第14話 家族
「果歩、今日は出かけないのか?」
日曜日の朝、父親が朝のんびりしている果歩に声をかける。
「ううん、今日は図書館行く予定」
「そうか」
あからさまにがっかりした声だった。
「どうしたの?」
不思議に思い、再度尋ねる。
「いや、翔くん、今週久しぶりに休み取ってたからな、てっきりお前と出掛けるのかと思って」
父親から意外にもプライベートな話をされ、果歩は驚く。これまで、父から彼氏の有無など、恋愛関係の話をふられたことはなかった。もしかしたら、会社で翔が父親に何か言ってるのかも知れないと思うと、翔を今すぐ問いただしたくなった。
「そんな、いつも会ってる訳じゃないよ」
「そうか」
父はどこかがっかりしており、同時に何か言いたげな態度が気になった。
「何か翔くんから聞いたの?」
「いや、翔くんは、その、つまり、果歩が市役所受けることも納得してるんだよな? 翔くんは果歩が役所に入るより、ワイナリーの仕事手伝ったり、家にいて欲しいのかと思ってな」
父の先走り過ぎた言葉に果歩は果歩は驚いた。
「ちょっと待って。別に私、翔くんと付き合ってるわけじゃないよ」
「そうなのか?」
今度は父が心底驚いた声を出す。
そうなのか、と聞かれると100%違うとは言えない。まだ付き合ってはいない、としか言えないし、そんなことを父親に弁解するのもおかしな気がした、
父は少し迷ったように言い出した。
「翔くんから、たまに一緒に出かけてるって聞いてたから、お前たちは付き合ってるものだと思っていたよ」
「それは…」
確かに間違ってはいない。でも、まだ心が固まっていないし、父親の世代では、まだ男女の友達という概念が一般的ではなかったのかもしれないとも思う。とにかく、二人で会っているからすぐに付き合っているとか、ましてや結婚するなどと思われていたらどうしよう、と果歩は焦った。
「翔くんは仕事でこれからどんどん忙しくなるし、海外に行くこともあるだろう。将来的に一緒になったら、本当は果歩に外で無理に働いて欲しくないと思ってるんじゃないかと気になってな」
どうも話しの方向性がおかしい。父はすっかり自分と翔が今すぐにとは言わないが、いずれ二人が結婚しそうな口ぶりだ。
「…何それ。お父さん、そんなこと翔くんから言われたの?」
「いいや、言われた訳じゃない。ただ私が勝手にそう思ったんだ。そのあたりの認識に二人で違いがあったら、今後まずいと思ってな。聞いてみただけなんだ」
「そんなこと言われたことないけど…。それに、私、翔くんと結婚するとか、将来のこと、全然決まってないし」
この果歩の発言に、父親は叱られたようにしょげかえっている。
「どうやら、父さんの勘違いだったらしい」
苦笑しながらこんなことを言う父を、見たくはなかった。
「そうだよ。翔くんと会うようになったのだって、ほんとに最近だし」
「そうか…」
父親は見るからに残念そうな表情をする。
「だからあんまり余計なこと言わないでよ」
果歩は呆然としている父親を残して、自室に戻って行った。
その週の金曜日、約束どおり、果歩を食事に誘った。週末にイベントがあり、そこしか時間を作れない。
基本土日休みの果歩と会ええる時間は限られている。都内に出張していることもあるし、果歩が出勤しているときもある。正職員でない今ですら会いずらいのだから、果歩が正式に市役所に入ったらますます会えるかどうかわからない。できれば果歩が市役所に入ってしまう前に、落ち着ければ一番いい。入籍までしてしまえば、市役所の男性職員を気にする必要もないし、とにかく翔は早く落ち着きたかった。結婚を面倒ごととは考えていなかったが、最終的な目標が定まった今、ぐずぐずしているつもりはなかった。大体、いい歳の男女がだらだらと付き合う最近の風潮も翔の考えには馴染まなかった。決めたならとっとと結婚したい。その後に二人きりの生活を楽しみたかった。
ワインを置いてる店にばかり行っていたので、自然にイタリアンなどになっていたが、今日は和食だった。
半個室になった店は居心地が良く、今日は車なので飲まないが、渡辺ワイナリーのワインも置いてある。
この前、家に送ったとき、付き合って欲しい、と伝えてはいたが、今日はあえてそのことには一切触れないつもりだった。すぐに答えを急かすような真似はしたくない。単純に旨い料理やワインを楽しんで欲しかった。
果歩といると居心地がいい。果歩は子供の頃に躾けられた作法で、きれいに食事をするだけでなく、好き嫌いがないのも翔の気に入ったところだった。生ものもすべて綺麗に食べていた。どこに連れて行っても、出されたものをそのまま食べられる果歩の育ちのよさを信用していた。
最初はどこか打ち解けなかったが、果歩は最近翔の前でも自然に笑うようになった。いつきや真希とこの前に食事をしたあたりから、昔の仲間とも自然に打ち解けているように見える。
「お前、東京で出版社にいたんだろ?」
「いたって言っても、正社員じゃなくて、契約社員だけど…」
「それでもすごいじゃん。編集者とかなりたかったとか?」
「うーん、でも行きたいとこには受からなくて。ファッション雑誌の編集だったんだけど、契約社員しながら受けようと思ってて。ちょうどお母さんの妹が東京に住んでたから、家賃も安く住んでて、だから生活できてたんだけどね」
果歩は困った顔をしながら、正直に話してくれた。果歩について、知らないことがまだまだある。
