勝手に欲を満たすだけの僕は、美夏の瞳にどれだけ醜く映っているのだろうか。




 あれから、瞬く間に数日が経った。週末にしては早めのアラームで目を覚まし、部屋のカーテンを開ける。連日の補習で気が滅入り、長らく足元と手元ばかり見ていたが、八月最後の蒼穹は確かに夏の色をしていて、雲一つないそれが静寂の街を呑んでいる。寝惚けた頭に染み込んだ真っ白の日差しに、どこか快い気怠さを感じていた。


 顔を洗って寝巻きを着替え、朝食を菓子パンで済ませながら、流星群を見に行くにはあまりに早い集合だな、なんてことを考えた。せっかくだから海にも行きたい、なんて言っていた美夏だが、ここから十五キロの海まで歩いても暇を持て余すような、日曜日の午前九時である。


 鞄に荷物をまとめて家を出ると、まだ冷涼な朝日に目が眩んだ。美夏との待ち合わせ場所は校門前。どうしてここを選んだのか、それを敢えて訊くのは野暮だろうか。いつも通る道の、ただ少しの身軽さが、自然と僕の気分を高揚させていた。




「おはよ、美夏」


「あっ、おはよう!昨日はよく眠れた?」


 柵越しに校庭を眺めていた美夏に声をかけると、眩しい挨拶が返ってきた。制服を端正に着こなす普段とは対照的な、ゆったりとしたフリルの白いワンピースが目を惹く。如何にも夏らしい麦藁帽子の映える姿に、口許が微かに緩んでしまう。


「まあまあかな。それより、なに見てたの?」


「べつに。ちょっと考えごとかなー」


「へぇ、また八百長ドラマの考えごと?」


「あっまた八百長って言った!」


 そう言った美夏はいつものように頬を膨らして、僕の左腕を小突いている。それをいなしていつものようにおどけると、ひどい!もう知らない!なんて半笑いで言いながらも、一人ですたすたと歩いて行ってしまったから、僕は慌てて彼女を追いかけた。



「――それで、こんな早く呼び出して、海まで歩いて行く気?」


「お〜、よく分かったね。もしや君エスパーか?」


「……えっ歩き?」


「いいじゃん、たまには散歩でもしようよ。寄り道だってできるしっ――」


 言い終わらないうちに道を逸れた美夏は、道端にしゃがみ込んで野良猫を撫でている。満更でもないように喉を鳴らす猫に、僕もゆっくりと近寄ってみたが、案の定とでも言うべきか。こちらに気づくや否や全力疾走で逃げられ、おまけに美夏にもからかわれてしまった。


「君ってほんと動物に嫌われるよね〜」


「これに関しては、美夏が異様に好かれてるだけだろ」


「異様とは失礼なっ……私はただ、あの子たちの目線に合わせてるだけだよ」


 ――確かに彼女は、膝高にも満たない猫の目線と水平になるくらいに、慎重にしゃがみ込んでいた。それが野生的な本能の類なのか、もしくは醸す雰囲気の所為せいなのか。少なくとも先程の猫は、目線を重ねた彼女に気を許していた。


 思い返してみると、美夏はそれを日常的に、あたかも発話するために口を開くかのように行っていた。実際のところ、彼女に心を許している人間は数も知れない。しかし、眼を見つめるだけで解り合えるなんて、そんな魔法は所詮ただの妄想に過ぎない、机の上の理想論だ。




 それから歩みを進め、増える夏草に家もまばらになると、ようやく目を覚ましたアブラゼミが輪唱に興じ、木陰の色もコントラストを強めた。時折アゲハチョウが寄ってきては、華美な羽根をひけらかしながら、美夏を高みから弄んでいる。


 夏を具象化したような景観の中を進んでいると、新緑に溶け込む商店を見つけた。開け放たれた木枠の引分け戸からは、棚に積まれた駄菓子が垣間見える。何気なく通り過ぎようと思っていたが、レジ横の冷凍庫を埋め尽くす氷菓あいすに目をつけた美夏につられ、休憩がてら立ち寄ることにした。



「ど・れ・に・し・よ・う・か・なっ」


「そんな適当に決めていいの?」


「適当じゃないよ、なんだから。人智を超えた運命の引力で――」


「わかったわかった。好きに決めていいから、難しい話は遠慮しとく」


「もー、すぐそうやって逃げるんだから」


 美夏は少し不満げに零し、指差しのルーレットを再開した。表情をころころ変えながら指先を進め、止まったのはありふれたソーダ味の棒付き氷菓。やけに嬉々とした表情に、はじめからそれ選べばいいだろ、なんてことも思ったが、敢えて口に出す故はない。僕も適当なものを手に取り、埃を被ったサーキュレーターで涼むレジへと向かった。




