1話:柚子と真白

 夜の帳が下りる頃、家の中は静寂に包まれていた。


 俺――柚子は、部屋の隅にあるもう一つの自分の領域へと足を踏み入れた。

 シックな黒のドレス。その袖には、赤い刺繍が繊細に施されている。


 鏡の前で、俺はその衣装を手に取る。ドレスに合わせて選んだレースの下着もすでにベッドの上に並べてある。ひと目見れば、誰もが思うだろう。「これは少女の衣装だ」と。


 けれど、それを身にまとうのは、俺――橘柚子だ。


 部屋の一角には、もう“橘柚子の生活”では説明のつかない空間がある。

 そこは完全に、“雪峰真白”としての俺のためだけに作られたクローゼットダンス。ドレス、ブラウス、スカート、私服、下着、アクセサリー。あらゆるものが丁寧に整えられ、季節ごとに入れ替えられている。


 俺は真白という存在を嫌っていない。むしろ、かなり気に入っている。

 だからこそ――彼女の衣装を選ぶときは、絶対に妥協しない。


 もちろん、一人で服を買いに行くのは難しい。

 それは“男の俺”として人の視線が気になるからだ。けれど、妹の雪音と一緒なら、ただの仲良し兄妹か、少し年上の彼氏にしか見えない。


 雪音には悪いが、買い物のときはいつも頼りにしている。……まあ、ついでに雪音の服も買わされるけど。


姿写転換ヴィセ=フィレティア


 魔法が身体を包み込む。視界の高さが微妙に変わり、筋肉の感覚が薄れ、喉の構造すら違って感じられる。


 鏡に映ったのは、肩まで伸びた銀髪の少女。艶やかな肌、優しい眼差し、そして細い体躯――雪峰真白。


 俺のもう一つの姿。


 ラフな部屋着を脱ぎ、ベッドに並べていた下着とドレスを身にまとう。胸元を整え、腰のラインにシルエットを沿わせる。

 ヘアアクセサリーを選び、前髪を少しだけ整えた。


「ほんとに……可愛いよな。真白って」


 先程まで低いテノールボイスだったのに対し、今の声色はソプラノボイスに変わっている。それは魔法で性別を変えた証拠でもあり、俺自身が俺でいられるもう一つの姿だった。


 パソコンを立ち上げ、配信ソフトを起動。マイク、ヘッドホン、音響バランス――すべて確認済み。 あとは、魔法で背景とエフェクトを微調整すれば完璧だ。


 現在は待機画面。和風のイントロが流れ、PVが流れている。真白の歌声が、静かな夜を優しく包み始めた。


 ある程度流れたあと、配信開始ボタンを押し俺は、画面の向こうにいるリスナーに挨拶をした。


「みんな~こんばわぁ! 今日も定期配信始まるよ〜。一時間だけだけどみんな楽しんでね。あ、寝る人はしっかり寝るんだよ? お約束ね」


 ヘッドセットと配信用マイク越しにリスナーに向かってそう告げる。


 コメント欄が、滝のような速度で流れていく。


『始まった!』

『今日も癒されに来た!』

『いつも睡眠導入で使わせてもらってます』

『今日は何歌ってくれるんだー?』


 俺、真白という偶像に期待を寄せてコメントをするリスナー。それに対して、軽く話したあと、歌を歌う。


 いつもランダムで選曲しており、数あるうちのお気に入りの曲や癒やしをテーマにしたものを多く使う。俺は、手元に魔法で出現させたセットリストを見つつ、一時間に収まるようきっちりと時間計算をしながら歌を始めた。


「今日はみんなの疲れを癒やすための配信だよ〜。じゃあ、早速歌うね。月影ノ導つきかげのしるべ


 和風なピアノの旋律がイントロとして流れ出す。コメント欄は大いに盛り上がっていた。


『月影だ! これ聞きたかったんだよなぁ!』

『和風なのがめっちゃ俺に刺さる!』

『あぁ、落ち着くぅ』


「夜の〜道へと〜」


 防音魔法を部屋に施しているため、歌声が外に漏れる心配はない。静かで厳かな歌が始まり、配信画面の向こうにいるコメント欄のリスナーたちは、先週の仕事の疲れ、休日の疲れがゆっくりと抜けていく。それは俺の、魔法によって生み出される産物であり、歌の真実でもある。