「こっちに編集とかの仕事ないのは分かるけどさ。だからって市役所でいいのか? 全然関係ない職種だと思うけど」
「市役所も面白いよ? 自分の生活の役に立つし」
「そうか? 外から見てると市役所も忙しそうでストレス多そうだけどな。それよりだったら、うちのワイナリーで広報誌とかホームページの仕事した方がさ、果歩も楽じゃないのか?」
「そんな迷惑かけられないよ」
この言葉に、翔は微かにイラっとした。
「何だよ、迷惑って。そんなわけないだろ」
「そういう意味じゃないけど。ただ、自分の仕事くらいちゃんと自分で決めたいだけ」
果歩は意外なほどきっぱり言い切った。
仕事が見つからないから、何でもいいから働かせて欲しい、と泣きついてきた果歩の同級生の真希とは大違いだ。
果歩は子供の頃からコツコツと地味に努力するタイプだったが、誰かに経済的に頼ろうとする言動が一切ない。むしろ独り立ちしたいという意志が会話の端々に感じられた。
「やっぱり、そういうところ果歩っぽいな」
「そうかな?」
「俺の周りには適当にワイナリーで働かせてくれっていうやつばっかりだぞ」
言っていてどこか情けなくなる。社長夫人とは肩書き的にも大層魅力的らしく、今まで付き合った女たちは、翔と結婚したら、毎日休みみたいなもんで、経済的にも不自由しない楽な就職先に見えるらしい。
「ワイナリーだって大変なのに」
果歩は苦笑しながら言った。
その通りだ。ワイナリーの経営だって決して楽ではないのだ。
「そうなんだけどさ。お前、何となく大勢の中で働くのとか大丈夫かなーと思うんだよな。昔からそんなに人付き合い上手い方じゃなかったし」
翔に言われて果歩はぎくりとする。
確かに、学生の頃から、悪ふざけのノリのよさや大勢で騒いだり、雰囲気で誰かのことを悪く言ったりする空気は苦手だった。役所で働いていても、それを感じる場面は多々ある。観光課など、対外的な仕事をする課にいる職員たちには特にその傾向が強く、役所に入ったら、イベント系の仕事ではなく、もっと地味な、税務課などの実務の仕事ができる部署に行きたいと思っていた。
「たしかに、あんまり得意じゃないんだよね。こんなこと入る前に言ってたらダメなんだけど」
「しょうがないじゃん。人付き合いの上手い果歩って、なんか果歩っぽくないし。お前、どっか昔からノリのいい場所とか居心地悪そうにしてたもんなー」
子供の頃のことを知られているというのは、こういうところで本当に不利だと思う。翔がこんなにも自分のことをよく見ていたという事実にも驚く。
果歩は、自分が思っているより、翔は昔から自分のことを見ていたのかも知れないと思い始めていた。
「なに、これ?」
食事がすみ、食後の飲み物を飲んでいるときに、果歩にブランドのショップバッグに包まれたプレゼントを渡した。果歩は怪訝な顔をしている。まじまじとショップバッグを見て、翔の顔を覗き込んだ。
「何って東京土産。バッグだよ。銀座による時間あったから。果歩、職場に持ってってる鞄、なんかいつも適当なやつだったし」
果歩は複雑な顔をして、袋を開けようとしない。
「バッグ?」
「いいから開けてみろよ。俺が勝手に選んだやつだけど、仕事に持ってくのにちょうどよさそうなの選んだから」
果歩は少し躊躇ってから、首を横に張って、そのままショップバッグを翔に差し戻した。
「だからってこれ、高いんでしょ? 貰えないよ」
「何でだよ」
果歩の表情にカッとなり、明らかに不機嫌な声が出た。
「だって、ブランド品でしょ、これ」
「別にいいじゃないか。もういい歳なんだから、ちゃんとしたの持った方がいいだろう」
「貰う理由がないよ」
果歩のこのひと言にさらに翔はイラついた声を出した。
「一緒に飯食いに行く女にプレゼント買ってくるのなんて普通だろ。何でそんな受け取り方するんだよ。素直に受け取れよ」
果歩が決心したように続けた。
「私、こんな高いの受け取れないよ」
「気にしないでそのまま受け取れよ。そんくらい稼いでるんだし」
「でも理由がない」
頑なな果歩に、翔は舌打ちしたい気持ちだった。
「果歩、この前のことなんだけど」
翔の真面目な声に、果歩はぎくっとした表情をした。
「すぐ答えてくれってわけじゃないんだよ。でもさ、こういうの、普通だろ? プレゼント送ったり。そうやって、みんな気持ちを表現するじゃん」
何故こんな野暮なことを説明しなくてはならないのだろうと、翔は情けなくなる。雰囲気のいいレストランで、渡したプレゼントを返されて押し問答するとは思ってもみなかった。こんなことならこのタイミングでバッグなんで渡すんじゃなかったと思う。
「……でも貰えないよ」
果歩は困ったような泣きそうな表情だった。
「俺だってこんなん返されても困る。気にしないでいいから受け取ってくれよ」
頼む、と言いそうになる。
果歩は不承不承といった様子で、紙袋を受け取った。もっと嬉しそうな顔をすると思ったのに。
「ありがとう。何かお返しするから」
「いらねぇよ。勝手に俺が買ってきたんだから、気にするな」
果歩は観念したように、頷いた。
もっと楽しい雰囲気で過ごせるはずだったのに。
翔はどうにもしっくりこないデートに、思わず舌打ちしたい気持ちだった。
恋する頃を過ぎたら… @tree-kangaroo
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