 「おいしいねー」


 商店から少し進むと、海のある隣町に出た。信号待ちの交差点で、氷菓を頬張った儘の美夏が隣から顔を覗かせる。しゃくしゃくという咀嚼音に、道路脇を流れる河川のせせらぎに、向こうの青信号のさえずりに。しかし、照れ隠しの口実は果たして思いつかず、彼女に視線を捕われた。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳には、吸い寄せられた青が錯乱している。


 …………ずっと見つめていたい、そう思った。もっと近くで、もっと確かに、彼女を見ていたい。傍に居たい、触れていたい。そんな美しいであろう感情が、汚れた僕の心にナイフを突き付ける。かつて彼女を私利私欲のために利用して――今なお独りよがりに縋っている僕が、彼女を求め独占するなど、きっと許される所業ではないのだ。


 今でも僕は、僕の愚かさを呪っている。人の温もりにつけ込んで、その癖あわよくば彼女がそれを忘れていることを願うような、ひとでなしの醜悪な化物だ。……でも、美夏だって等しく愚かだ。見返りのない善意じゃ、誰一人も救えないくせして。他人にいいように利用されていることにも気づかない彼女の、短絡的な愚鈍さを羨んでいる。



「――――ねえねえ、どうしたのー?」


 美夏が目の前で手を振って見せて、僕の顔を覗き込んでいる。きっと、不意に黙り込んだ僕を不思議がっているのだろう。きょとんとした、あどけない面持ちの彼女と、じっと見つめ合う。


「あれ、本当にどうかしたの?君はいつもすぐ目逸らすのに」


「……え?あぁ、ごめん」


「べつに謝ることでもないけどさー。……それで、君も考えごとでもしてたの?」


「うん、そんなところ」


「ふぅん」


 刹那、彼女の目からふっとハイライトが消えた、気がした。瞬きをすれば、美夏が氷菓を咥えて、早く食べないと溶けちゃうよ、なんてもごもご言っている。手元に目を遣ると、溶けたそれが少しずつ指に垂れていたから、慌ててかぶりつく。


「あっ、いつの間にか青になってたね」


「ほんとだ。今のうちに渡ろ」



『あっ』


「……信号、また赤になっちゃうねー」


「……仕方ないから、もう一回待とうか」


 タイムリーに点滅しだした信号機があまりに可笑しくて、二人とも笑みが溢れてしまった。こんな調子では、いつまで経っても海に到着しないような気さえしている。同時に、こうした何気ない時間が一番楽しいんじゃないか、とも感じていた。近くの海は、まだまだ遠い。




 美夏と言葉を交わしながら、まだ少し傾いた太陽を見据えて歩く。木陰の小道で枯れ忘れたアジサイを見つけ、田んぼの畦道で未だ蒼い稲穂を撫でる。狭い歩道で繋いだ華奢な手は、血色を白昼へ微かに透かした。あれこれ余所見をしながら歩く美夏は、手頃な木の枝を手慰みに拾っては、空に落書きしたり、腐葉土を引っ掻いたりしていた。


 再びアスファルトに戻ると、雑踏と潮風の香りが徐々に濃さを増した。遠く向こうに目を凝らせば、雑居ビルに覗くのは煌々たる水平線。行き交う自動車のエンジン音も、賑わう町中華の煩雑も、随所に吊るされた風鈴の音に沈んだ。


 日陰を選び、歩道橋を渡り、人波をかわして歩く。舗装路に反射する熱線が肌を火照らし、吹き抜ける涼風が流れる汗を冷やした。街並みが開けるにつれ、海岸に近付くにつれ、少しずつ心が高鳴るのを感じながら、美夏と二人で進んでいく。



「やっと着いたー」


 海面が見えるや否や、美夏は砂浜手前の土手に座り込んでしまった。手を突いて天を仰ぎ、疲れたー、なんて息をいているが、綻んだその表情を見る限りは、どうやらにご満悦のようだ。そんな彼女を眺めていた僕にも、糸が切れたような疲れがなだれ込んで来て、その隣にゆっくりと腰を下ろした。