「そうそう、そう言えば、昨日の東京のライブどうだった?」


 一曲目を歌い終え、先日行われた東京ライブを振り返りながら、俺は視聴者に質問をした。


『最高だった!』

『くそう! チケットが当たっていれば!』

『その日仕事……』


 チケットが当たってライブに参加できた人、当たらなくて悔しがっている人、行きたくてもいけない人。様々な反応がコメント欄に流れている。


 俺はそれを見つつ、的確な言葉で伝える。


「ライブって当たらなかったら悔しいよね。私も悲しくなる。本当に来たいと思ってくれる人に当たればいいなって思う。……でも、抽選だからね私では決められない。あ、でもでも――今回の東京ライブと、前回の北海道、落選しちゃった人には、次のライブ……すこ〜し当たりやすくなってるはずだよ♪」


『じゃあ、俺次当たるかもしれねえ! おおお!』

『マジか……当たりやすくなってるかもしれないなら、チャンスは有る!』

『真白優しすぎる……!』


 次に行われる、名古屋でのライブも、もちろん抽選形式である。どうせなら俺も本当に来たいと思っている人に当たって欲しいし、何なら来てほしいとも思う。せっかくファンになってくれているのだからこそ、そう思えるのだ。


 軽い雑談を終え、また歌に戻る。いつも数曲歌って、少し雑談をして終わる。それが定期配信での俺、雪峰真白としての責務である。


「じゃあ、次の曲で終わりだよ! 明日学校の人も、仕事の人もこの曲で元気を出して、この一週間乗り切ろう!」


 いつも配信の最後で歌うと決めている曲。灯火-tomoshibi-という曲。

 この曲は、静かで配信やライブのエンディングにふさわしい曲。 少し和風チックであり、バラード風。


 俺が作成した中では自信作と言ってもいいほど……。その自慢の曲を歌い終えて、配信を終える。しっかりと配信が切れていることを確認しパソコンをシャットダウンする。


「ふぅ〜……今日も頑張った! 偉いぞ! 私」


 着ていた服は一時間だけであるため、そのままクローゼットにしまい、風呂に行く準備をする。


 この時間に風呂を入るのは俺だけなので、なんの気なしに真白として風呂に入る。無論、真白の状態を解除しないわけではなく、俺なりに真白にも風呂に入れてあげたいという思いだ。


 なので、俺は真白用のタンスから下着類を取り出し、寝やすいキャミソールとチュニックを取り出す。


 明日は学校。柚子としての日常が、待っている。

 でも俺は思う。


 【真白でいる方が、正直……楽だ】って。


 ――――――――――――――――――――――

 

 第二項:魔法庁は、国内外すべての魔術的行使および理論を統括・監理する唯一の機関とする。



真白の配信


《灯火 -tomoshibi-》

作詞作曲・歌:雪峰 真白(橘 柚子)

(ジャンル:静謐×叙情バラード/エンディングテーマ)


【1番】


静けさに包まれた 夜の隙間(すきま)に

一つだけ灯る 小さな火影(ほかげ)


君の声が 遠く揺れて

記憶の奥 そっと触れた


**涙を隠した あの日の空へ**

今 また歌が 届きますように


 


【間奏〜詠唱】


フェイナ・リア=ティレル(Feina Ria = Tirel)

「君を照らす灯火となれ」


(囁くように歌われ、感情の呼吸と共に響く)



【2番】


季節は巡り 言葉は色あせ

けれど残るよ 想いの輪郭


忘れられる その痛みも

誰かに届く 光になる


**閉じた扉に 鍵は要らない**

心の中で 君は生きてる


 


【サビ前〜詠唱】


アリセト・フィーン=カラーネ(Ariset Fin = Karaane)

「希望は、名もなき風に宿る」


(少し息を吸い、光が揺れるように歌が盛り上がる)


---


【サビ】


ほら 夜が明ける

その瞬間(とき)を 見逃さないで


たとえ 世界が 忘れても

私が 覚えてる


誰かの明日を 灯すために

今日を生きていこう


 


【ラスサビ前〜詠唱】


レティア=ロス・フェリア(Letia = Ros Felya)

「再び、君を迎える歌を」


(ラストサビへ突入する直前の静寂と緊張感の中に)


【アウトロ(囁き)】


灯火は 風に揺れて

けれど、決して 消えない


スレリア・ナ・リオン(Sureria na Rion)

「祈りよ、夜を越えて」


(ほとんど呟くように歌われ、静かに余韻を残して終わる)


---

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