 丁度良い頃合いだからと昼食を急かす美夏をなだめつつ、コンビニのレジ袋の口をほどく。プラスチック容器の冷やし中華は少し具材が乱れていて、美夏のサンドイッチは端の方が若干潰れてしまっている。しかし彼女は気にする様子もなく、袋から出したそれを手渡そうと思った頃には、既に包装を開けて美味しそうに頬張っていた。


「せっかくなら、デザートも買っとけばよかったねー」


「あとから買いに行く?」


「行こ行こ!」


「日が暮れるまでここに居たら、さすがに飽きるから」


「ごめんってば〜」


 美夏には軽く愚痴りつつも、実際は存外退屈なんてしないような気もしていた。しかし、仮にも折角の夏休みだ。娯楽の消費に効率や意義を求めるのはいささか無粋だろうが、どうしても夏を浪費する気にはなれなかった。終わりが見えない間は本当に終わりが来ないかのように錯覚するくせして、残りが僅かになれば一向ひたすらに延命措置を試みるのだから、大層にご都合主義な生き物だな、とつくづく思う。



 昼食を済ませた僕らは、その足で目前の波打際へと向かった。早とちりした美夏は、ぴょんぴょん駆けながらスニーカーと靴下を脱いでいる。カニの骸に騒ぐ彼女のもとへ歩きながら、広がった海原を一望すると、それは変わらず煌めきを纏って、炎天に茹だる僕らをいざなっていた。


 はしゃぐ彼女を遠目で眺めているつもりだったが、有無を言わさず手を引く彼女に強請ねだられ、遂に根負けした僕も素足になって、揺らめく浅瀬を踏んだ。この真夏日でも海水は岩肌のように冷たく、しかし確かな心地よさと柔らかな砂地に包まれ、ふっと身体が軽くなるような感覚を体験した。


 衒らかすような猛暑を中和する冷たさに、口の中でよろこぶ僕を眺めていた美夏は、さざなみを掻き分け、右に左に往復している。飛沫で裾が濡れるのもいとわず、海を撫で、砂を撫で、引いては寄せる波の間隙をたおやかに彷徨していた。


「――あれ、なに見てるの?」


 見惚れる僕に気づいた彼女は、後ろ手に組んでこちらを眺めていたが、そのうち頬を微かにあからめて、麦藁の帽子を深く被り直した。僕は、彼女を見ている。しかし、それが美夏か、僕の瞳に映った彼女の虚像かは定かではなく、それが大した意味を持っていないようにも思えた。


 楽しいという感情と、楽しむ資格を問う自責が。共有する空間の快さと、近付くほどに肺を押し潰す自己嫌悪が。腹の底でとぐろを巻いた表裏一体のそれらが、それでいて相反する儘に共存して、いつまでも僕を苛む。いつしか僕の思考はから乖離かいりして、いつ崩れるとも知らぬ張りぼての尖塔を築いていた。


 時折、可能性というものに想いを馳せることがあった。未来を一つ変えるためには、一体幾つの過去を書き換えなければならないのか。数多の模範解答を選りすぐり、切り捨てた可能性の屍に立つ未来で、僕は美夏と笑い合えるのだろうか。……無論、彼女がそれを望むとも限らないから、きっとそれすらも恣意的な絵空事なのだ。


 それでも、


「なに呆けてるの。君もほら、こっちにおいで」


 彼女は僕の手を引いて、明るい方へと連れて行く。そうすればまた、心の奥底につっかえたものは見えなくなって、彼女に縋る自分を赦すことが出来る。それが無責任な逃避だとは理解しつつも、いつもの眩しい笑顔に絆された海市蜃楼かいししんろうは、水を跳ねる音と共に泡沫と散った。




 水面上で躍り、貝殻を拾い集め、それでも日没までの猶予を持て余した僕らは、人気ひとけを取り戻した昼下がりの街中へと繰り出した。アーケードのカフェでかき氷を食べ、いつ振りかの児童公園のブランコにも飽き足らず、映画とポップコーンまで満喫したところで、ようやく夜空が色附き始めた。


 気づけば昼からずっと食べてばかりだから、夕食は適当なものをテイクアウトして、僕らはショッピングモールを後にした。すっかり鴉羽からすばに染まった空に、かの水平線も黄金の輝きで応えている。前照灯の行き交う道路沿いを、スマホで照らしながら歩く。暗然も、静寂も、その全てが不思議と壮観に映った。


 再び砂浜を踏み締めたとき、てっきりどこかこの辺りに座を占めるものだと思っていたが、美夏にはどうやら特等席の見当がついているようだ。はやる彼女に手を引かれるが儘に、月輪がちりんが夜光虫をそそのかす波打ち際に沿って、左の方へと歩いた。



「こっちに歩くとね、ほら、あそこ。そこに高い岬があって、すっごく景色が綺麗なんだよ」


 指差して得意気に言う美夏は、余程その穴場を気に入っているようだった。確かに僕は、彼女に連れられるまでにここを知るどころか、敢えて大海を前にして余所を見ることもしなかった。彼女の好奇心に感嘆詞をらし、悠々としてせり上がったそれを目で辿なぞりながら、生い茂った雑草を踏み分け歩いた。


 勾配を登るにつれ、周期的な波の音が少しずつ遠くなり、同時に瞬く天球へ少しずつ近付いていくような感覚を味わった。辺りは随分と夜に染まり、三等星ですらその輝きを遥かに届かせている。肌理きめ細かい麻布を透かしたような夜空を戴天し、僕らは岬の頂に腰掛けた。


「さすがにこんな暗いと、景色なんてわかんないね」


「そりゃ夜だからね。どっからでも変わんないでしょ」


「そうだよね〜」


 美夏の声は明るい儘、しかし微かに曇った困り顔を、燦然さんぜんたる月光は照らす。口下手なりに慰めようとするが、彼女の善意をおもんばからず、あるいは心にもない薄っぺらな言葉で信頼を無下にすることが、ただ漠然と怖かった。口にしたそれが僕の心象を完璧に代弁したならば、どれだけ――――


「いいよ、無理に慰めようとしなくたって」


「……えっ」


「君そういうのガラじゃないでしょ」


「いや、そう……だけど、そうじゃなくて」


「あれ、じゃあ違った?」


「合ってるんだよ、ドンピシャで。なんで?」


「さあ、なんでだろうねー」


 不意に寝転がった彼女は、笑みを口に含んで、こちらを見つめている。


「たとえば。私が君の心をハイジャックしたとか!」


「そんなこと……いや、美夏ならやりかねないか」


「ふふっ、なにそれ。いったい私のことなんだと思ってるんだか」


「超能力マニアのヒーローオタク」


「んー、ぐぅの音も出ないなぁ」


 乾いたような笑いをあしらって、彼女は宙を見上げた。ふと、思いついたかのように起き上がって、僕を手招く。ひんやりとした芝生に身体を預けて二人、有限の沈黙の中で流星を待っていた。




「私ね、小さい頃からずっと、妖精になりたかったんだ」


「……急に?」


「べつにいいでしょ、夜は長いんだから」


「だめとは言ってないけど。それで?」


「それでね、まぁ数年もすれば、羽根と魔法の粉で空を飛ぶのは諦めたんだけど。魔法でみんなを幸せにしたいって夢のほうは、どうしても諦めきれなかったんだ」


「へぇ、それで。じゃあ、美夏はただのマニアじゃなかったわけだ」


「そう。でも、人救いなんて、なかなか上手くいかないんだ〜」


 半ば自嘲混じりに零して、美夏は大きく腕を伸ばした。な微笑が貼り付いた彼女の横顔を見つめていたら、流れ星だ!なんて唐突に指差して、僕はそれを見逃してしまった。



「美夏はべつに、魔法なんか使えなくても、むしろそこにいるだけで救われてる人だっていると思うよ」


「……やっぱり君は、平和な頭してるね」


「それ褒めてる?」


「もちろん。平和に越したことはないでしょ?でも、私は違う。私には、私が誰かを救うことと、誰かが私を通して自分を救うことが、同じことだとは思えない」


「そっか……でも、それってそんなにこだわる必要ある?結果として誰かが救われるなら、そこに大きな違いなんて――」


「あるよ。だって、そこにいるだけの存在なんて、いくらでも代わりが効くでしょ?それに、たくさんある切っ掛けの一つになったとしても、それはきっと前を向く理由にはなれない」


 半身を跳ね起こして発した、美夏の真摯な口調は、胸中を吐露した静かなさけびともとれた。それが彼女を飽和するものなのか、綻んだ一糸に過ぎないのか。僕には到底計り知れず、しかしそれを否定も肯定も出来ずに、ただ首肯の形骸を連ねるのみだった。


「だからね、君が私を小説にしたいって言ったとき、正直びっくりしたんだ」


 刹那、心の臓がきゅうと締まる音がした。塞がった喉を取り繕おうとして、けれどやはり言葉は出て来ない。これではまるで、蛙に怯えた蛇だ。


「大丈夫、最初からそんな気はしてた。ずっと気づいてないフリしててごめんね。でも、ほんとに責めるつもりはないよ。むしろ、君に利用されてるのに、私は嬉しかった、なんて。おかしいよね、こんなこと言うの」


「……美夏は、僕がズルい人間だと思った?」


「思ったよ。でもね、それ以上に、君が他でもない私を必要としてくれたことが嬉しかった。君は私にしか救えないんだ、って」


「それは……」


「きっと君にとっては、いい題材で小説さえ書ければ誰でもよかったかもだけど。それでも、君の助けになれたのは、私がだったから。そうでしょ?」


 つまり美夏は、故意的に僕に利用されていた、とでも言うつもりらしい。彼女はそれでいいかも知れないが、それではまるで、僕のよこしまな所業を正当化するようなものではないか。それを素直に受け入れられない自分が居るのだから、僕は内心、彼女に見放されることを望んでいたのだろうか。矛盾を孕んだ心情に、思考が掻き乱される。


「君がそれを望まないなら、向き合わなくたっていい。でも、逃げちゃだめ」


 変わらず笑顔で僕を見据える彼女の瞳は、その奥深くに、一種の鋭利な冷たさを纏っていた。


「そんなわけで、君の気が向いたときでいいから。いつかきっと私の小説を書いて、一番最初に読ませてね」


「気が向いたとき、か……うん、善処はするよ」


「じゃあ、決まりね」


 美夏はそう言うと夜空へ向き直り、再び流れ星の待ちぼうけを始めた。僕もそれに倣い、紺青色の舞台と相対し、瞬く星々の間を縫うように目を走らせる。際限なく広がる星座に、しかしはぐれたそれはなかなか見つからない。




「――美夏」


「なに?」


「僕らは……いつまで僕らのまま、このまま一緒にいられるかな」


 可能性の希求より、不変の未来を望む許しを請うていた。僕は変わらず彼女に寄生し、それが彼女の空腹を満たす。僕らは果たして僕らの儘で、社会性みてくればかりが大人になっていく。そんな妄想は余りに稚拙だから、無常の世で人間らしく生きていかなければならないのだと。


 君がそう言っていたならば、僕はきっと君の鳥籠でことはなかったのだろうか。


「君が私を嫌いになるまで、死ぬまで一緒にいたいな」


 どうして僕が、君を嫌うことが出来ようか。無責任に夭逝いちぬけした君を、僕は今でも確かに好いている。


 ――――ならば君は?


 夢破れた君は、何を思って生きてきたのだろうか。夢のない幸せな日常を謳歌する僕を、どんな目で見ていたのだろうか。化けの皮に潜むじゃない君を、僕はとうとう垣間見ることも叶わなかった。いくら君を想ってペンを走らせても、僕の知らない君を描くことなんて出来やしないのだ。


 あれから半年と一月ひとつき足らず。悠久の日々の中で完璧じゃない君を見たのは、あの夜が最初で最後だった。しかしあの時の僕が、一体君の何を知り得たと言うのだろう。記憶の中で生き続ける君はただの虚像で、たとえどれだけ解像しようと、決してぼやけゆく人物像の反芻以上の意味を持つことはない。



 ────なんて、思い出せることを連々つらつらと書き殴ってみたはいいものの。こんなラブコメにも青春ドラマにも満たない冗長な私小説を、君はちゃんと読んでくれるだろうか。誰かが救われる話なら興味くらい持ってくれるだろう、という期待は、余りにふざけた気休めにしか思えない。


 君だって、そう思うだろう?


 しかし、やはり僕らの結末は、ハッピーエンドでなければいけない。八百長なんて願っても叶わないが、せめて希望が持てる話にしよう。喩えば、流れ星に願いを込めるような。諦めかけた帰り際に煌めいた一筋の僥光ぎょうこうに、今際の際の望みを希うような。




 今一度、僕は世界に何を願おうか。



 最後の夜に、最後の一節に、どんな願いを綴ろうか。



 ペンを置いて、目を瞑って、の世界に想いを馳せて。



 夢を語るには十二分な今宵、ゆっくりと考えよう。






 なにせ、夜は長いんだから。

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